第27話 想いの軌跡

 早朝に店を開く商人以外、住人達は日中に灯りなど持ち歩かない。

 だから通りが急に暗くなった時、彼女は困惑してしまった。

 丁度一人息子を探して外に出た所で、灯りどころか手には何も持ってなどいなかったのだ。

 午後からは家の手伝いをする約束の息子は、しかし遊びたい盛りの年頃で、しかも成長と共に母親が呼びに来るまで帰らないという小狡さを身に着けてしまった。

 厳しく言うべきなのだろうが、彼女は息子の顔を見るとつい甘やかしてしまうのだ。


 息子はどこに遊びに行くかを告げることはなかったが、彼女には大体の場所は見当が付いていた。

 この街は、大通り以外は不規則に並ぶ家と草地とが点在し、どこからどこまでが道やら空き地やらわからない状態なので遊ぶ場所には困らないのだが、子供達は最終的には大きな木と井戸のある広場に好んで集まる。

 だからこの日も、彼女は迷うこと無くその井戸へと向かっていた。

 そして、その途上で急激に周囲を覆った陰りに行き遭ったのだ。


 最初は雲が太陽を遮っただけかと思っていた彼女も、すぐに自分の手すら見えない暗闇に至って、その異常に恐怖を掻き立てられた。

 何も見えないがゆえにどの方向にも一歩が踏み出せない。

 だが、この暗闇のどこかで我が子が心細くしているのだと思って、勇気を振り絞って手探りで進みながら我が子の名を呼ばわった。

 そうして少しずつ移動していた彼女は、ふと、先のほうに何かの気配を感じ取る。


「坊?」


 透かすように窺う闇の中に、更なる闇の塊があった。

 暗さに馴れて来た目がもぞりと動く塊を捉えて、彼女は用心を捨ててまろぶように駆け寄った。

 途中、何かが地面に置かれていたのだろう、つまずいた彼女は、地面に手をついて我が身を支えることも出来ずに倒れ込み、したたかに肘を打ってしまう。


「坊や?」


 どうして問う声にいらえが無いのだろう? といぶかりながらも、ただひたすらに我が子らしき影に這い寄った。


 次第に、蠢いて見えていたのが、何かにたかる獣のようなモノだとわかり、彼女は小さく悲鳴を上げたが、そのまま、衝動に突き動かされたようにそれらを激しく払い除ける。

 果たして、ソレ等が退いた場所に横たわっていたのは小さな子供と思しき姿だった。

 触れる温もりに、髪の匂いに、記憶に残る姿が思い起こされる。

 彼女はその体を祈るように抱き上げた。

 ふんわりと香る、少し甘い青草の香り。

 彼女の息子は、空腹を紛らわせるためか、口寂しいのか、甘蔓の葉を噛む習いがあった。


「坊や? 坊や!」


 ぐったりとした体が僅かに動いた気がして、彼女はその頭を抱え込んで耳を寄せた。


「かあちゃん?」


 弱々しい声に、今度は確かな聞き覚えを確信し、彼女は我が子を胸に抱く。


「ああ、どうしたの? しっかり、しっかりして、ねえ」


 そっと揺さぶる体に応える力が無い。

 明らかに我が子の体に何かの異常が起きているのだ。

 治療を! と思うが、闇が行く手を阻んでいる。

 周囲からは先程の獣のようなモノなのか、彼女らを目指して蠢く気配があった。

 行き詰まりの恐怖に涙が零れる。


 彼女は夫と結ばれて以来、子供を三人産んだ。

 だが、二人までを幼いままに病に亡くし、無事に育ったのはこの子だけだった。


「どうして」


 彼女の嘆きは自らに向かう。

 自分は子を持つにふさわしくないと、世を治める精霊は思ったのだろうか? だから自分の元に子は留まらないのだろうか? と。

 考えれば考える程自らの罪に思えて、最近いつも腹を空かせていたこの子に沢山旨いものを食わせてやるからと、今日の収穫団の一員として森へと行った夫に合わす顔が無いという想いに押し潰されようだった。

 いっそ我が身が消え去ることすら望んでしまう。

 そうして、絶望の底の見えぬ穴へと向かい掛けた彼女の耳に、突如として鳴り響く鐘の音が飛び込んで来た。

 カンカンカンと間を置かずに鳴らされるそれは警鐘だ。


「あ、かあちゃん……お城へ行こう」


 やにわに腕の中から聞こえて来た声が、思ったよりもしっかりとしていたことに励まされ、彼女は息子に問うた。


「お城に行くの?」

「うん、ご馳走が食べられるよ、また腸詰め焼いてくれるかなあ」


 そういえばと、彼女は思い出した。

 以前警鐘の合図で城に集まった時に振舞われたご馳走の美味しかった話を、この息子はことあるごとに誰彼と無く語っていたのだ。


「そうね、美味しいもの食べたいよねえ」


 ただでさえここの所の品不足で満足に食べさせてやっていないのだ。

 大きく不満を鳴らすことをしない子だったが、小さい体に空腹は辛かったのだろうと思うと、彼女は胸が痛んだ。

 だが、鐘の音で方向はわかるものの、暗闇では辿るべき道の判別が出来ない。

 それでも彼女は果敢に音を辿ろうと首を巡らし、建物の屋根の向こうが赤々と照らされているのに気づいた。

 一瞬、恐ろしい火事を連想して身の凍る思いに襲われた彼女だったが、すぐにそれが多くの篝火であることに気づく。

 その証拠に、煙も火も猛らずに静かに揺らいでいるようだった。


「これなら、お城が見通せる場所なら道が見えるかも」


 彼女は我が子を片手で抱き抱えると、空いた手で周辺を探りながら歩き出す。

 寄って来る獣のような何かは、我が子に仇なした相手だと思うと、蹴飛ばす足にも力が入り、案外と軽い手応えのソレは、そうすると簡単に退いた。


「ご馳走、あるといいね」

「あるさ、騎士様がまた一杯狩ってきてやるって言ってた」


 声にこもる力は弱いが、返る答えはしっかりとしている。

 大丈夫、きっと大丈夫。そう彼女は自らを励ますように胸中で繰り返しながら、暗い道をひたすらに辿った。


 ― ◇ ◇ ◇ ―


 『ソレ』は、今のモノになって以来、初めて恐怖を覚えた。


 相手の大きさだけになら、さして恐れは抱かなかっただろう。

 ソレはその存在となってからほとんどの時間を戦場で過ごしたが、戦場では敵の砦を突き崩すために巨大な建物のごとき兵器が人馬を轢き潰し、壁を突き破るのを間近に見たこともあるのだ。

 巨大さや迫力だけなら、そんな兵器が並ぶ戦場のほうがむしろ人の生死を呑んだ分印象が強くもあっただろう。

 しかし、目前の存在が放つ、生き物としての格が違うがゆえの『威』は、あまりにも圧倒的であった。

 何をどう足掻いても敵わない存在。

 ひと目見ただけでそう確信させる相手に、対するモノは心折れるしかないのだ。

 そして、それ以上に、今そのモノ自身の心と呼ぶべき『核』には、そのモノも想定していなかった深刻な衝撃が生じていた。


「リュウハ、実在したのか?」


 それは地に在る獣としての竜ではない。

 遠い時代に世界を制していたというお伽話の中の存在。

 神と呼ぶに相応しきモノの名だ。


「ならば、コヤツの語ったコトはホントウだとでも言うのか? 命は決してウバえないと」


 魂の汚泥のような存在は、自らの足元に横たわる少年を見る。


「貴様」


 だが、ソレが感慨に浸る余裕は無かった。

 圧倒的な怒りを抱いた巨大な竜は言葉を嵐のように叩き付ける。


「貴様、何をした! その者に何をした!」


 ゴウと風の通らぬはずの地の底に風が渦巻き、何千何万年を掛けて形作られた不思議な形をした岩や天井は大きく抉られた。

 魔女と呼ばれしソレも大きく飛ばされたが、不思議なことに、その間近に横たわる少年はその風の影響を全く受けていないかのようにピクリともその場から動かないままだった。

 吹き荒れる風は収まる所を知らずに荒れ狂い、とうとう堪らずに厚く覆っていた天井も崩落し、瓦礫が積み重なる。

 さすがにこれは予想の外だったのか、その竜は慌てたように横たわる少年の体の上に翼を伸ばして覆い、落ちる瓦礫からその身を守った。

 その隙に、魔女は水の中へと逃げ込もうとした。が、


「逃すか!」


 渦を巻く風が黒いしなびた木のような魔女を捕らえ、締め付ける。


「おそろしい獣の王ヨ、ワレを殺すのか?」


 魔女が軋むような声で問うた。


「元々、我ら竜は世界を在るべき姿に成すのがその定めのようなもの。食えば気持ち悪くなるのは間違いないが、その歪んだエールを食らって在るべき姿に戻してやる。自らと世界を呪いし者よ、今こそその苦しみから開放してやろう」


 巨大で、深い藍に輝く竜、サッズは、荘厳にすら聞こえる声でそう宣言する。

 横たわったまま動かない少年、ライカを気にしながらも、彼にとっては害虫程でしかない目前の淀んだ魂である魔女へと牙を剥いた。


「成らん!」


 だが、魔女は、その神々しき姿を目にしながらも、相手の言葉を否定する。


「成らんゾ! ワレは決して、二度ト、奪われる側にはナラヌと誓いシ身。ソレが悪魔だろうと神だろうと精霊だろうと竜だろうと、ケッシテその思うがままにはナラヌわ! もし、ワレを滅ぼすモノがあるとしたら、それはワレジシンのみ! キサマなどではない!」


 だが、ソレ、死衣の魔女と呼ばれしモノの受けた衝撃は、魔女自身にすら思いもしない変化をその身に及ぼしていた。

 魔女は、遠くに置き去りにした記憶、失ったはずの自我が、微かに、自分の身の内に降り注ぐ霧雨のように蘇るのを感じていた。

 蘇りしそれは世界の全てを憎み、奪うと、自らをことわりの外へと縛った誓い。

 そして更に古く魔女の根源に横たわる、それは遥かな過去に魂に刻んだ最初の誓い。


『妹はあなたが守るのよ』


 ああ、と魔女は思った。

 もし、竜のことわりが正しく、何の罪も犯さずに死んで行った妹の魂が消えずにこの世を巡っているのなら、自分はもう何一つ奪うことは出来ないだろうと。

 二つの誓いは矛盾となってその魂を食い破り、想いだけで存在していた魔女の根底を打ち砕く。

 魔女は自らの言葉の通り、ただ自らの誓いによって消滅した。


「アノ、青い鳥ガ……」


 ただ一つ、暗い闇に開かれた洞窟の天井の亀裂から覗く青い空が、いつか見た白い布に飛ぶ鳥のようだと、消えゆく意識の片隅で感じながら。

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