第147話 海の少女の思い出

 数日雨が続いた。

 濃密な水と土の匂いが、大地をその勢いで浸食する激しい水の流れを伝えて来る。


「俺の思うに、隊商はこの時期を避けて日程を組んでたんじゃないかな?」


 手持ち無沙汰だったのか、ライカはサッズにそんなことを言った。


「人間には未来の天気を識る能力は無いんだろ?考えすぎじゃないか?」

「能力は無いけど記録を綴る文字があるよ。セルヌイが言ってただろ?文字を綴った書物は人の最大の発明だって」

「記録があったからってどうなるんだ?必ず過去と同じことが起きる訳じゃないだろ?」

「例えばさ、小枠の季節が来たかどうかを決めるのはなんかの花が咲いたり何かの芽が出たり、何かの鳥が特別な鳴き方をしたりした時なんだよ。そういうのって昔から記録があって、そこで季節が変わるのがわかったから目印にしてるんじゃないかな?だから記録の中に雨が降る前に必ず起きる現象が見付けられれば、今度はそれを観察すればどの時期に雨が降るかわかるだろ?」

「ふ~ん?」


 サッズは気のない返事をする。


「サッズの場合は、観察なんかしてなくても興味が無くなるとすぐわかるよね」


 明らかに意識を他へと向け始めたサッズに、ライカは皮肉混じりに呟いた。


 二人は結局、雨の間は空を飛ばないことにした。

 理由は単純で、飛ぶことを楽しめないからだ。

 雨に全身を叩かれ、しかも何も見えないのも、雨を遮って風を感じられなくなるのも、雲の上を飛んで雲しか見えないし危険だから結局風を遮らざるを得ないのも、どの選択も爽快感からは程遠い。

 現在二人は途中で見つけた森の中の洞窟を拠点に、雨が止むの待ちながら狩りを行なっていた。

 しかし、長雨だけあって、生き物の気配は薄く、植物もまた土にまみれて元気が無い。

 ライカはいくつかの木の花芽から食べられる種類の物を見つけ出していたが、到底それだけで過ごせる訳もなく、長く動けないことに耐えられなくなった生き物が、我慢が切れて雨の中に飛び出すことを期待して待っていたのだが、残念ながらそういう兆しも見つからなかった。

 あまり収穫の無いまま戻った二人は、干し肉と堅焼きパンと木の花芽という味気ない食事を口にする。

 乾いた木の枝などあろうはずもなく、火は起こせないのでそのまま齧るだけだ。


「あのさ」

「ああ?」


 ライカの唐突な呼び掛けに、サッズは軽く返事をする。


「前に飛んだ時に、この森の先に小さい池みたいな所があっただろ?あそこに行ってみないか?魚は雨の時に水面近くに上がって来るし、捕り易いかも?」

「魚か、それもいいな」


 ライカは濡れた体を絞った服で拭うと、敷き布を広げてそこに寝転がる。

 明日も雨だとわかっている彼らは、一食しか食べられない分体力の温存のために早々に体を休めることにしたのだ。

 そういう所はいかにも動物的な二人である。


 翌日、空に上がると、たちまちライカは息が詰まった。

 何しろ口にも鼻にも雨が入り込もうと打ち付けて来るのだ。

 その窮状にサッズが提案した。


「やっぱり弾こうか?」

「うん、頼むよ」


 素直にそう頷いたライカのため、サッズが周囲を膜のように覆って外気を弾き、その範囲から雨を退けた。

 雨水で窒息することはなくなったが、それにしてもライカには何も見えない。

 ひたすらサッズ任せで灰色に暗い空を飛んだ。


「う~ん、こんなに飛ぶのがつまらないと、やっぱり雨を浴びてもいいから風を感じたい気持ちになって来るから不思議だ」

「言っとけ、そろそろ池が近いな。それにどうも人間の集落もあるみたいだぞ?」

「ほんとに?でも交換する物も無いし、お金も無いし、行っても迷惑なだけだろ、最初の予定通り池を目指そう」

「ほいほい。ところでそのまま池に突っ込んでみるか?」

「きっと魚が警戒して深い所に潜るだけだと思うから止めよう」


 サッズは高いところからスピードを殺さずに水に頭から突っ込むのが好きなのだが、水の中の様子などまるで探らずにやるので色々と困った事態になることもある。


 そういえば、とライカは思い出す。

 ライカが彼女と出会ったのもそのせいだったな、と。

 刺激された記憶が、虹色の鱗を持つメロウの少女との出会いを鮮やかに描き出した。

 胸には覚悟した痛みは無く。むしろ、ライカはぼんやりとした暖かさを感じてすらいた。


(こんな天気だから?それとももう遠い存在になってしまったから現実味が薄れて辛さが無くなったのかな?)


 ライカはそう考えて、そっと胸の奥に抱いていた思い出を開放する。


 ― ◇ ◇ ◇ ―


 その日、空は青く澄み渡り、輝く太陽がジリジリと肌を焼く程暑かった。

 いつものようにライカを足にくっつけたまま、サッズは錐揉むように海に突っ込み、水の圧力の抵抗を楽しんだ。

 多少のカバーが入っていたとは言え、その勢いを受けたライカは、自然なことの運びで、水中に投げ出される。その状態から丸めた体を思い切り開いて、自身を翻弄する水流に対抗しようとしてみた。


『おおおお、グルグル回る~』


 結局は不規則な水の勢いに流されることになり、それはそれで思う存分その感覚を楽しんで、ライカは、目を水面に向けて、ふと、違和感を覚えた。

 人間に近いシルエットが水面に浮いていて、その黒く影になった端の方が何やらキラキラと光っている。

 水を蹴って近づいてみると、上半身は人間のようで、下半身は魚の尾のようになった何かが意識を失って浮いているようだった。


『サッズ、何か巻き込まれたみたいだよ』

『ん?食えそうか?』

『食べたいと思える感じじゃないよ、もしかしたらこの子と話が出来るかも?』 

『なんだ高位種族か?面倒そう?』

『とりあえず意識が戻ってみないとなんとも言えないな』


 なんとか出来ないかと何気なく触れてみた相手の、そのあまりの柔らかさに、ライカはびくりと手を引いた。

 うっかり傷を付けてしまうのではないかと心配したのだ。

 だが、その僅かな刺激で、それは意識を取り戻す。

 ゆっくりと開かれた目は、海藻のような揺らぐ翠の色をしていた。


 ― ◇ ◇ ◇ ―


「彼女は言葉とか持たなかったし、最初はどっちも驚きと混乱で最悪だったのに、どうやって仲良くなったんだったかな?細かいことは全然覚えてないんだよな」

「お前、俺にはそいつの話をするなとか言っておいて、堂々と思い出してにやけてるのはどういうつもりなんだ?」


 池の間際の少し開けた場所で、本能的な身震いに任せて水気を払っていたサッズが茶々を入れた。


「ふいに思い出したんだよ。きっと雨ばっかりで水の中にいるみたいな気分になったからじゃないかな?」

「海の水は雨と違って辛いだろ、まあいいか、俺は心が広いから気にしないでいてやるよ」

「サッズの心が広いんだったらこの池も底が抜けてそうだね」

「底が抜けてたら水が溜まる訳ないだろ」

「そうそう、だから遠まわしに有り得ないって言ったんだよ」


 ブンと大気を切る音が響き、足をすくわれたライカは盛大に転んだ。

 何しろ雨続きの地面だ、ライカの全身はたちまち泥にまみれる。


「やったな!」


 それはサッズの尾が素早くライカの足を払った結果だった。


「弟の口の悪さを躾けるのも兄の役目だと思うからな」


 もっともらしい言葉と共に、ライカの反撃にどこ吹く風と対応し、羽を打ち振るうと、殴り掛かろうとしていたライカが風を受けてまた転ぶ。

 ゲラゲラと笑うサッズに怒ったライカは、今度は泥を固めて投げつけ始めた。

 結局ライカのお腹が鳴って二人が空腹を思い出すまで続いた泥合戦で、すっかりドロドロになった彼らは、そのまま池に入って魚を捕るついでに体も洗う羽目になったのだった。

 意外なことに、好奇心に溢れた魚が逆に寄って来て、大漁ではあった。


「あん時はみんな心配してたんだぞ」


 また洞窟に戻った二人は、ライカが荷物から引っ張り出した貰い物の炭を使って魚を焼いた。

 炭は火を着けるまでにとんでもなく苦労する羽目となったが、一旦火が着くとずっと熱を発し続けて、最近温まることの無かった彼らの体をも温める。

 体が落ち着くと、なんとなく話はライカが拘っていたメロウの少女のことに戻った。


「別に心配することなんか無いだろ?サッズだってしょっちゅう言ってたじゃないか。女の子と付き合おうと思うのは男として当然の気持ちだって」

「そりゃあ将来ちゃんと意中の相手とつがうためにはたっぷり経験を積んでいた方がいいからさ。お前はあん時まだまだ幼体のくせに本気で番の儀式をするとか言い出すからだろ。しかもメロウ族とか最悪だ」


 ライカはむっとした顔をサッズに向ける。


「種族はどうでもいいだろ?彼女は彼女だよ」

「バカ言え、メロウってのはつがうという意識さえない種族だぞ、お前にすぐ飽きて他の雄に気持ちが移るに決まってる。種族的な気質ってのはあるんだよ。そもそもお前ら言葉を交わしたことすらなくて、お前が勝手に思い入れてただけだったろうが」

「言葉なんか無くったって気持ちはわかるだろ」

「その時の気持ちはな、お前はほんと、頑固だよな。そもそももう納得して終わったんだろうに」

「彼女が成体になるまで俺が生きていることはまず無いだろうって言われたら、仕方ないじゃないか」


 ライカは言葉を切ると、気持ちを輪から切り離して体を丸めるように横たわる。


(寿命か)


 その時ライカが受けた衝撃は、きっとあのメロウの少女との初めての恋が叶わないとわかったからだけでは無かったのだ。

 彼ら、ライカを慈しんで育ててくれた家族が、いつか自分が先に失われるのを見守らなくてはならないのだということに気づいたからこそ、ライカにとってあの出来事は辛い思い出になったのである。


 以前母が死んだ時、ライカは実はそれ程の哀しみを覚えなかった。

 ライカの年齢がその頃はまだ五歳程度であったこともあるし、元々意識のある状態の彼女との時間が多く無かったこともあったかもしれない。

 なにより、失うという事の意味を、ライカはまだわかっていなかったのだ。

 成長し、家族との違いを感じるにつけ、ライカは唯一の同じ人間であり、人の世界で生きていた母を懐かしく思うことが増えた。

 そして、思い出す度に、もっと自分は母に何かしてあげられることがあったのではないか?と思うようにもなったのである。

 しかし、既に失われた者が戻るはずもない。

 母には自分しか居なかったという事実に思い至り、もっとちゃんと話を聞くべきだったと後悔しても、全ては過去に終わったことなのだ。

 そしてその経験から、メロウの少女との寿命の差を知らされた時に気づいた。


 自分はいつか彼らの、竜たる長命の家族の後悔という痛みになってしまうのではないか?と。


「ライカ、おい、寝たのか?」


 困ったようなサッズの声に、ライカは自分の思考の海から浮上した。


「起きてるよ」

「なんで輪を外すんだよ、もうあの女の話はしないから機嫌直せよ」


 サッズが困ったようにそう話し掛けるのをライカはあえて無視してみせる。


「明日、雨が上がったら海を見に行かないか?」


 突然の話の変転に、戸惑うサッズを尻目に、ライカは笑みを浮かべて丸めていた体を伸ばした。


「海って?おいおいちょっと遠いぞ?というか一番近いのはあの街の反対方向になるぞ。凄い遠回りなんだが」

「いいだろ、別に急ぐ訳じゃないし、全力で飛べばすぐだろ」

「ま、いいけどな。明日はなんか美味いもん食おうぜ」

「そうだね、人間の街を探してみる?」

「慣れると癖になるよな、調理してある食べ物ってのは」


 クスクスと笑うと、ライカは自分とサッズの輪を繋いで気持ちを分け合った。

 どこかホッとしたサッズの心を感じて、ライカは安心すると大きくあくびをする。


「おやすみなさい」

「おう、おやすみ」


 二人はゴツゴツとした洞窟の中で眠りに抱かれた。


 無意識の、形にならない流れが螺旋を描いてゆっくりと巡る。

 竜の輪は、人には見えぬ世界で、まるで呟きを零すように小さな輝きを放っていた。

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