第137話 奥方様と話そう!其の二

 ふわりと香ったその匂いに、ライカは思わず目を細めた。


「懐かしい」


 思わず呟いて、出されたお茶を見る。

 それはもはやお茶と言って良いのか悩むような物だ。

 柔らかなクリーム色のそれは、表面に彩りのように茶色の粉を振られている。

 その粉が肉桂の粉だろうという事はその独特の匂いでわかった。

 乳と肉桂という組み合わせは、ライカにとっては特別だ。

 山羊の乳と竜桂樹の内皮で溶かした僅かな竜の血とで、赤子だったライカは育った。そしてその竜桂樹の皮の発する匂いは、この肉桂の皮の匂いとほとんど同じなのだ。

 半ば死にかけていた赤子だったライカは、その体がもはや普通の乳だけでは生きられない状態だったのだと聞いている。

 竜の血の力は強すぎる。しかも人間の赤ん坊に使った前例が無い。

 そのため、竜王達はかなりひやひやしながら彼を育てたとのことだったが、苦労の甲斐あって、なんとかこうやって育ったのである。

 

 そんな、ライカ自身としての記憶が構築される前、本能のままに生きていた乳幼児の頃にしか味わったことが無いはずの味を、ライカは懐かしいと感じた。

 それはとても不思議な感覚ではある。

 今までも肉桂の匂いを嗅ぐと、どこかホッとした幸せな気持ちになっていたが、ここまではっきりと懐かしさを覚えたのは初めてだった。

 一方のサッズはというと、思いっきりカップに顔を突っ込んで幸せそうに味わっていた。

 サッズの方も事情は同じような物だが、彼は山羊の乳で育ってはいない。

 サッズは竜なので、そのまま竜の血を竜桂樹で溶かした物を飲んで育ったのだ。

 どちらにせよ、肉桂と同じ匂いが彼らにとっての最初の記憶に焼き付いているのは確かであり、サッズの場合は、幼体時代とはいえ曖昧ながら記憶があったはずなので、ライカよりももっとはっきり覚えている分、懐かしさもひとしおだろう。


 ライカのほうは一気に飲むのは勿体無くて香りを嗅いではちびちび口にしているので味わい方としては真逆だが、お互いらしいと言えばらしい行動だった。


「お気に入られましたか?若い方だから甘みも欲しいのではないかと蜜も落とさせてもらったのだけど、どうですか?甘すぎないですか?」


 もてなし側であるリエスンから、微笑ましいと思っているとありありとわかる顔でそう尋ねられて、懐かしさの一端にハチミツの味わいもあるのだとライカは気づいた。

 もちろんそれは記憶の無い幼い頃の物ではなく、つい最近出来たもう一つの故郷である西の街での記憶だ。

 僅かな期間とは言え、離れたことによる郷愁が、懐かしさとなって心を動かしたのだろう。


 あの街ではハチミツは普通の嗜好品扱いであったが、この王都では薬として高額で取引されていた。

 そのことから、ふと、この乳茶という物の値段がどれ程の物かという考えに至ったライカは、少々顔が引き攣るのを感じる。


「あ、はい。とても美味しいです」


 テーブル中央にデンと置かれた菓子にしても、ライカはこれ程色合いが鮮やかでまるで細工物のように飾られた食べ物をこれまで見たことが無かった。

 本当に食べる物なのか?という疑念が湧いて、なんとなく手を出しかねてしまう。


 そんな彼の気持ちを見抜いたかのように、リエスンは立ち上がると、その菓子の横にある長いナイフ状の物に手を伸ばす。

 一瞬、サッズの体がぴくりと反応したが、彼女はそのままそのナイフ状の物で大きな芸術品のような菓子を切り分けた。

 彼女が切り分けた物を、横に付いていた若い女性が取り分けて皿に移し、ぐるりとテーブルを回ってサッズとライカに配る。


 そう、驚きと言えば、このお茶と菓子と共にやって来たこの女性も驚きだった。

 金色の髪を丁寧に結い上げたこの女性は、ライカやサッズに話し掛けることも、更にはリエスンにすら話し掛けることもせずに、黙々と彼女を手伝い、まるで、言葉も無しに相手の考えがわかるかのように振舞っていた。


 ふと、その所作の端々にライカの記憶が刺激される。


「もしかして、この方も女官さんなのですか?」


 ライカの発言に、リエスンは僅かに首を傾げると、答えた。


「そうね。実際には女官という職は無いのだけれど、でもそういう厳密な話よりも認識のし易さのせいで、城などに働く女性は一般的には女官と呼ばれているわ。だからそれで言えば彼女も女官と言っていいでしょう。親しい方に女官の人がいらっしゃるの?」

「あ、はい。いえ、親しい訳じゃないのですが、領主様の所でこういう感じにきびきびとした動きをする方がいて、その方が女官頭だと聞いたものですから」


 実際には女官という職が無いという言葉に引っかかりは覚えたものの、ライカはふと浮かんだ記憶の向こうの女性を幻視した。

 骨の太い頑強そうな体つきと、強いまなざし、そして柔らかいが強い言葉。

 ライカが人間世界に来て、初めて美しいと感じた女性だった。

 記憶の彼方に霞んだ名前を手探りで引っ張り出そうとライカが唸っていると、


「セッツアーナ、良かった、あなたは彼女を見知っているのね」


 そうリエスンが嬉しそうに言ったのだった。

 今正に口に出そうとしていた名前を先に言われて、ライカは驚いてリエスンを見る。

 彼女の顔は今までの会話の中でついぞ見せなかった表情に彩られていて、それはいわゆる喜色であろうとライカは思った。


「私の親友というのは彼女なの。とても素晴らしい人でしょう?」


 まるで自身のことを誇るように親友を語り、目を細めるその姿に、ライカはこれまで彼女に対して感じていた隔意が薄れていくのを感じた。


(この人は、もしかしたら本当は凄く情熱的な人なんじゃないかな?)


 上気した頬と輝くようなまなざしは、彼女を華やかに大きく見せた。

 そうしていると、彼女には威圧感よりも他人を惹き付ける魅力が勝る。

 この女性の自身の喜びは、他人の心をも沸き立たせる力があるようにライカは感じた。


「凄く素敵な人でした。お城で立派な兵隊さんを叱りつけていましたよ」

「まあ」


 くすくすと笑って、彼女はふと胸を押さえる。


「良かった。とても案じていたのです。私の我儘であの方に付いて行ってもらったのだけれど、慣れない場所で苦労を掛けているのではないかと思って」

「そうだったのですか。あの人が奥方様の親友の方だとは気付きませんでした。それなら帰ったら奥方様にお会いしたことを伝えましょうか?」

「そうね、いえ、そのまま伝えてもあなたが怪しまれるだけかもしれないわ。私から二人に手紙をしたためましょう。そのお茶を楽しみながら少し待っていただける?」

「喜んで」


 つい正直にそう答えたライカに、女官の女性がすかさず乳茶を継ぎ足してくれる。

 ライカは、もしかするとこの女性は竜のように相手の心情が読めるのかもしれないと思った。

 とっくに茶を飲み干していたサッズのカップにもちゃんとお茶は継ぎ足されていて、どうにもサッズが大人しいのはそのお茶と甘い菓子に夢中になっているからのようだった。

 ライカもようやく覚悟を決めて、目前の装飾品のような菓子を食べてみる。


「甘い!」


 それは、実際にはそんな一言では表現出来ないような味だった。

 硬さと柔らかさ、突き抜けるような甘みとそれをどこか抑えるような微かな苦味。甘みはハチミツの物とは違う、今までに味わった事のない物で、苦味に近い何かは何かの木の実を薄く切った物から来ているようである。

 ライカは仰天して、こんな食べ物を創り上げる人間の凄さを改めて感じた。

 それは決して手を加えない自然な状態で味わえる味ではない。

 人が加工して初めてそこに生まれた味に違いないのだ。

 こんな食べ物を口にしてしまった後では、ほぼ素材の味のみの普段の食事が貧しく感じられるのではないかと心配にさえなった程だった。


「気に入って貰えたようで嬉しいわ。うちには探究型の料理人が多くて、色々素敵な物を作ってくれるのだけれど、私のお客様は本当に少ないから勿体無く思っていたの。何しろ数年来、一人息子と孫達ぐらいしか訪ねて来ないものだから」

「お孫さんがいらっしゃるのですか?」

「ええ、年齢的にはあなた達に近いわね。三人兄妹で仲が良くてとても良い子達なんだけれど、両親と周りのせいで苦労しているみたいなの。そもそもは私が悪いのですけどね。若い子にしわ寄せが行くのを見ているしか出来ないのはとても辛いものだわ」


 リエスンの悲しそうな顔にライカは胸を突かれ、自分の信じていることを口にした。


「仲の良い兄弟がいるのなら、きっとなんとかなりますよ」

「そうね、本当に、そうなって欲しいわ」


 ライカの確信に満ちた言葉にもどこか寂しげに応えながら、彼女は手元に用意した皮紙に文字を綴っていく。

 そのペンもライカの見たことの無いような物で、どうやら鳥の羽の空洞を使ったもののようだった。


(そうか、鳥の羽の芯の部分は空洞だもんな。草の茎より丈夫だし、インクを使った時はあれのほうが便利そうだ)


 ライカ達は普段文字などあまり書かないが、書く場合は炭のカケラや白い石を使う。

 その場合文字は大振りになるので手紙のような小さな物に書くのには少しふさわしく無いのだ。

 なので、しょっちゅう皮紙や薄皮紙を使って記録する城の人や立派な商人達はインクという液状の色の付いた物を細い筒状の物に吸い上げて、尖らせた先で文字を書くのである。


 その筆記具としてライカが見たことがあるのは中が空洞の草の茎を使った物だけだったが、この鳥の羽という物は中々良さそうに見えた。

 ちなみに中が空洞の草は大きくなるとパイプとして使われたりもする。


「兄弟ってのは頼り合うものだからな」


 ワンテンポ遅れて、どうやら菓子を完食したらしいサッズが口を挟んだ。

 その口調から先程の、下水路でのことをまだ根に持っているようだった。


「スゴクタヨリニシテルヨ、オニイチャン」


 ライカは心を込めない言葉で応じる。


「絶対、いつか俺に助けを求める時が来るからな!」


 ギリギリと歯を噛みあわせてサッズが悔しげに言葉を押し出した。


「まあ、あなた方は兄弟だったの?全然気づかなかったわ、ごめんなさい」


 二人のやり取りに、リエスンは驚いた顔で謝罪する。


「あ、いえ、血は繋がってないんです。家族ではあるんですけど」


 そのライカの説明に、訝しげだったリエスンは笑みを見せた。


「そういうことね。それならうちの孫達にもいるのよ、そういう兄弟が。そうね、それで言うならあの子達は四人兄弟ということになるわね。そう、あなた達の言う通り、きっと大丈夫なのでしょう。若い人達の力を信じるのも大事なことだものね」


 彼女は自分に言い聞かせるようにそう言うと、書き上げた手紙に丸い吸い取りを押し当ててインクを定着させ、暖炉で少し乾かして、二枚のその手紙をくるりと巻いた。

 それを幅広の紐で見るからに複雑に縛ると、暖炉にくべていた小さな焼印を取ってそれに押し付ける。

 ジュッという音と共に、皮が焼ける匂いと、何か金属が焼けるような匂いが部屋に流れた。

 しかし、その匂いは甘い菓子の香りに紛れるように、その不快さに鼻に皺を寄せる暇もなく、直ぐに薄れて消えていったのである。

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