第118話 始まりと終わりの夢

「ただいま戻りました」


 ライカは手の込んだ扉を苦労して開けると、店の方で給仕をしているらしい女主人に挨拶をした。

 市場を探し歩き、その上突然見知らぬ誰かに荷物を盗られてから続いた様々な出会いと、あまりにも多くの出来事に、宿に帰り着いたときにはライカはさすがに疲れて半ばぼうっとしていた。


「まあまあお帰り、どうしたね?」


 まるで自宅に戻った家族を迎えるように言葉を掛けてくれる宿の女主人、ステンノの心遣いも今ひとつ上手く消化出来ない。

 ライカは一つ頭を振って意識を切り替えると、つとめて明るく返事をした。


「ああ、いえ、ちょっと疲れてしまって」

「そりゃあ初めての場所で歩き回れば疲れるさ、ましてや市場なんて商人の売り込みで息も吐けない場所だからね。ほら、こっちに座ってお茶でも飲みな」

「ありがとうございます」


 気を取り直して店の中を眺めると、他に客としてテーブルに着いているのは昨夜も顔を合わせた人のようだった。

 まだまだ人間の見分けには難のあるライカだが、相手が手を上げて挨拶をすれば、それは初対面ではないと理解するぐらいには人馴れをして来ていたのである。


「こんにちは、今日は早いですね。お仕事はお休みですか?」


 仕事という物は、職業によって違いはするが、常に商売に飛び回っている商人や店持ちの店主以外は、毎日働くという感覚は薄い。

 色々な所に雇われて日銭を稼ぐか、技能持ちならそれを発揮する仕事を請け負うかといった感じで、不定期であるほうが大多数なのだ。

 ライカはあまり詳しくは無いが、農家にも農閑期という物があり、長期畑仕事をやらない期間があるらしいことを農園で耳にもした。

 なので、職を得て働いている人間が昼間からのんびりしていても、そう不思議なことではないと思っている。

 そんな訳でライカは特に気にせずに、男に話を振った。


「ああ、いや、すぐに仕事が入るんだがね、客の注文した品を探してお届けする仕事なんで、目当ての品が入荷するまでは暇な訳だ」


 男が話すと、少し鼻にツンとする匂いが漂う。

 彼の杯に注がれているのは白く濁った液体で、酒とは違う薬のような匂いだった。


「うん?これが気になるか?これはヤギの乳を発酵させたのをわざわざまた火に掛けて酒精を飛ばしたやつにハーブを加えて煮出しした薬酒でな、僅かばかりの酒の匂いを味わえて、ついでに気分をすっきりさせる効果があるのさ。酔う訳にはいかない仕事前にちょいと引っ掛けるのに良い感じの飲み物なんだぜ」

「色んな飲み物があるんですね」

「そうだな。俺でも全部は知らないくらいだ」


 言って男は笑うと、ライカの未来にと杯を掲げて飲み干した。

 農園の食事前にも似たようなことを行っていたのを見知っていたライカは、そういうのがこちら風なのだろうとなんとなく思う。


「坊やにはこれがいいだろう」


 そう言ってステンノが出して来たのが、やはり白い液体で、しかし、男の持っていた薬酒のツンとするような匂いはしない。

 湯気と共に、暖かく、ほのかに甘い香りがした。


「角牛の乳に甘味木の根を加えた飲み物だよ、この辺りでは角牛を耕作や運搬に使うからヤギの乳より安く手に入るんで、もっぱら子供の飲み物といえばこれになるのさ。それとあたしの特製の焼き菓子だ」

「ありがとうございます。頂きます」


 温かい飲み物というのは不思議な物で、疲れを癒してくれる効果がある。

 ほの甘い飲み物と独特の癖のある木の実をまぶした焼き菓子は、まるでライカの興奮した気持ちをとろりとした膜で覆うようにゆったりと抑えて、ふんわりとした暖かさで包んだ。


「らんらかたのしいれすね」


 飲み干した温かい液体が少しずつ体に沁み込むのをはっきりと感じ取って、少し首を傾げる。

 感覚の一部が鋭敏になり、同時に意識が鈍化していた。

 ライカは、そういえば今、ちょっと呂律が回らなかったなと思ったが、その事実が何故か酷く可笑しい。

 くすぐったくは無いのに笑いの発作が収まらなかった。


「変わった反応だな、普通はこう、ぼーっとなって自分では何も考えられずにこっちの言葉に従うもんなんだが」

「こういう子が偶にいるんだよ。過剰反応だろうって薬師は言ってたけど、そういう子は覚めるのも早いらしいから急いだほうがいいよ」

「なるほどな、おい、坊主、行くぞ」


(行く?)


 疑問が一瞬過ぎるものの、ふわふわとした気分がそれを包み込む。

 誘われるままに立とうとするが、ライカは足下を踏みそこねてまた椅子に座り込んでしまった。


「ちっ、めんどくせえな」


 よいせと掛け声と共に、男はライカを肩に担ぎ上げると、そのまま歩き出す。


「待ちな、子供を担いで歩いてたりしたらこの辺りでさえ怪しまれること請け合いだよ。荷車はどうしたんだい?」

「さりげなく入り口に付けとけって言っておいた」


 男の言葉を受けて、ステンノは窓から外を覗いた。

 すぐそこに藁を積んだ上に覆いを被せた簡素な荷車が停まっていて、人夫らしき男がその場でのんびりと石合わせをして暇をつぶしているのが見える。


「あんた、店の前で何してるのさ、さっさとどけなよ」


 ステンノの怒鳴り声に、その男はさも嫌そうに顔を顰めると、ノロノロとわざとらしく入り口を横切るように移動し始めた。

 彼女は顔を引っ込めると、扉の前でライカを担いで待機している男に合図を送り、その巨体に似合わぬ素早さで店の扉を内向きに開ける。

 男は、荷物さながらライカを荷車のめくれた片側から藁の中に放り込むと、手早く覆いを直し、その覆いの端にある通し穴に荷車に繋いであるロープを通して固定した。


「全く、あんたはいい世話役だぜ。後は頼んましたよ、『おふくろさん』」

「なに、若い子が都にあてられて行方をくらますなんてよくあることだからね。あのお貴族様の坊やも憤慨するだろうけど諦めるしかないじゃあないか」

「まるで婀娜あだな遊び女のようだな、都ってやつはよ」

「本当にね、だけどちゃんとした大人が導いてあげれば、道を誤りかけた子だって最良の道に辿り着けるのさ、努力を惜しむべきじゃあないだろ」

「俺たちゃあとびっきりのいい大人って訳だ」

「皆がいい気持ちで暮らせるのは素晴らしいことだよ、あたしはそのほんのお手伝いをするだけさ」


 笑顔で見送り、女主人はキイと軽い音を立てて、「我が家」という名の店の扉を閉じる。


 近所の住人は時折ふと、その下宿屋に長く留まる下宿人が居ないことに思い至るが、人の出入りの激しいこの都ではそれはそう不思議なことでもなく、日常の喧騒の中へと吸い込まれるように疑問も忘れられて埋没していった。


 ― ◇ ◇ ◇ ―


「いい匂いだ」


 どこかふわふわとした心地で干し草の柔らかな匂いに包まれて、ライカはくすくすと笑った。


(そういえばこれ、サッズの好きな匂いだ)


 好きなくせに草を刈り取って干すという作業は面倒だと言ってやらないんだよなと呟く。

 断続的に耳に届く音に、ライカの意識はそのまま過去へと飛び、やたら葉っぱの大きな古い大樹の葉擦れの音を思い出した。


(子供の頃、いつもあの木の傍で遊んでたっけ。セルヌイが何千年も生きている木だって言ってたな。そういえば、あの木を見なくなったのはいつからだった?)


 ふと、まるで脈絡無く思い出す荒れ果てた乾いた大地。

 枯れた草原で日差しを浴びたサッズが「これは嬉しい匂いだ」と言っていた。

 ライカは思い出す。

 自分が途切れてしまった時のことを。

 

 朱玉が太陽の光を浴びて輝き、世界の色が少し変わった。


『キンイロノ ヒカリヲ ノミコンダ アノヒ』


 ガラガラと、荷車は石畳にお馴染みのうるさい音を響かせて、複雑な王都の路地を通り過ぎて行った。

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