第91話 今、ここにある風景
落ち着く場所が見付からなかった二人はとりあえず道端に腰を下ろした。
目前を沢山の人の足が行き過ぎるが、誰も彼等を気に止めたりはしないようだ。
ライカは手の中の丸めた大きな葉を広げ、中にある焼いた肉をサッズに差し出した。
「ご所望の肉だよ」
「肉だけの匂いじゃないな?いろんな香りが混ざってる。それにこの獲物、仕留めてからかなり時間が経ってるな」
「うん、なんだっけ肉を熟成させるまでに味を落とさないように赤辛味の葉っていうのを詰めて保管するんだって。ここよりずっと暖かい国に棲んでいる鳥なんだけど、獲ってから十八日目ぐらいが一番美味しいとか言ってた」
「十八日!腐らないのか?いや、もしかして熟成ってのはわざと腐らせてるのか?」
「ええっとね、腐らせるのと熟成って違うらしいよ。とにかくこの肉がその国から届くのに船で十日前後ぐらい掛かるんだけど、仕留めてから何日目かは普通は売る人も知らないんだって。だから素人だと一番美味しい時期の前に料理してしまったり、本当に腐らせてしまったりするんだそうだよ。でも熟練の料理人なら見ればわかるとか言ってた」
「色んな技能を持った人間がいるんだな」
「凄いよね、うちのじっちゃんも木を細工させたら凄いけど、色々な人が色々な技を身に付けてるんだね」
手のひらより大きく切り取られた一片を、サッズはぱくりと口に放り込む。
「ふむ、美味いけど、焼いた肉の味だよな、違いはわからんな」
ライカも倣って摘み上げた肉を口に入れたが、流石に大きすぎて一口には納まらず、半ばから噛み千切って残りを手に持ったまま咀嚼した。
「美味しい!なんかこれ凄く美味しいよ?」
口の中に広がる味にびっくりしたのか、ライカはいつまでももぐもぐと口を動かして中々飲み込まない。
サッズは耳を澄ませている人のようにちょっと首を傾げると、納得したように頷いた。
「お前の感覚だと味を複雑に感じるな。俺には元々無いものだからわかりにくいが、確かに一種の満足を覚える」
「サッズ、もう一個も食べていいよ、俺は炒り豆食べるからこれだけで十分」
「ああ、食うよ。しかしこれ、風味付けは一種類じゃないんじゃないか?それに僅かに塩の香りも感じるぞ、焼いた塩かな?」
「サッズは食べ物の味は大雑把にしかわからないけど、匂いには敏感だもんね。いいな、俺もサッズみたいに感覚を共有出来ればいいんだけど」
「お互い無いものねだりだよな」
ライカの言葉にサッズはしみじみと口にした。
そんなサッズにライカは言う。
「たまにはわがままもいいんじゃないかな?ここの所周りは他人の大人ばっかりで気を張ってたし、冗談とかわがままを言い合う雰囲気でもなかったしね」
下働き仲間が耳にすれば、「伸び伸びしてただろうが!」とか言われそうだが、彼等は心からそう思っていたのだ。
食べ物を詰め込んだせいか、二人は機嫌よく笑い合うと、残った食べられない葉を地面に捨てて、今度はのんびり元来たほうへと戻り始める。
「それにしても流石になんかぐったりしたよ、あの人混みは暴力だよ、一種の」
「あれに突っ込んでいけるお前の勇気に乾杯だな」
サッズがおどけてみせた。
「乾杯って何?」
「酒を飲んだ連中がそこかしこで言ってるんだよ。『乾杯!』ってのは何かを称える言葉らしい」
「それって酔っ払いだよね?」
ライカは疑わしそうにサッズの言葉を聞いて、眉を上げる。
酔っ払いの奇行をさんざん目にしてきたライカは、彼等のどんな行動にも倣う気にはなれなかったのだ。
「お前酔っ払いに厳しいよな。でも連中に言わせると人間の男は酒を飲まなきゃ一人前と認めてもらえないらしいぞ」
「うちのじっちゃんの言うことには、男はバカを晒せるようになって初めてまともに仕事が出来るようになるとか言ってたよ。よくわからないんだけどさ」
「お前のとこのじいさんは俺も好きだぞ。というか、今思えばあの街はいい所だったな、気持ちの悪い意識の持ち主が少なかった」
サッズは遠い目をして呟いた。
「気持ちが悪いって?」
「ほら、あの用心棒みたいな連中だよ、まぁあそこまで酷いのは滅多にいないけど、あれを薄くしたようなのは結構この街にもいるぞ」
ライカはあの騒動を思い出して、精神的な寒気を感じる。
「あの人達、楽しそうだったね、他人を傷付けることを心から楽しんでた」
「ああいった突き抜けたのとは違うが、人間が多い場所では他人を傷付けたいと強く望む心がよく漂ってるぞ。あの感覚は熟成じゃなくてまさしく腐ってるって感じだな、胸焼けがする」
サッズは覚えたての言葉を使って見せてちょっと得意気だ。
ライカはあえてそこは聞かなかった振りをした。
「人は、」
口にし掛けた言葉を一旦切ると、ライカは一人、自分の考えに沈むような表情で続ける。
「一人では本当には生きていけない。必ず誰かを必要とするものだって、母さんは言ってたし、互いに分かち合うのが人だってサルトーさんも言ってたけど、傷付け合うこともそのお互いを必要とする分かち合うってことの一種なのかな?それとも俺にはまだわからないだけで、何か違う意味があるのかな」
ライカの独白に、サッズは呆れたように言った。
「お前、本当に難しいことを考えるのが好きだよな。そんな理屈がわかったからって何が変わるんだ?起こっていることに名前を付けて当て嵌めても、結局は自分が満足するだけの話だろ?それはまあそれでいいことなのかもしれないけどさ」
「知ろうとすることは大事だってセルヌイは言ってたよ。弱い生き物であるはずの人間が栄えたのは、知ることを諦めなかったからだって」
「あいつのたわごとなんか放っておけよ、あいつは変わり者だし、結局はそれで暇つぶしをしてるだけなんだ。いわゆる永遠の王の退屈ってやつさ。定命の者が真似るようなもんじゃない」
「あのさ」
ライカはじっと自分と共に育った家族の、兄弟の顔を見つめた。
長く見慣れた濃紺の鱗の煌きはそこには無いが、深い藍の色のまなざしは変わらずそこに超然としてある。
「もしかしたら、サッズは竜王になりたくないの?」
世界が変わったからもう成れないとか、力が足らないからとかそういうことではなく、サッズの言動には昔からどこか竜王達との立ち位置の違いを感じさせるものが多かった。
ライカは向こうにいる時からずっと感じていたそれを、今の言葉で確信した気がしたのである。
サッズは別に言い淀むでもなく、そのライカの疑問にスラスラと答えた。
「あそこは豊かで力に溢れた場所だけどさ、あそこに『今』は無い気がするんだ。それはきっと『竜王』も同じなんだと思う。エイムのあの空間のような感じでさ、風が動かない凪みたいに感じるんだ」
ほうっと吐き捨てるような溜め息を吐いて、サッズは慣れない『心情を語る』という作業を続けた。
「俺は『今』を生きたいって思うんだ。眠ってるのか起きてるのかわからないような、平和なまどろみなんかは欲しくは無い」
サッズはそこで急に何かに思い至ったかのように口をひん曲げてライカをじと目で見た。
「別にあそこを出る口実の種にお前のことを利用してる訳じゃないぞ、それはそれこれはこれだ」
ライカはクスクスと笑う。
それぞれの想いの隔たりっぷりが余りにも酷すぎて、つい笑えて来たのだ。
サッズは繋がっている意識から流れ込むライカの憂いを、二人の繋がりを自分自身の目的のために利用したと思われたからだと判断したのだろう。
それはそうだ、サッズにしてみれば自分が永遠を生きないことなど憂うべきことがらではないのだから。
(今を生きるか)
不思議だった。
ライカは確かにあの場所に永遠を見ていた。
竜王達の永遠と、過去が終わらずに続く世界の永遠。
優しく猛々しく恐ろしい、だが眩しい程に美しい世界。
だが、まさか、そこに最も相応しいと思っていた竜であるサッズから『今』という言葉が飛び出すとは思いもしなかったのだ。
「俺は、かっこいいと思うよ、今を生きたいっていう気持ちは」
「そうか!」
ぱっと顔に喜色を灯し、瞳を輝かす彼の兄がそこにいる。
「でも、俺はサッズに長く生きて欲しいとも思ってる。そりゃあもちろん、俺よりずっと長く生きるんだろうけどさ」
「先のことなんかわからないだろ?今がここにあればそれでいいんだよ」
「サッズはバカだから、何も考えて無いだけなのかもしれないって思った。今凄く」
「バカじゃねぇよ!」
頬を抓もうとする指を掻い潜り、夕暮れの光に満ちた、まだよく知らない道をライカは走った。
「バカだよ!サッズは!でも俺の大事な兄さんだ!」
「お前なあ!訳わかんないぞ」
街の様子が変わっていく。
道の角に備え付けられた篝火が薪ではない何かで灯され始めた。
そこからジリジリという音と、ツンと鼻を刺激する匂いが漂って来る。
「おいこら、宿の方向はそっちじゃないぞ!」
サッズは場所の位置が空間的に把握出来るので、違う方向に向かうライカに疑問を呈した。
「そりゃそうだよ、左に左にぐるぐる回るんだから方向は違うさ」
ライカは道に従って移動しているので時折方向が違ってしまうのは当たり前だと知っている。
「なんでそんな面倒なことしたんだよ!」
「道を覚えやすいからに決まってるだろ!バーカ」
追いかけっこになっている二人を、今度は通る人や警備の兵が呆れたように見送った。
中には楽しそうに笑いながら眺めている人もいる。
(不思議だ。道端に座ってた時には誰も俺達に見向きもしなかったのに。俺達は何も違わないのに、ちょっとしたことで何もかもが変わってしまう。人は、世界は不思議だな)
きっと、サッズがこの先に見る世界も、新鮮で驚きに満ちているのだろう。
それは決して美しくは無いのかもしれないけれど、そこには生きた世界があるはずだ。
ぼうっと考えて足取りが鈍ったのか、追い付いたサッズが横合いからぎゅむっと頬を抓む。
「痛い!」
「俺の心の痛みに比べれば大したことはないぞ。まぁ実際痛みってのはよくわからんがな」
サッズはいかめしくそう言ってみせるが、抓み上げたライカの顔を見る表情は今にも噴き出しそうだった。
次の瞬間二人は顔を見合わせて笑ってしまう。
「じゃあサッズの先導で宿に辿り着いてみせたらもうバカって言わないでいてあげるよ」
「お、聞いたぞ!約束だからな!」
「うん」
その後、なまじ方角がわかるだけに逸って宿のある通りとは違う道を並行に進み、建物に隔てられてしまって道を選べなくなったサッズがスゴスゴと引き下がり、それを引き継いで最後には先頭に立って歩いて宿の扉を開けたのがライカだったということは、ライカ自身にとっては別段不思議でもなんでもない結末なのではあった。
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