第56話 香りの癒し場

 この街には、というかこの地域には、年間を通して二度、雨季と呼ばれる時季がある。

 一度は花の季から夏へと移る時に、神の抱擁とも呼ばれる嵐が吹きすさぶ嵐の季。

 そしてもう一度が夏の終わりに延々と降り続く、嵐を伴わない雨の季だ。

 雨の季の雨は、咲き誇る花を散らし、実りへと導く。

 人々にとって、ややもするとうっとおしい時季ではあったが、続く秋の楽しみに心躍らせる時季でもあった。

 雨が止めば美味しい物を食べられるのだ、と。

 そうやって、雨が止む日を待ちながらも、人は常とそう変わらぬ営みを続ける。


 びっしょりと濡れながらも、じっと城門の前に立ち続ける歩哨達に、ライカはいつものように頭を下げる。

 彼等は見知った少年に、簡単に「何処への用か?」とだけ問い、返事を得ると途端に興味を失ったように不動の姿勢へと戻った。

 ライカはいつもながらの彼等の我慢強さに感心しながら城の表門を抜ける。

 すっかり慣れた城内の目隠しの多い道の奥に、目的の場所はあった。


「この雨の中まで手伝いに来なくてもいいのですよ?そもそもオイルの分はハーブ屋のサルトー氏からもう代品として貴重なハーブをいただいてますし。あなたはこれまで既に数日手伝ってくれました。これ以上働かせると、私は余分にお代をいただく欲深者と後ろ指を指されてしまいます」


 辿り着いた治療所で迎えてくれた、先生と呼ばれている人、ユーゼイックは、水を滴らせたライカに、奥の部屋にある炉辺を勧めた。

 火の熱によって水気を除く為に、この時季にも関わらず火勢を強めにしてある部屋の奥の炉には、独特の、しかし悪臭とは決して違う匂いを漂わせる薬鍋が掛けられていて、いかにも治療所らしい薬臭い匂いの一端を担っている。

 この雨の日々に出歩く人々は、乾き易い織り目の粗い服を着て、外から帰ればこうやって火に当たって体と服を乾かすという、いささか面倒な手間を掛けねばならず、自然と外へと出る回数は減っていった。

 但し、礼節等必要ない小さな子供達等は、まだまだ気温が高い事もあり、素っ裸で元気に外を駆け回っていたりもするのだが。


「あの時は無理を言ったのは俺だし、サルトーさんは商品のお代を払っただけでしょう?迷惑を掛けた分のお礼を俺がするのは当然だと思うんです」


 ライカの言い分に尚更困ったようなユーゼイック先生の顔に、ライカは言葉を継いだ。


「それに、正直に言うと、本当は俺がここが好きなんで、来る為の理由が欲しかったっていうのもあるし」


 ライカのその告白に、ユーゼイックはやや驚いて目を丸くしてみせる。


「病気や怪我をして治療所に来るのが嫌だという人は一杯いますが、ここが好きという人は珍しいですね。いや、本当は好きと言われるのは困るのですが」

「困るんですか?」

「それはもう。患者さんが二度と来ないで済むように施術するのが私たちの仕事でもありますからね。好きだから病気や怪我をして何度も来たいという人でも現れたら愕然としますよ」


 笑って、乾いた布でライカの頭を拭くと、その布をそのまま渡す。

 礼を言って、自分でも頭を軽く拭いて、次いで体のまだ濡れている部分を拭き、じっとりとしてきたその布の置き場所に困っていると、助手の女性が手を伸ばして受け取ってくれた。


「わしも好きじゃよ、可愛い娘さんが親切にしてくれるしのぅ」


 同じように炉辺で寛いでいる老人達の一画から声が上がる。

 彼等の服は既に濡れておらず、やや炉からは離れた場所にたむろしていた。

 こんな雨の日にお年寄りが何人も訪れている事は不思議であったし、彼等の誰も病気や怪我をしている風でもない。


「ほら、ここを好きとおっしゃる方々はああいう困った方が多いですからね。こんな雨の日にまで押しかけて来られるし」

「なに、ここに来れば我が家の薪を減らさずに済むからの、少々の雨なんぞ気にならんよ」


 薬茶らしきものを啜りながらすっかり寛いでいる老人達にユーゼイックは肩を竦めて見せた。


「ああやって私達治療する人間を困らせて喜んでいるんですよ」

「治療というとどこか具合が悪いんですか?」

「みなさんもうお年ですからね、歳月の経過でお体のあちこちに具合の悪い部分があるのは当然です。関節がスムーズに動かずに痛んだり、目が霞んだりとか、そういう具合で、急に悪くなったり、急に良くなったりする類の病ではないのですけど、具合が悪いと言えばその通りですね」

「なんと!先生がわし等をおんぼろ扱いしておるぞ!」

「やれやれ、嘆かわしい事じゃのぅ」

「雨に濡れて体力も落ちたでしょうから、今日のお薬はちょっと強めの苦いやつになりますね」

「おお!何か今日は調子が良いぞ!薬はいらんかもしれんのぅ」「わしもじゃ!」


 騒ぐ老人達を苦笑して見やって、ユーゼイックは再びライカに向き直る。


「ほら、ここが好きだという方々はこの調子で。私としては同じような事を言い出す方にはつい身構えてしまうのです」


 ライカは彼等のやり取りに、声も出せずに笑ってしまっていた。

 ユーゼイックの情けなさそうな顔を見て、慌てて真顔に戻る。


「俺がここを好きなのはハーブの匂いが好きだからです。薬草園でハーブを栽培しているのを見て、俺も自宅でちゃんと育てたくなって、お手伝いかたがた育て方を習いたいという気持ちもあって来ているんです」


 口の端に残る笑いを押さえ付けながら、そう告げると、ユーゼイックはふむ、とうなずいた。


「そういう事なら手伝ってもらうにやぶさかではありません。何しろ慢性的に手が足りないのは確かですからね」

「はい、よろしくお願いします」

「むしろお願いするのはこちらでしょう。しかし、聞いた所によると、貴方はバクサーの一枝亭で働いているとか、忙しいのではないですか?」

「お店はお昼時と夕方だけなんです。だから朝は空いていて、時々サルトーさんの手伝いをしたり、子供達に本を読んであげたりしてるだけなんで、良かったらそういう空いた日に色々手伝わせて貰えると嬉しいです」

「ほう子供に本を、という事は字が読めるのですか?」


 やや驚いたようにユーゼイックが呟く。


「あ、はい」

「それならいい事がありますよ。私が薬草について纏めた書がありますから、それを写して貴方に渡しましょう」

「ええっ!」


 ライカは思わず驚愕の声を上げてしまった。

 書という事は皮紙か草紙を綴じたものに違いない。

 そういう物がどれ程高価か、自分がそれを好きなだけにライカは知っていた。

 どう考えても他人にポンとくれてやるようなものではないのである。


「だ、ダメですよ、とんでもなく高価なものなんでしょう?貰う訳にはいきません」

「いえ、用紙は研究用にと国から補充される品目の一つです。決して安価なものではありませんが、特別高価というものではないのです。売り物の本が高いのはその作る手間の為で、そこは私がさして綺麗でもない字で綴る訳ですから、高価になりようがないのですよ」

「でも」

「これはお手伝いをしていただく上でのお願いでもあります。薬草の中には扱いの難しい物もあり、何より種類が多い。そういったものを一つ一つ説明していては却って余分な時間を取られてしまいます。そうなると折角手伝っていただけるのに意味がない事にもなりかねません。貴方が予備知識を自分で身につけてくださるととても助かるのですよ。まぁ分からない所はどんどん聞いてもらって構いませんが」


 ライカは少し考えて、ユーゼイックに言った。


「という事は、もしかすると、俺の申し出は今まで迷惑だったんじゃないですか?」


 ライカの顔に不安が浮かぶ。

 他者の意を汲む事を苦手としているライカである。

 自分の満足のみの親切の押し売りをしていたかもしれないと思うと、情けない思いに襲われたのだ。


「いえ、手伝いがいてくれると有り難いのは確かです。特に患者さんの多い時などは手を掛けなければならない薬草園の世話もおざなりになってしまいがちで、何度か貴重な物を駄目にした事もあるのです。だから、手伝って貰えるのならなるべく本腰を入れて手伝っていただきたいだけなんですよ。早朝や夕方に少し手を貸していただけるだけでかなり一人一人の負担が違いますからね」


 ライカは穏やかなその療法師をじっと見た。

 偽りやごまかしを言ってる感じは彼にはない。

 何よりも、そのもらえるという本に対する抗いようのない渇望を、ライカは自分の内に感じていた。


「あの、」


 若干、自分の厚顔さに顔を赤くしながら、ライカはユーゼイックに応える。


「それじゃ、その本をいただきたいと思います」

「良かった。では写しておきますから、出来上がったらお渡しします。それまでは時々来て、簡単な作業をやって貰えるならその働き賃に特製のハーブ茶を分けて差し上げますよ。本で学べるようになったらハーブの苗を株分けしてあげますから、試しに育ててみてください」

「え?苗までいただけるんですか?」

「だって、仕事をしてもらえるんですから、報酬が必要でしょう?お金の方がよければそうしますが」

「ハーブの苗の方がいいです!」


 勢いで言ってしまって、またまた顔を赤くする。


「良かった。それなら私も自分が損をせずに済みますからね。ハーブは植物で育てれば増えるものですから、あまり損になりません」


 悪戯っぽく言ってみせてふわりと笑う。

 ライカはなぜ老人達がここにしょっちゅう来るのかなんとなく分かった。

 街の人達が健やかに在る為に力を尽くしたいと言う彼は、とても安心出来る先生である。

 複雑に絡み合う香りも相まって、ここは老人にとって心配の少ない心地の良い場所なのだ。


 ライカはすっかり体が乾くと、早速手伝いを申し出て、先ほどから世間話に興じているお年寄り達の相手をする事になり、その我侭っぷりに振り回される時間を過ごした。

 しかし、祖父に慣れているライカからすれば、彼等の相手は決して嫌なものではない。

 結局は、到底手伝いに来たとは思えないぐらい楽しく時間を過ごす事となったのだった。

 仕事へ行く為に昼前に帰ろうとすると、お年寄り達に一緒に飯を食おうと引き止められる羽目になったぐらいである。

 そして、帰りがけには先生と次の約束をして、すっかり満足して食堂へと向かった。


 だが、バタバタとした時間を抜けて気持ちも落ち着いた雨の中の帰路で、ライカは、自分がお世話になったお礼として治療所を手伝う予定だった事を思い出した。

 色々とうっかり舞い上がり、ちゃっかり報酬を約束させてしまった自身のうかつさと共に、道々足元に跳ねる泥にズボンが汚される光景を暗澹たる気持ちで眺める。


「先生には敵わないな」


 嘆息するしかないライカではあった。

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