第50話 夜の歌

 それは小さな呟きのような心声こえ

 初めに響くそれは、むずがる子供を小さく揺さぶる優しいゆらぎ。

 次に生じるのは空気を震わせる声。それは人間の耳には微かな唸り声のように聞こえるだろうもの。

 低く単調に揺れる声と心と思考のずっと奥にぽかりぽかりと生じる泡のような心声こえが重なる。

 子供はその遠くて近い心声こえを追い掛けている内に、音として響く声に揺られて眠りに就く。

 この手のあやし唄は血族毎の特徴があるらしいが、ライカは竜王達から聴かされたその唄しか知らないのだから、他の、ましてや唄を求める彼女、フィゼの血脈に馴染んだ唄を知るはずもない。

 この唄で彼女が納得するかどうかは分からなかった。

 一方で、ライカ自身が歌う事があるとは思いもしなかったその唄は、ライカに強い郷愁を覚えさせる。

 それはライカがまだ極々小さな頃、伸ばした手の先にあった大きな目が、脳裏にまざまざと蘇った。


『うむ、良い唄じゃ。我の記憶には無いはずじゃが、血の中に響き、融けていくようであるの』


 彼女はもはや太古の天上種族と呼ばれる竜とは種自体が違ってしまっている地上種族の竜であり、繋がるとしてもそれは彼女からは遥かに遠い源の唄だったが、フィゼは満足そうに喉を鳴らした。


「そうですか、それは良かった」


 ライカは、そっとフィゼから手を離すと、その足元に腰を下ろす。

 それを見下ろして、鋭い牙を見せながら、フィゼが笑った。


『そなたは度胸だけは良いのう。未だかつて、人間で我が足元でくつろいだ者はおらぬわ』

「求愛に来た訳でも争いに来た訳でもありませんから」


 ライカが頭上を見上げると、独特の文様のように波打つ鱗の並びがぼんやりと浮かび上がる。

 夜なので光り輝く様が見れないのがライカとしては残念でならないが、薄い闇に浮かぶそのぼんやりとした様もまた心を捉えるものではあった。

 そもそもライカからすれば、巨大な身体の下に潜り込むようなこの場所は、長く慣れ親しんだ居場所ですらある。

 恐怖という感覚があるはずもなかった。


『王の雛は翼の下が恋しいか?なぜに巣立ち前に住処すみかを離れたのじゃ?』

「踏み出さなければならない事は分かっていました。踏み出す勇気がやっと出来たからそうしただけですよ」


 ライカはふと心のままに、要望の無かったもう一つの唄を口ずさむ。

 夜の唄だ。

 一つの唄を口にしたせいで、無意識に思い出して歌ってしまっていたのである。

 夜をまといながら響く、長く尾を引く狼の遠吠えにも似た、魂の呼び声。


『おやおや』


 含み笑うと、首を伸ばし空を仰いだ彼女の返歌が響く。

 他にも近くから重なるような返歌がいくつか、もの問いげな調子で届いた。


「なんだ?聞き覚えのない竜の声がするぞ」

「本当にありゃあ竜か?夜鳴き鳥の声じゃないのか?」

「馬鹿が、鳥に竜が応えるもんか」

「いや、長尾鳥の鳴き声には応えていたのを見た事があるし」


 人間の気配が動くと共に、外から話し声が響いてくる。


「あ」


 ライカは慌てて自分がどこにいるかを再認識した。

 すっかり彼女の住屋にでも来た気でいたが、そういえばここは馴染みの薄い王都の人間達が集う逗留地である。


『ふふ、そなたまこと退屈させぬな。こんなに面白い思いは久方無かったわ』


 フィゼはどうやらこうなる事を承知でいたらしい。

 面白がって慌てるライカを楽しそうに眺めていた。


「悪趣味ですよ」

『いかようにも言われてやろうぞ』


 すまして答える彼女に脱力して、ライカは急いで意識を引き戻す。


「とにかく野生竜が入り込んだりすれば大変だ。確認しておこう」

「そうだな、朝の餌やりに行って、いきなり見知らぬ竜に食われてはたまらん」


 どうやら竜の世話係が不審に思って様子を確認に来るらしい。

 ライカは溜息を吐くと、囲いの片隅、影の濃い部分に入り込み、小さくうなるような独特の言葉を発する。目立たなくなる例のまじないである。


『おお、なにやら見つけ辛くなったの、面白い技じゃ』

『お楽しみいただいてなによりです』


 女性に対するにはやや失礼ではあったが、本当の意味での不機嫌さを示す唸り声を一つ返して、ライカは静かにことわりのズレを保持した。

 パタン、と軽い音と共に、人間の背丈程の高さの場所に穴が開き、灯りが差す。

 やや遅れて、反対側からも同じ音がして灯りが覗いた。

 どうやら随所に覗き窓があるらしい。

 灯りが照らし出す範囲は狭いものだが、竜程の巨体となれば見えぬはずもないと彼等は思っているのだろう。

 数箇所が開き、あちこちを照らし出すと、ようやくその動きが終わった。


「ふむ、やはり鳥かな?」

「お姫様がお起きになっておられるぞ、明日寝不足で機嫌が悪かったりすると大変だ、『災いは地に埋めよ』ってな」

「違いない、俺も縁起をかついで最初の一杯を大地に捧げとこう」

「最初の一杯って、お前もうしたたか飲んだのではないか?」

「もちろん飲み直しの最初だ」

「なるほど、ものは言いようだな」


 男達が笑いながら遠ざかって行く気配がした。

 ライカはほっと息を吐くと、その場に座り込む。


「なんとかなったな」


 出掛けに出会った自分を失った老人の言葉が思い起こされる。

 彼は、人は恐ろしいものは無いものと思いたいのだと言っていた。

 竜番の彼等にとって、野性の竜などいないに越した事はなかったのだろう。

 だから小さな変化など見逃したのに違いない。


『少し物足りなかったが、まぁ良い、良い夢を見れそうじゃ』


 悪びれずくつろぐフィゼを疲れ切って見上げたライカだったが、仄かに月に照らされる彼女はやはり美しく、心惹かれる存在だった。

 男は女に振り回される。きっとそういうものなのだ。

 王達の教えを思って諦めの境地をかみ締める。


「もう遅いので帰りますけど、最後に少しお伺いしたい事があるのですが」

『なんなりと申すがよいぞ』


 その機嫌の良さに、何かもやもやしたものを感じながらも、ライカは気になっていた事を彼女に問うた。


「あなた方は卵の内から人に育てられるとの事ですが、卵を産んだお母さんはどうされたのでしょう?」

『ふむ、そなたの言いたい事は分かるぞ。我ら女は自らの卵を決して他者に渡したりはしない。自らの命に賭けてもな』

「はい」

『しかし、もし人と母との間に争いがあれば、それは我の内に刻まれる。そうであれば我は人を憎んだであろう。しかし、この心の内にはいささかの爪痕もない』

「どういう事でしょう?」

『卵であった我に分かろうはずもない。しかし、人は狡知に長けた種族よ、いかようにしてか成らぬ事を成したに違いないわ』

「そうですか」


 ライカは少し考えて、礼を言った。


「ありがとうございました。色々考えてみます」

『ふふ、そなたなかなか辛抱強くて良い男の素質があるようじゃの。羽が硬くなったら挑んでみぬか?』


 不意打ちの誘い言葉に、ライカは闇の中で顔を赤くして立ち竦む。


「あ、いえ、あの。ありがとうございました」


 彼女はその様子を見て、楽しそうに笑い転げた。


『ああ、良い夜であったわ。子に歌う唄を覚えたし、かわゆらしい雛にも会えた』

「……もしかして、からかわれたのですか?」

『まさか』


 伝えられた否定は、どこに掛かるか分からない。

 ライカは諦めて、彼女に去る事を伝えると、地を蹴った。

 囲いの境で雲に月が入るのを待って、ひたすらに闇の世界を上昇する。

 風がライカの周囲を渦巻き、段々と空気が冷え冷えと締め付けた。

 高く、高く、彼方の夜に見た境の消えた世界へと、ライカの意識は切り替わり、世界の中の自分の場所を把握する。

 フィゼとの出会いと懐かしい唄とが相まって、過去に引き戻された意識の中で、夜の暗闇を抱く竜の唄が、世界の中で小さなその身体を震わせて響き渡る。

 細く高い歌。

 眼下の竜達、そして深い森に棲む狼達がそれに応えて唱和する。

 ほとんど本能に突き動かされるように歌ったライカだったが、おかげですっかり身体が軽くなっていた。


「昔は夜によく木の上で歌ってたな」


 クスリと自分に笑って、足を踏み出す。

 異端な存在を排除しようとする天上の荒き風を反動に使い、方向はさして気にせずに自ら吹き飛んだ。

 くるくると上下も分からないぐらいに回転して、その手荒い感覚に笑い声を上げる。

 その自分を引き裂こうとしている力に抗う事が心地良かったのだ。

 しかし、やがてさすがに息が切れてきて、ライカはゆっくりと下降した。

 目標となる地上の明かりを確認しながら降りると、野営地がかなり離れて右手に見える。

 という事は街から遠い方向に下りてしまったという事だ。

 ライカは少し自分に呆れた気分になったが、気を取り直して、背の高い木の梢に降り立ち、かなり遠回りながら街へと向かう道筋を探した。

 人として過ごした時間をうっかり無にするような自らの今夜の振る舞いに今更ながらに気付いてしまい、気持ちまで下降する。

 明らかに女性の竜との出会いに舞い上がっていたのだ。


「すっかり長い夜の散歩になったな、まぁ夜はどうせじいちゃん帰ってこないし」


 暗闇で苦労して梢を渡りながら、自分に言い訳するようにそう呟くライカではあった。

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