第49話 女神の誇り
「まったく坊やはたいしたもんだよなぁ」
「普通、守備隊に面と向かって口利くだけでびびっちまうもんだけどな」
「んで、結局あのオイルはどっから持ってきたんだ?」
「さぁ?城の中かららしいが」
「城?まさか領主様に頼んだのかな?」
「俺が知る訳ないだろ?それより良いのか?奥方が心配してるんじゃないのか?」
普段手作りの装飾品を露天で売っているホルスは、今まで市場で店を構えている人間とさほど深く付き合った事はなかった。
挨拶ぐらいはするが、それだけである。
なので、自分の隣の椅子でしたたか飲んでいるハーブ屋のサルトーとの距離をいささか測りかねていた。
おまけに、彼は今までまともな家庭を持った事がない。
妻もいて小さい子供がいるこの男が、なぜ家にすぐに帰らずに酒場に自分を付きあわせているのか、全く理解出来ないでいたのだ。
「いいか、女房ってのは心配しすぎてその心配が収まると、次の段階として怒りっぽくなる。つまりだ、今家に帰るのは自殺しに行くようなものなんだ」
「はあ」
「寝入った頃を見計らって帰るのが一番良いんだ。お前もいずれ家庭を持つなら覚えておけ」
「はあ」
酒場の常として、この店には酒と料理を配るカウンターと店に点在している雑多な椅子があるだけなので、客はてんでに椅子に座って、或いは立ったまま飲んでいる。
テーブルは何か賭け事等をする為のものであり、申し出て初めて出されるようになっていて、普段は奥に重ねて置いてあった。
なぜかというと、
「おらおら、おまえら!場所を空けろ!レーイリアさんが踊りを見せてくださるぞ!」
「うおおう!」「待ってました!」
途端に歓声を上げる者、足を踏み鳴らす者、口笛を吹く者で酒場が騒然となる。
そう、酒場にテーブルがないのはこうやって踊りや音楽や他の様々なものを楽しむのに場所を作る必要があるからなのだ。
「すげぇ!美人の踊り子だなぁ、オイ」
「あ?お前ここ初めてか?レーイリアを知らんのはもぐりだぞ」
「俺は滅多に酒なんぞ飲まん」
「寂しすぎる人生だな」
「煩いわ!む?あそこにいるのはライカのとこのじいさんじゃないか?」
「本当にもぐりだな、ロウスじいさんはレーイリアの今のコレだぜ?」
「うえ!おいおい、いくつ年の差があるんだよ」
「知らんが、あのじいさんやたら女にもてるんだよな。俺もあやかりたいぜ」
「いや、お前、女房いるだろ」
夜のしじまに僅かに灯る明かりの一つにはそんな賑やかな夜の営みがあった。
街でそんな事が起こっているとは全く知らないまま、先ほどまでその明かりを空から眺めていた少年は、今、かつて経験した事がない程の緊張と共にある。
白い滑らかな身体の巨大な女性竜は、そのまなざしをライカにひたと据えたまま、感情を読ませぬ口調で彼に呼び掛けた。
『そなたはおかしな感じじゃな、人の子のはずなのに微かに竜の気配がする。じゃがまぁ竜としてもまだ雛であれば、無礼を血で購えと言う程に我は狭量ではないわ』
「ありがとうございます」
酷くまごつきながら地上に降り立つと、ライカはしばし考えた末に言葉を発した。
「あの、御身に触れて挨拶をする許しをいただけますか?」
『ほう、そなたは勇気があるな。男が女に触れる時には命を賭けるものと決まっておるものを』
ぞくりと背筋を走る電流のような感覚に、ライカは少し後じさった。
「う、いえ、俺はその、女性への普通の挨拶を知らないもので、すみません」
『まぁ雛ではいた仕方のない所じゃが、男女間に普通の挨拶など存在せぬよ。生きて伴侶になるか死して我がいずれ抱く命の糧となるか、そのいずれかだけじゃ』
「そうだったのですか、普通に触れるのも駄目ですか?俺は家族以外との思念会話が触れてないと出来ないので、その、言葉が届き難いと思うのですが」
『ふむ、ほんに、そなたは分からぬの。竜ならば触れる必要などないし、人ならたとえ触れようと、そもそも言葉を伝える術を知らぬ。構わぬ、我は人との会話に慣れておると言ったであろ?触れる必要などない。普通に話せばよい』
「はい、そうします」
男女の付き合い方など詳しく聞いた事の無かったライカだが、むやみに女性に触れるのはかなり失礼な事なのだと理解した。
彼女が寛容なのかどうかすら、比べる相手のないライカには分からない。
それはこうやって出会う事で一つ一つ知っていくしかないのだ。
「挨拶を、白き輝きの女神よ。我はライカ。今はこの先の人の街に住まうも、三竜王の子であり、見ての通り未だ雛たる者です」
『ほう、我が血がその言葉に響きを感じるぞ。そうかそれが正式な挨拶なのだな。我は返す挨拶を知らぬが、血の導くままに応えよう。我はフィゼ、人の手にて育ちたる地の竜じゃ』
彼女、フィゼはぴんと伸ばしていた尾を緩やかに巻くと、伸ばしていた首も下ろす。
『ふむ、なるほど挨拶を交わすと緊張が解けるものなのじゃな、他の竜が近付くとどうしても苛付くものだが、こういう緩和方法があったとは』
「ちゃんと挨拶を交わすと、もっと輪を触れ合えるのですけど」
ライカは自分の目の下をこすってみせた。
フィゼは目を細める。
『それは異性とはやらぬが良いぞ。我ら女にとって輪の家族以外の男は敵も同然。身に触れさす事なぞ有り得ぬ』
「そうなんですか、女性に会ったのは初めてなので。失礼しました」
再びひやりとした気配を感じて、ライカは息が詰まった。
『雛たるは仕方のない事とは言え、異性への訪問に何も手土産がないなぞとは男の沽券に関わろうものを。そも、我らが竜の血の源たる
「あ、」
自身の失態に気付いて、ライカは頭を抱えた。
本来は贈り物を携えて出向かなければ、戦いを挑みに来たと思われてもおかしくない。
元々は何か花でも携えるつもりでいたのだが、ごたごた続きですっかり忘れてしまっていたのだ。
男の竜はあまり同族間の戦いを好まないものだが、女性は違う。
彼女達は無遠慮にテリトリーを侵す者を酷く嫌うのである。
女性の竜などに今まで出会った事のないライカにはそういう意味での危機感が抜けていた。
『まぁよい、そなた先に花で歓迎してくれたであろう。覚えておるわ。それと、一つ頼みごとがあるのでな。それで無礼は忘れてやろうぞ』
すっかり冷や汗をかいてしまったライカを楽しそうに眺めた後、彼女はにこやかにそう告げた。
「覚えていたのですか?」
『良い香りの花であったからの。道中は酷かったゆえ、癒される心地であったわ』
「それは良かったです。それで、頼みというのはなんでしょう?」
なにやら少々からかわれている感じがしたものの、この美しき女性の機嫌が良いのならそれはライカにとっても嬉しい事である。わざわざ本意を問い質すのは止めて先を促した。
『王の雛よ、王は
「子守唄の事ですか?」
『そうじゃ、人の手で育てられた我らは血に潜む源の歌しか知らぬ。いずれ母となるにはそれは情けなき事』
「意中の方がいらっしゃるのですか?」
その言葉に、ライカは思わず聞いてしまった。
『ほっほ、そこらの地べた這いの事を言っておるのか?あんな連中傍にも寄せぬわ。まあしかし、この地におりゃる勇ましき翼のお方ならば考えもするが』
「あ、お城の勇ましき翼を持つ方をご存知なのですか?」
彼女の言うのが領主の半身であるアルファルスであると悟って、ライカは問うた。
『まだほんの初心な娘時代にお会いした事がある。あの時、あの方は果てなぞ知らぬように空を舞っておられたものだ』
城にいる翼竜のアルファルスを思い出して、ライカは少し心が痛んだ。
彼は今はもう高い空には上れまい。
『しかし、歌が知りたいのは恋をしているからではない。単に悔しいからじゃ』
「悔しい?」
『そうじゃ、我が子に聴かせる歌が余りにも少ないのが悔しいのだよ。我ら女は子を育てる為に在るようなもの、それは誇りでもある。我は、そうじゃな、単に誇り高く在りたいのだ』
「分かりました。俺の歌は少々下手ですけど、お役に立つのなら、あの、それと」
ライカはやや躊躇った。
「やはり、御身に触れるお許しをいただけませんか?歌ならば尚更
フィゼはすっと目を細める。
恐ろしいが、その美しさに思わず惹き込まれそうになって、ライカはごくりと喉を鳴らした。
『なるほど、そなたの主張は正しくはある。よろしい、我が手の爪に触れる事を許そうではないか』
「ありがとうございます」
ライカは触れた途端に引き裂かれるのではないかという恐怖と戦いながらその手の先に鋭く続く爪に触れた。
そして殺気に近いプレッシャーが明らかにフィゼから放たれている。
(わざとだ)
贈り物を忘れた事への嫌がらせなのかどうか、彼女はどうもライカをびくつかせて喜んでいるように思えた。
それが分かっていながらも、ライカには触れた場所に熱が灯るような嬉しさがある。
しかし歌を歌うには、その様々な雑念をとりあえずは今は払わなければならない。
ライカは一つ溜息を吐くと、もはや遠い昔に聴いたように思える子守唄を思い出す為に、自らを育んだ偉大な家族へと思いを馳せたのだった。
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