第10話 人の輪
色々な脂が混ざり合い、独特の艶を帯びるようになった木製のテーブルを古布で丁寧に磨き上げる。
店を開ける前の準備で一番大事なのは掃除だ。
特にこの店は食堂なので、散らかっていたり汚れていたりすると、お客はなんとなく料理の中身も不味いように思ってしまう。
気合を入れて当たらなければならない作業であった。
「どう?家の方はもう落ち着いた?」
やたらと気合を入れて最初の作業に集中しているライカに対して、すっかり全ての作業が体に馴染んでいるミリアムは、全く力みがなく自然に素早く次の作業に移っていく。
「あ、うん。あ、俺もう終わるから、水汲みは俺がやるよ」
掃除に使った桶の水を表に撒いて、そのまま奥から天秤棒を取り出したミリアムの様子を見て、ライカはそう声を掛けた。
食堂の水汲みはかなりキツイ仕事だ。大瓶にして五杯分を満たさなければならないのである。
「じゃあ、一緒に行きましょう。二人の方が早く終わるし」
ミリアムはにっこりと笑った。
井戸は早朝のこの時間が一番混む。
近付くにつれ、女達のあけっぴろげな笑い声と、子供達のクスクスという潜めた笑い声が届き始めた。
「この辺りは古くからの住人と新しい住人が混ざっていて、商売関係の新しい人も入れ替わり立ち変わりやって来るの。だから自然に他の地区よりお互いを知り合う為の親睦の場は盛況になるのよ」
それでなくとも井戸の端は順番待ちの間は社交場と化す。
水汲みというのは大概女性か子供の仕事だ。
なので、その性格的なところもあって、自然とおしゃべりが始まり、身の回りの情報交換となるのである。
男達が酒場で集まると始める、お上の悪口や賃金の愚痴等とはまた違う色合いの社交場がそこにはあった。
ライカとミリアムも行儀悪くひっくり返した桶に座って、順番を待つ間に会話に加わる。
そんな中で、新参者のライカに話題が振られるのは当然の流れではあった。
「それにしても道もなにもかも塞いじゃって、やたら長い繋いだテーブルを作ったり、なぜか食べ物の屋台が出ていたり、すごい騒ぎでびっくりしました」
「祝い事は大勢で大げさな程に祝う方がいいのよ、祝福を与えてくれる賑やかな事が大好きな神様が誘われて来るからね」
話は自然に、最近で最も大騒ぎだった、先先日のライカと祖父の新居への引越しと、その後の祝いの宴の事になっていた。
「そういえば幸いの神にお酒を捧げている男の人が大勢いましたよ」
ライカは婦人の話を受けて思い出す。
「あははは、そりゃ神様じゃなくて自分に捧げているのさ、男どもなんぞ機会さえあれば酒を呑む口実を探すんだから。神様に責任を押し付けて罰当たりなものさ」
「俺にも付き合い酒を呑ませようとひっきりなしに押しかけてくるんで、しまいには子供たちに混ざって抜け出しました」
ライカは溜息混じりにその時の混沌とした状況を思い出して語った。
全然知らない人だらけなのに、向こうはライカが主役の一人と承知していて、飲み物や食べ物を勧めて来るのである。
酒だけではなく、食べられる限界を超えた料理も、時間が経つにつれ拷問に近いものとなったし、ゆっくり知り合う時間もないので全く個々人の見分けが付かない中押し寄せられるのは、まだ人の集団に耐性のないライカには耐え難い負担となったのだ。
「そういやうちの坊主も近所でもないのに、振舞いの料理目当てで潜り込んでたみたいだけど、おねぇちゃんみたいなお兄ちゃんが一緒に遊んでくれたって喜んでたわよ。なんの事かと思ったけど、なるほどね」
大勢の子供と一緒に遊ぶという状況も、ライカにはまだまだ馴染まないものだったのだが、子供達は大人に比べればずっと付き合い易かったので、ほとんど逃げ込むように彼らに振り回される方を選んだ。
しかし、滅多にない祝い事に興奮した子供たちは、この新参者の少年に自分の知識を伝授しようと躍起になってあちこち連れ回し、宴が終わった頃には、ライカは小さな子供の群れと共に近所の路地や秘密の抜け道を完全制覇するのと引き換えにヘトヘトになってしまったという有様だったのである。
そしてどうやらその子供達の中にこの婦人のやんちゃ息子が混ざっていたらしい。
「うわ、またですか、俺ってどうして女の子みたいにみられちゃうのかな?」
恥ずかしいという訳ではないが、自分に何か男として足りないものがあるのではないか?という疑念が最近のライカにはあった。
ライカからすれば、平均的な男用の服しか着ていないし、誤解される要因が自身では思い至らないのである。
「そりゃあ、あんたの年頃の男の子っていえば乱暴者の代名詞だし、怪我をした時に優しく傷口を洗って薬を付けてくれたともなれば、その相手が男の子だってのが嘘なんじゃないか?って疑ってしまうのは仕方ないさね」
「そういうものですか」
その説明で、該当する子供の顔が浮かんだが、人の顔の相違がまだよく分らないライカは、そういえばこの夫人と同じ目の色だったな、ぐらいの感想しか持てない。
「まぁ意外性というものかね、正直女の子でもあんたみたいな感じの子はなかなかいないよ」
うんうんと別の婦人が裾を捲り上げて野菜を洗いながら同意する。
「そうなんですか、もう少し男らしく行動した方がいいんでしょうね」
目立たないという最大目標を掲げているライカは、少し反省する。
「馬鹿言うんじゃないよ、勿体無いじゃない」
意外な事に、その婦人は言葉強めにそれを否定した。
「……え、勿体無いって言うと」
「
「潤いよ、う・る・お・い」
回りからも口々に言われて、よく納得出来ないままうなずく。
「そ、そうですか」
自分の意向とは違う方向へと向かう彼女らの結論に抵抗するべきかとも思ったライカだが、逆らってはならないと本能が囁いた気がしたのだ。
やがて順番が来て、二人は天秤の両端に水を満たした桶を掛けて帰路に着いた。
と言っても、まだあと八回程度は往復しなければならないのだが。
「おばさま達のいいおもちゃね」
ミリアムが、少々肩を落としているライカに向かってにこやかに言った。
「やっぱり、そんな感じだよね」
女性に寄ってたかってそういう風にからかわれるというのはどういうものなのか?喜ぶべきか、情けなく思うべきか?と、悩む気持ちがライカにはあるのだが、人付き合いの経験が薄すぎる為、この手の良いとか悪いの範疇にない事を判断する事が難しい。
結局はどうして良いか分からずに困惑したままとなるのだ。
そんな様子を見ているミリアムの方はやたら楽しそうだ。
それがまたライカを戸惑わせる。
「う~んとね、そういうのは悪い事じゃないと思うの」
そんな様子がさすがに気の毒になったのか、ミリアムはライカに言葉を掛けた。
「ええっと、そういうのっていうのは?」
「ほら、みんな楽しそうだったでしょう?」
つまり他の人達の娯楽たれという事なのだろうか?
特にミリアムの、とまでは言わないが、ライカはなんとなくそういう理不尽さも女性の特権なんだろうと納得した。
竜の家族からも、女性とは理屈で測れる相手ではないと散々言われてきたのだ。
しかし納得はしたが、ライカ自身は落ち着かない。
普通というものにこだわるライカとしては、出立時に懸念された、異端となっていないかどうかが自分で判断出来ない事が不安なのだ。
「楽しんでもらえるのは嬉しいです」
果てには諦めてそんな風に言ってしまい、普段は女性らしいおしとやかさを持つミリアムが大口を開けて爆笑するという珍しい姿を目撃する事となったのだった。
へとへとになって水汲みを完了すると、ミリアムが汲んだばかりの水を沸かしてお茶を淹れてくれる。
痺れて重くなった腕と肩を休ませる必要があるのだ。
「今日はね、サルトーさんのところに入っていた新茶を昨日買ってみたのがあるので、試し飲みという事で淹れてみました」
「もう新茶が出てるんだ?」
「うん、東南の方にトゥースクって地方があるんだけど、そこが地面の温度が高い地域で、いろんなものの収穫が早いんですって。そこから回ってきた荷が入ったという事よ」
柔らかな、少し甘さを感じさせる香りが漂う。
ポットの中で十分に蒸らしたお茶をカップに注ぐと、更にその香りが強くなった。
お茶はほんのりと紅い。
「ハチミツ入れる?」
「あ、少し」
「よおーし、たっぷり入れちゃうぞ」
「お茶の香りが飛ぶからやめてください」
やはりこうやって二人で話す方が落ち着くな、とライカは思う。
人が大勢いる光景というのは、それだけで思考の働きを鈍らせてしまう圧迫感があるのだ。
ライカはまだ群れで過ごすという感覚に慣れないでいた。
「そういえば」
ライカはふと思い付く。
「ここの料理とかやたらハチミツを使うけど、本当はハチミツって高価なものだよね?」
「あ、いいところに目を付けたわね。ハチミツはここの数少ない特産品なのですよ」
ミリアムがなぜか得意げに胸を張ってライカに教える。
「特産品?ハチが多い地方って事?」
ふふふ、とミリアムが指を立てて見せた。
どうやら違うという印らしい。
「実はね、この街には養蜂をしている人がいて、他所が問題にならないくらい量が安定してハチミツが採れるの」
「養蜂?」
聞きなれない言葉にライカは首をかしげた。
「ハチの巣箱を作って、そこでハチを養ってハチミツを安定して採れるようにした人がいるの。もう何年か続けていて、今はものすごい数を養ってるみたい。元々そこの山は花が綺麗で有名な場所だし、場所が良かったのもあるんでしょうね」
他の生物、ましてや虫のように意思の疎通が出来ない相手を養うという感覚は、ライカには理解し難いものだった。
「凄いね、人間が作った巣にハチが棲めるの?」
「うん、そこら辺は私もよくは分らないんだけど、ハチの巣を採ってた人が、なんとかハチを犠牲にしないでお互いが得になるやり方がないか?ってものすごく試行錯誤したって話よ」
「ハチの事を考えてそんな事をしたんだ。なんか凄いね」
その人にとってハチという存在は対等な相手なのだろうか?
そういう風に考えると、ライカはとても不思議な気持ちになる。
そして、そんな話をしながら呑むハチミツ入りのお茶は特別な味がする気がした。
「その人ね、黒熊そっくりなのよ、見たら絶対驚くから」
ミリアムがにこやかに保証してみせる。
考えてみれば、人間社会の生活においては身の回り全ての物に他人が携わっているのだ。
わずかひとさじのハチミツにもそんな風に誰かの思いが込められているように、その全てにそれぞれの思いが篭っているのかもしれない。
それは人間社会ではごく当たり前の事なのだ。
改めてそう気付くと、ライカは驚きと、ワクワクする楽しさを感じた。
そして楽しいと感じる自分自身をも不思議に思う。
(でも、確かに楽しいっていうのはいい事だよね)
ライカはそう考えて、先ほど良いようにからかわれたミリアムの言葉にもうっかり同意してしまうのだった。
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