第86話決着

虚無のなかで俺の上半身は三つに裂けた。

 三人になったといってもいい。

 頭と両腕のそろった三人の人間に分裂していた。

 腰から下はつながっていて足は一組だった。

 ひとりは冷えた溶岩のような硬い肌をした男。

 もうひとりは俺に似た顔で、怒りと狂気を宿した目をしている男。

 そして俺。

 この空間には空気がないかのように、誰も喋ることができない。

 怒りと狂気の男が動いた。

 俺に狙いをつけて右腕を振りかぶる。

 俺も応戦しようと左腕で防御をして右腕を引く。

 そこへ、細くやわらかな手が触れてきた。

 俺たち以外の存在。

 金髪をなびかせたナムリッドだった。

 ナムリッドは怒りの男の右腕と俺の左腕に触れた。

 怒りの男が目を見開き、その表情がゆるんでいく。

 こうなると、体中に血管が浮き出ている以外は俺にそっくりとなった。

 男はナムリッドに触れようと拳を開いた。

 だがナムリッドは男の右腕と俺の左腕をとって、俺たちの指先を触れ合わせる。

 俺たちの身体が求めあうように融合しはじめた。

 俺は男と視線を交わす。

 俺たちのあいだには恐怖も期待も怒りもなく。

 まるで鏡を見ているかのように感情が静かになっていった。

「わたしはいつになったらあなたの師匠を引退できるのかしらね。ふふふ……」

 そう言い残してナムリッドの姿は消えてしまった。

 残された俺たちの融合が進むと、やはりこいつは俺だと悟った。

 いつの時代のどこにいた俺かはしらないが、俺には違いない。

 だが。

 もう一人の異形。

 コイツは違うッ!

 硬い肌の黒い男は笑みを浮かべて両腕を広げた。

 巨大になり、俺たち二人をかき抱こうとする。

 否ッ!

 俺たちには拒絶しかなかった。

 もう呼吸を合わせる必要もなく、自然に身体が動く。

 俺の右腕ともう一方の俺の左腕が、同時に男を撃ち抜いた。

 何の音もなく、黒い男の上半身がちぎれて、虚無のなかへ飛んでいく。

 黒い男は最初は失望した顔をしていたが、大口を開けて笑いながら遠くなっていった。

 

 ☆☆☆


 嵐が過ぎ去ったあと、雲の切れ間を見上げている気分。

 目覚めたとき、俺の心は凪いだ水面だった。

 俺は倒れかかっていて、花嫁たちに身体を支えられていた。

 花嫁たちの衣装は黒衣。

 ここは滅亡に瀕したイシュタルテアの夜。

 頭上では炎の照り返しを受けて、二体の巨獣が命を削りあっている。

 周囲の状況はなにも変わっていない。

 変わったのは、俺自身だけだった。

 あれほど俺の身を焦がしていた怒りと憎しみがきれいさっぱり消え去っている。

 記憶ははっきりしていた。

 自分が行ったことを隅々まで、よく覚えている。

 ただ、そのときの感情がすっぽり抜け落ちているせいで、どこか夢のようだった。

 俺はやっとひとこと、囁くことができた。

「すまない、みんな」

 俺を立たせて、花嫁たちがそっと離れていく。

 俺は花嫁たちと向かい合い、その瞳を一対ずつ覗きこんだ。

 彼女たちの瞳にある輝きは、自我の回復を感じさせた。

 待ち受ける彼女たちへ言葉をつむいでいく。

「なんと言っていいかわからない。ひどいことをしたよ。でも必要なことだったんだ。あの残虐がなければ、ここまで持ってこられなかった……。俺ひとりじゃこっち側へ戻ってこられなかった。そうなるとボンゼン・ブードーはいつまでも野放しになってただろう……。俺はたぶん、みんなの力を信じて甘えさせてもらったんだ……」

 魂がよみがえったかのように、マトイがすっと一息吸いこんだ。

 微笑みとともに口を開く。

「ほんとにもう、アタシ、タネツケを助けてばっかり。せいぜい優雅な新婚生活させてもらわないと」

 続いてヒサメが言う。

「けっきょく強敵の女神ばかりと戦って、弱者を手にかけることがなかったのは幸運だったな……」

 鎧の上にドレスをまとっているアデーレが握り拳をあげた。

「おまえにはずっと借りがあったが、今回は大きく返したぞ。これで貸し借りはナシだ」

 自分のドレスをしげしげと観察しながら、イクサが軽口を叩く。

「お、お、じゃ、アタイの分はでっかく貸しで。三食昼寝付きで返してもらうわぁー」

 シャルロッテが神妙な面持ちで口を開いた。

「お話しすることは山ほどおありでしょうが、いまはまだそのときでもないでしょう」

 頭上では巨獣の死闘が続いていた。

「そうだな。始末をつけるか。できるかぎりをやる」

 そう言ってから俺は教師の一団とイリアンを振り返る。

 教師たちは張りつめた表情でこちらを見守っている。イリアンの顔もまだ不安げだった。

「先生、イリアン。来たときと同じようにここから離れてくれ。これから勝負だ。なにが起こるか、はっきりとはわからない」

 イリアンが大きな声で言った。

「わたくし、みんなのことを信じてますからっ!」

 教師たちはゆっくりとうなずき、イリアンを伴って消え去る。

 結界もほとんど消滅していたが、もうボンゼン・ブードーからの力が流入してくることはなかった。

 そりゃそうだろう。

 ボンゼン・ブードーの力は一度三分割され、そのうちの二つが俺のものとなっている。

 世界を滅ぼして力を蓄える時間を与えなければ、俺のほうが強いはずだ。

 巨獣の様子を見あげればマザー・アカバムの首はちぎれかけて、大きく揺れている。

 あまり時間は残されていない。

 もう一人の俺と融合したとき、一瞬だけ、俺はすべての真実を知り、すべての裏を悟った。

 だがそれもすでにほとんど忘れている。

 もう一人の俺が塗り込めるようにして記憶を封印していくからだった。

 きっと知らないほうがいいことなのだろう。

 俺はもうひとりの俺を信じ、いますべきことに集中する。

 自分が戦いを選択した理由は覚えていた。

 このイシュタルテアは残酷な世界だ。

 だが、悪として断罪するべきかどうかは、きっと俺のすることじゃない。

 なぜならイシュタルテアは、真の邪悪、ボンゼン・ブードーと敵対しているからだ。

 その理由ひとつで十分。

 ボンゼン・ブードーこそはまさしく悪だった。

 いくつの世界を滅ぼしたか、もう忘れてしまっているが、残虐の限りを尽くしたのは数え切れないほどだったと、記憶のどこかが激しく嫌悪の炎を燃やしている。

 俺とボンゼン・ブードーの関係性ははっきりしない。

 だが。


 俺の敵はッ!


 倒すべき真の敵はッ!!


 ボンゼン・ブードーッ!!!

 

 俺が倒した女神たちへの罪滅ぼし。

 彼女たちの守ろうとした世界を、俺が守るッ!

 マトイたちに事情を説明する。

「あいつとの決着は俺ひとりでつける。無茶をしようってんじゃない。もう俺ひとりでじゅうぶんなんだ。三分割された力のうち、二つは俺のものなんだからな。俺を信じてくれ」

 いつのまにか手放していたペルチオーネを拾いあげ、刀身に話しかける。

「ずいぶんおとなしかったな。おまえはこれからどうなるか、どれぐらい知っているんだ?」

 ペルチオーネは答えない。

 かわりに柄が期待にわななくように震えた。

 もうひとりの俺らしき意識が己を封印していく寸前に教えてくれた。

 ペルチオーネの真の力を。その目覚めさせかたを。

 俺はまず、自分の力を高める。

「多次元接続ッ!」

 俺の身体をオーラが包みこみ、背後でヘイローが燃えあがる。

 ペルチオーネを振りあげて、意識を集中させた。

「汝の主が命ずる! 全世界八方へ伸びゆく力よ、己を助けんがため、その疾駆を止めていまここに顕現せよッ」

 どこか遠くから次元を貫く鐘の音がした。

 そして、俺の前には放射状に並んだ七本の剣が出現する。

 俺の握ったものも含めて八本。

 すべてがペルチオーネ自身。

 全世界の全方位に向けられていたペルチオーネの力を、いま、この世界の眼前に集結させたッ!

 これがペルチオーネの真の力ッ!

 頭上でボンゼン・ブードーが吠える。

 マザー・アカバムから口を離し、あぎとを俺に向ける。

 向こうも俺を真の敵と認識していた。

 自分は力を失い、マザー・アカバムはしぶとい。先に俺を倒さなければならないと悟っていた。


 このときがきた。


 勝負ッ!!!


 巨体がうごめく。

 ボンゼン・ブードーは巨大な足で踏み潰そうとしてきた。

 俺は不動。

 接近してきた足を、回転するペルチオーネたちが粉微塵にしていった。

 傷口から腐敗のガスが溢れ出して岩場を緑の粘液に溶かしていく。だが、俺には関係ない。

 ボンゼン・ブードーは足の一本を失ってバランスを崩すが、他の足で体勢を立て直す。

 顔のない漆黒のあぎとが怒りに吠えた。

「いくぞ、ペルチオーネッ!」

 俺は背中のジェットを吹かして、一気に上昇した。

 襲いかかってくる無数の腕は、回転するペルチオーネたちが切り落としてゆく。

 俺とペルチオーネたちは、数秒でボンゼン・ブードーの頭部へ達した。

 あらゆるものを噛み砕こうとする牙の並んだあぎとが、威嚇的に開く。

 俺は宙に静止して、マザー・アカバムの頭頂部へ目をやった。

 両腕を失ったままの学園長が、そこで静かにうなずく。

 俺はボンゼン・ブードーに向き直り、ペルチオーネを持った右腕を引く。

 残った七本が切っ先を合わせて集合し、俺の前にドリルを作った。

 ボンゼン・ブードーが大気を震わせて雄叫びをあげる。

 俺もそれに応えた。

「うぉおおおおおおおッ!!!」

 ジェットを噴射し、ペルチオーネのドリルを前にしてあぎとのなかへ突撃した。

 ボンゼン・ブードーの叫びに乗った呪詛が物理的な衝撃となって襲かかってくる。

「ぬぁあああああああああああッ!!!」

 俺はそれに耐えて貫いた。

 ドリルは易易と腐敗と邪悪の肉を切り裂き、削り落とし、俺はボンゼン・ブードーの体内深くへ侵入してゆく。

「うぉおおおおおおおおおッ!!!」

 ペルチオーネの刃が弾き返しても、絶え間のない邪悪と腐敗が俺の身を責めた。

 苦痛の数十秒が過ぎ。

 目の前が開け、光の明滅する小さな空間に突入した。

 そこに人影があった。

 肉の壁で覆われた小部屋の中央に、人型をとどめている存在が。

 冷えた溶岩のような肌をした黒い大男。

 足はなく、床から生えている。

 その傍らにはもう一体、人間らしきものの干からびたミイラが倒れていた。

 もうひとりの俺だったものに違いない。

 黒い男はきらめく目を開き、白い歯を見せて笑った。

「おまえはこれで満足なのか、タケツネ?」

 俺は反射的にそいつのものであろうと思われる名をつぶやいていた。

「ザッカラント……ッ」

「フフフ、おまえは俺をそんな名で呼ぶのか。悲しいね。いまのおまえはまるで白痴だ。叡智を取り戻したいだろう? さあ、来いよ」

 否ッ!

 俺は攻撃のために、間合いを一歩詰めた。

 こいつがボンゼン・ブードーの核。

 なにがあるかわからない。

 こちらは万全の間合いに持ち込まなければならなかった。

 黒い男がまた笑った。

「フフフ、俺と離れた途端に愚かになっちまった。どうせ俺は殺せない。俺を殺せば、この身に満ち満ちた『絶体死の波動』が宇宙を駆け巡るぞ。だからおまえは俺を殺せなかったんじゃないか。さあまた一緒にやろうぜ、絶滅ってやつをさ。さあ来いよ」

 否ッ!

 俺はまた一歩間合いを詰めた。

 ……。

 いや、違うッ!

 俺は間合いを詰めたのではなく、身体がこいつの誘いに応じてしまっているッッッ!

 もう猶予はない!

 これ以上こいつに触れていてはいけないッ!

 黒い男はさらに手招きしてきた。

「来いよ、タケツネ。俺たちにできないことは……」

「マルチバース収斂斬ッ!」

 俺は八本のペルチオーネを使い、ありったけを叩き込んだ。

 その威力に、黒い男は最後の言葉すらなくただの塵と化した。

 小部屋の明かりが消えて暗闇となる。

 邪悪の鼓動は止み、静謐な時が訪れる。

 いまの俺には暗闇のなかでも、ボンゼン・ブードーの呪われた肉体が無害な土の塊となっていくのがわかった。

 ここでやるべきことは、もうない。

 入ってきた穴を通って外へ出た。

 土の塊となったボンゼン・ブードーの向かいには……。

 マザー・アカバムもまた生命力を失って、枯れた異形の巨木と化していた。

 その頭頂部、萎れた薔薇の大輪から身体を引き抜き、学園長が俺に言った。

「ボンゼン・ブードーの断末魔である『絶体死の波動』はマザー・アカバムが受け止めきりました。かつての宿敵を滅ぼすにはこの堅固な世界、イシュタルテアのほかにおいては不可能だったのです。わたしにとっても、それがわかったのはつい先ほどでしたが。これですべての憂いは消え去りました」

「俺とボンゼン・ブードーの関係を教えてくれないか……?」

「あなたがいま知っている以上のことは、いま知るべきではないのでしょう」

「終わったことは終わったことか……。これから始めることもあるしな……」

 学園長の言うことは正しい。

 

 ボンゼン・ブードーは滅びた。


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