第6話 プロポーズ

その1


 マスターが困ったような、嫌そうな、変な顔をしてスタジオに入って来た。

 10月中旬の土曜の午後。

 珍しく僕の方から先にマスターに声をかける。

「体調でも悪いんですか?」

 マスターはむっとした顔で僕の顔をまじまじと見る。そして、4人の顔を1人1人覗き込むようにして見る。ふうっ、と柄にもなくため息のようなものをついている。

「出演依頼が来たぞ」

 僕らは、軽く驚いてはみたけれども、もし、BARたかいのようなイベントなら、あ、やるやる、という感じで今ならば応対できる、と少し誇らしげに思った。

 けれども、マスターは、なかなか口を開かずに、まだ僕らの顔ばかり見ている。やがて、諦めたように話し始めた。

「‘joy pop inたかい’のスケジュールって知ってるか?」

「ん?もちろん」

 加藤が即座に答える。‘joy pop in たかい’は、去年第1回が開催された、県庁前の公園を使って開かれる野外ロックイベントだ。主催はマニアックな編集方針ながら商業誌としても成功している、‘ロック&ロック’という邦楽ロック専門の音楽誌だ。地方都市でも本格的な野外ロックイベントを普及させたい、というその出版社の取組で、全国あちこちで同様のイベントが開催されてきた。昨年、この県での第1回が県庁所在地である鷹井市の同じ公園で開催され、大好評だった。ステージは2日間、前夜祭を入れると2日半、チケットは結構値が張るが、地方都市ではそうそう観れないような国内の大物ロックバンドばかりが出演する。昨年は、キャッシュも来た。

 4LIVEの中ではロックに一番詳しい加藤だけがこのイベントの初日を観に行った。目当てのバンドは2つだけだったようだが、「こんなのが毎年あるなら、この県にずっと暮らしてもいいかな」と言っていた。

 そして、もう一つ特別なのが、LRT(最新型の路面電車)の車内を貸切りにして運行しながら、トークライブとアンプラグドの演奏を行うイベントも同時に行われることだ。昨年のパフォーマーは、オルタナティブロックのカーブスのボーカルが、アコースティックギター一本で弾き語りをやった。

今年は11月の下旬に開催される。


「今年の目玉は前夜祭に出るブレイキング・レモネードだと思って、とりあえずその分のチケットだけ取った」

 ブレイキング・レモネードは洋楽好きの加藤でも好むようなセンスを持つ、国内の4ピースバンドだ。まだ、そこまで認知されている訳ではないが、彼らが出ると聞いて「おおー」となった県内のロックファンは少なからずいるらしい。

 マスターが、そうか、と呟きながら、再び話し始めた。

「そのチケット、無駄になったな」

「え?」

 加藤が不思議そうにマスターの方を見る。

「その前夜祭、お前らに出て欲しいんだと」

 そこにいる全員、マスターの言葉の意味がよく分からなかった。マスターは反応しようが無い様子の僕らを見て、解説してくれた。

「金曜の前夜祭での招待バンドはブレイキング・レモネードだけ。夜更けに登場する。その前に、夕方から、県内のプロ・アマのバンドが何組かまず出る。まあ、イベント全体の前座みたいなもんだな。お前らはその‘前座の前座’だ。夕方トップバッターとして出て欲しいそうだ」

 加藤は思わず、マスターに食いつくように問う。

「出てくれって、誰が?」

「ロック&ロックの担当者から俺に電話があった。杉谷のブログを見たんだと。それで・・・まあ、はっきり言って、咲に興味を持ったんだろうな。話題にできる、という気持ちもあって、4LIVEに追加で出て欲しいと思ったんだろう」

 本当に不思議なことだが、杉谷のブログのカウンターは既に80万を超えていた。そして、‘ロックバンド 鷹井’などとネットで検索すると、確かに杉谷のブログが一番上に表示される。

「まあ、お前ら自身やお前らの親なんかが決めることだからな・・・それに、俺も別に東京の出版社に義理立てするいわれもないから、俺の顔がどうとか言うのは全く気にしなくていいからな」

 僕は、この間頭に浮かんだことをやる機会があるとしたら願ってもないことだと思った。

「僕は、出てみたい、と思う」

 僕がそう言うと、みんな、ゆっくりと僕の方に顔を向ける。

「そうだな。僕もやってみたい。咲と咲の曲が世に出れるんなら、こんなにいい舞台はない」

 加藤も静かに同意する。

「僕も、咲の曲を野外でやってみたい」

 武藤も同意する。

 今度はみんなで咲の方を見る。

 咲は少しの間、黙っていたが、やがて、静かに口を開いた。

「わたしは」

 みんな、咲の方をじっと見る。

「4LIVEで、みんなと一緒に演りたい」


その2


 杉谷は誇らしげだった。

「まさか、俺のブログのお蔭でこんなことになるとは。咲ちゃんも俺のこと見直してるよね?」

 よく分からないことで僕の同意を求めて来るので、適当にうんうんと頷いておいた。

 僕と杉谷が教室の自席で向かい合ってくだらない遣り取りをしていると新井さんがにこにことしてやって来た。

「室田くん、ほんとによかったね」

 まるで自分のことのように喜んでくれている。僕は杉谷に対してとは打って変わって、できる限り丁寧に受け答えをしてあげた。

「門限守るんなら観に行ってもいいって親の許しも得たから。室田くんたちの出番は何時から?」

「16:30から。あ、チケットあるから買わないでね」

 僕が言うと、新井さんは、え?と言う。僕は引き続き杉谷に対するのとは正反対の対応をする。

「主催者から友達用にってプレゼントされたんだ。一応その日のブレイキング・レモネードまで観れるから」

「え、ほんと?ありがとう!でも、室田くんたちを観たら早めに帰るつもり。うちはほんとに親がうるさいから」

「おいおい」

 そこで杉谷が割り込んできた。

「まさか、新井さんだけってことないよねえ?一番の功労者を差し置いて」

 僕は再び適当な応対に戻る。

「新井さんとその他三名分は貰ってるから」

 いつの間にか木田、柏も脇に立っていた。新井さんとその他大勢が揃ったわけだ。

「‘その他三名’はないよなあ?」

 杉谷が木田、柏に同意を求めるが、2人は、

「いやいや、一応俺らはその他大勢、っていう自覚あるから。そんなことより杉谷は少し色々と控え目にしないと咲さんから嫌がられるぞ」

「え?それはまずい」

 木田の言葉に杉谷は本当に焦っているようだ。

「しかし、控え目、って何を控えればいいんだ?ブログの更新頻度か?」

 根本的に分かっていない。


その3


 さすがに前座の前座だけあって、演奏は2曲だけと指示された。選曲で皆頭を抱え込んだ。

 もし3曲やれるのなら、咲のピアノの演奏会で思い付いたアイディアを実現したかったのだが、ちょっと無理そうだ。

 やはり前座の前座として会場の雰囲気を少しでも盛り上げるなら、‘土曜の午後から’を1曲目、‘レ・トゥ・トウ・ダ・ダ’を2曲目、ということに落ち着いた。

 高2の後半。僕らはそろそろ3年生になった時の進路選択の準備もしておかなくてはならない。三者面談なるものも行った。4LIVEの4人ともそれぞれの高校で、バンド活動のことについて色々と訊かれた。4人は皆‘学業’に関してはしっかりやっているという評価を受け、バンドも特に悪い影響を与えていないという風に捉えて貰えた。咲などは入学時よりも笑顔が増え、学校での様子を見ていても安心できるようになったと担任の先生から言われたらしい。バンドと米田さきさんと両方のお蔭だろう。そして、その担任の先生みたいに、知らないようでそっと見守ってくれている人がいることにもちょっとだけ皆で感動した。

 ただ、部活に‘引退’があるように、バンドも引退の時期を考えておくようにと4人それぞれが言われた。さすがに来年のこの時期にもバンドをそのままやっている訳にはいかない雰囲気だ。

 ‘進路’。

 あまりにも漠然とし過ぎて考えていなかった。

 当たり前の話だが、バンドとしてプロにでもなるのでない限り4人がそのまま同じ人生を歩いて行くことはできないだろう。4LIVEは僕らにとって大切なものではあるが、一生それにかかわり続けるような種類のものではないのだろう、と最初から分かってはいた。

 けれども、この当たり前のことを周囲から改めて伝えられた今、家の勉強机の前で少しだけ感傷的になってしまった。

 ごろん、と布団の上に寝転んでみる。寝転んだところでなんだかよく分からない寂しい気持ちは収まらない。

 コートを羽織って階段を下りた。そのままぼんやりと玄関を出て自転車にまたがる。

 寒風が顔に冷たく当たるが、更に寒風を求めて、河原の土手の方へ走らせた。

 真夏にBARたかいのために練習した辺りの土手に自転車を押して登ると、緑が消え去り荒涼とした感じの風景が眼下に目に入ってきた。そのまま自転車にはまたがらずにぶらぶらと自転車を押しながら歩く。曇天の午後の空の下、思いがけずコートの中は温かい空気が溜まり込んで結構高温だ。コートの胸元の隙間から一筋入り込んでくる冷たい外気が却って心地よい。

 下流に向かって歩いて行く僕の前方100m程の所に、犬を連れた女の人が上流に向かって歩いて来る。僕とその女の人が歩くスピードとの双方で倍々で二人の距離が縮まってくる。

‘あれ?あれ?’

と僕が思っている間に、相手の顔が緩んでにこにこと笑っている表情がこちらに伝わってきた。

 あ、新井さんだ。

 5m程の所で僕の方から声を掛けた。

「犬の散歩?」

 新井さんは、うん、と頷く。連れているのは柴犬の成犬でしっぽがくるん、と輪のような形になっているのが可愛い。終始笑っているような細い目をした犬だ。

「小太郎、っていうの」

 挨拶の代わりに新井さんは犬の名前を教えてくれた。

「犬の散歩にしては随分遠いね?」

 新井さんの家はもっと何キロも下流の住宅密集地にあった筈だ。何気なく言ったつもりの僕の質問がよくなかった。

「え・・・室田くんがよくここに来るって言ってたから、もしかしたら会えるかもしれないって思って」

 新井さんのあまりにもストレートな返事に僕は一瞬黙ってしまう。そして、これ以上新井さんの帰り道が遠くならないように、2人と一匹と一台とで下流に向かって歩き始めた。

 新井さんが僕に好意を持ってくれているというのは随分前から僕も周囲も分かっていることだ。本当にありがたいことだと思う。殴られ側の僕にこんな気持ちを持ってくれる女の子がいるというだけで奇跡のような気さえする。

 だが、申し訳ない事ではあるが、僕はそういう気分には全くなれないのだ。新井さんはかわいいし、しっかりしていてなおかつ‘悪意’というものを誰に対しても持たない人だ。自分なんかにはもったいないくらいの人だ。でも僕はなぜか、誰に対しても‘好きだ’という恋愛感情を持てないのだ。

 女の子を見てかわいいと自然に感じる気持ちはもちろんある。咲や米田さんを見て美人だ、と素直に感じる気持ちもある。けれども、‘恋愛’とかいうものに何の現実感も持てないのだ。もしかしたら、殴られ側の自分にはそんな資格がないという無意識のブレーキがかかっているだけなのかもしれない。とにかく、今の僕は、贅沢かもしれないが、仮に新井さんから万が一にも告白されるようなことがあったとしても、「ごめん」としか言えないのだ。

 何か話題をこちらから振らないと気まずくなりそうなので、無難な話をしておいた。

「小太郎っておとなしいんだね」

 歩いている間も小太郎は一声も吠えていない。

「うん。とてもおとなしいし、優しいんだよ。吠えることもほとんどないし。でも前、明け方に酔っ払いが庭の石で家のガラスを割ろうとしてた時は吠えて止めてくれたんだよ」

 その話題が終わると、すぐにまた無言になる。ただ、一体何なのか分からないが、新井さんが僕に何かを言いたい、という雰囲気がビシビシと伝わってくる。とうとうそれが出た。

「室田くんは、咲さんのこと、どう思ってるの?」

 新井さんは本当にストレートだ。僕は自分の心のありのままを伝える。

「まあ、4LIVEの仲間だよね」

 新井さんは更にストレートな質問を続ける。

「それだけ?」

「うん、そうだけど・・・」

「咲さんのことを好きだ、とか・・・」

「いや、それはない」

「でも、あんなに美人だし、中学の時からずっと一緒にいるし・・・」

 新井さんはどこまでも執拗にストレートな質問を続ける。

「いや、好きとか嫌いとかそんなんじゃないよ。4LIVEの大切なメンバー、ってことだよ」

「そっか・・・・よかった」

 このままこのストレートさが持続されるとどこまで質問がエスカレートするか分からなかったので、僕は無理やり話題の軌道修正を図った。

「新井さんは、もう進路は決めてるの?」

 え?と新井さんは自分がしようとしていた話の腰を折られるような僕の突然の質問にやや不機嫌さを見せながらも、僕の質問には丁寧に答えようとしてくれた。

「いちおう、見城大学を第一志望にしてるよ。できれば教員の免許を取りたいなって思ってる」

「そうなんだ・・・」

 僕は家から自転車をこぎたした時の‘進路’に対するもやもやした気持ちを、新井さんとの話の中で少しでも解消できたらと思いこのまま話を続けたかった。新井さんも僕がことのほか真剣な雰囲気を出していることに気付いてくれた。そしてそれに付き合ってくれるようだ。

「室田くんはどうするつもり?」

 僕は新井さんと話をしながら、自分の気持ちや思考を整理しようと考えた。

「僕は・・・はっきり言ってこのままだと、ただ自分の成績にあった大学を受験するだけだろうと思う。将来自分がどうやって生活してるんだろうっていう不安はあるんだけど・・・」

 ふうん、と新井さんも、何か僕にとって少しでも役に立つことが言えたら、と頑張って考えてくれているようだ。

「詩人、とか、どう?」

 新井さんの突拍子もない言葉に、僕はそのまま反復する。

「詩人?」

 新井さんは小太郎をできるだけゆっくり歩かせようと、リードを少し引っ張っている。

「わたし、室田くんの作った歌詞を聴くと、ほんとに心が‘すっ’とするんだよ。きっと他の人もそう感じてると思う」

 僕は素直にありがとうと言ってから、新井さんの言葉に軽く反論する。

「でも、‘詩人’って、その人の属性であって、‘僕は詩人です’って自分から言ったり認識したりするようなものじゃないと思うけどな」

 新井さんは、そこで笑って更に斬新な発言をする。

「じゃあ、詩人でサラリーマンとか」

 僕はなんだか‘詩人’と‘サラリーマン’というその2つの言葉の間の飛躍感に奇妙な面白さと、力強さを感じる。もしかしたら新井さんは物凄い人なのかもしれない。

「サラリーマンやりながら詩人もやるっていうんじゃなくて、‘詩人’の心でサラリーマンをするとか、反対に‘サラリーマン’の心で詩も読むとか・・・そういうのの方がなんだか‘本当のこと’っていう気がする」

 新井さんは今、僕にとてつもないヒントを与えてくれているのかもしれない。

 僕は、面白いね、と新井さんのアイディアに同意する。そして、自分の考えも新井さんに伝えてみる。

「僕、例えば、どんな職業を選ぶかが大事だ、ってばかり漠然と思ってた。自分が生きがいを感じるような仕事を選ぶことが重要なんだ、って。そのためにどの大学へ進学してどんな勉強をして、っていうことを考えるのが‘進路’だって思ってた」

 新井さんは僕の顔をじっと見ている。真剣な表情のようにも見えるし、少し寂しげな表情のようにも見える。

「でも、今の新井さんのアイディアを聞いて、なんだか考えが変わった。ひょっとしたら、仕事すらどんな仕事でも別に構わないんじゃないか、って思った。

 詩人の気持ちで仕事ができれば、別に詩人になる必要もないし。反対にサラリーマンの気持ちで詩を書いたとしたら、それも詩人だし。サラリーマンであることも人生の重要なパーツだし詩人であることも人生の重要なパーツだし、それでもいいのかもしれないね」

 僕は新井さんの顔を見るのは恥ずかしかったので、小太郎の顔を見ながら話し続けた。

「前、咲のピアノの発表会に行ったんだけど、僕はロックの心でクラシックを聴いた。同じように咲はベートーヴェンの心で4LIVEのロックを演奏してるのかもしれない・・・」

 再び咲の話題が出たことで、新井さんが顔を曇らせ、また再びストレートな質問をぶつけてくる。

「室田くん、ほんとに咲さんのことは何とも思ってないの?」

 仕方なく僕は、殴られ側の後遺症か、咲だけでなく、誰に対しても恋愛感情を持てない、と伝えた。恋愛に無感覚だ、ということを、冷たいかもしれないけれど、打ち明けた。

 新井さんの言葉は唐突だった。

「わたし、室田君が好き」

 少し時間を空けて続いた言葉が更に切ない響きで僕の胸を締め付けた。

「ほんとに、好き・・・」

 僕は、新井さんが泣き顔になっているのではないかと怖くなった。でも、男として新井さんの顔を真っ直ぐ見なくてはいけない。小太郎から目を離して新井さんの方へ視線を上げる。

 新井さんは笑顔だった。

「進路や学校での毎日がわたしの人生の一部なのと同じように、室田くんを好き、ってこともわたしの人生の大切な一部だよ・・・」

 新井さんはそこで、立ち止まり、僕の方へ体の向きを変え、僕の目を覗き込んで、だから・・・と言った。

「だから、わたしが室田くんを好きだ、っていうことは許してね」


 すべての物事は切り離しては存在しないのだ、というとても大切なことを、新井さんから教わったような気がする。


その4


 その後は無言で歩いた。無言だけれども、新井さんは言うべきことを言ってすっきりしたのだろうか、とても清々しい笑顔で時折鼻歌すら混じっている。それに反して僕はどんよりとした、重い荷物を背負わされたような気分で下流へ向かって歩いた。

「室田くん、家に寄って行って」

 新井さんが突然立ち止まった。

「土手のここから下りてすぐだから」

 気が付くと新井さんの家のある辺りまで着いていたようだ。僕はどうしたものかと思ったが、このまま帰るのではなく、何とかして重荷の一部を新井さんに返してから家路につきたいと切に思った。

 だから、新井さんの家にお邪魔することにした。

 

 新井さんの家はこじんまりとした庭付きの一戸建てだった。

 新井さんの家にお邪魔するという僕の選択は僕自身の目的からは明らかに失敗だった。ただ、僕の目的や願いが必ずしも僕の幸福や良い結果につながるとは限らない。そんな意味では今後の僕の将来を左右しかねないような場面に僕は自ら足を踏み入れてしまったことになった。

 今、僕の目の前には新井さんのお母さんがニコニコしながらケーキをつついている。

 新井さんのお母さんは36歳だ、と自分で言った。若い。18歳で結婚し、19歳で長男である新井さんのお兄ちゃんを、20歳で新井さんを生んだそうだ。新井さんが16歳。したがって自分は36歳なのだと理路整然と説明してくれた。

「室田君のことは紫帆からよーく聞いてるよ。バンドやってるかっこいい男の子がいるって」

「お母さん、やめてよ。室田くんに失礼だよ」

 新井さんは口ではそうは言っているけれども、お母さんに自分の‘援護射撃’をして欲しいという気持ちが見え見えだ。

「ねえ、室田君、紫帆のことどう思う?わが娘ながら結構かわいいと思うんだけど、どう?」

 これじゃあまるで母親による自作自演のお見合いみたいなものだ。多分、ある程度までは冗談だろうという期待で聞いてはいるが、こちらが冗談ぽいコメントでもして本当に新井さんを傷つけてしまうようなことがあったら大変なことになる、と警戒心を強めた。まだ、何も僕は答える準備ができていない。

「それに、紫帆は料理も上手よ。室田君は長男?」

「え・・・そうですけど・・・」

 質問の意図が分からず不審に思っているとお母さんは立て続けに意表を突く話題ばかり振って来た。

「紫帆が室田君の家に嫁いだらきっとご両親も喜ぶわよ。うちはおばあちゃんがいるから紫帆はお年寄り向けの味付けも凄い上手。ご両親と同居しても将来気に入る料理が作れるよ」

 自分の娘をべた褒めである。けれども、多分、本当のことなんだろうと思う。お母さんのことはともかく、普段の新井さんを見ていればいかにも、という感じがする。それに、おばあちゃんに合わせた味付けをするなんて、なんだかいいな、と少しほっこりする。

「わたし、ちょっと洗濯物取り込んでくる・・・」

 まるで漫画か何かの1シーンのように、恥ずかしがった新井さんがベランダの方に逃げて行った。そこからいよいよお母さんの‘援護射撃’が激しさを増した。

「紫帆は室田君のことが好きなのよ」

 紅茶を吹きだす、という漫画みたいな反応はさすがに堪えたが、心の中では‘うっ’と思った。更にエスカレートした言葉が続く。

「それもただ好きなだけじゃないよ。そんないい加減なんじゃなくて、あなたと結婚したいって思ってるのよ」

「・・・・・」

 僕は一瞬無言になる。どこまで陽気に冗談の話を言うんだろう、と思った。でも、僕はさっきお母さんが18歳で結婚した、という話を聞いた。だとしたら・・・

「室田君。わたしはふざけてこんな話をしてるつもりはないよ。逆に、誰かを‘好きだ’って言う時に、結婚のことも考えずに言ってる人がいるとしたら、そっちの方こそ‘ふざけてる’ってわたしは思うわよ」

 僕は思わず姿勢を正した。

「本当に真剣な恋愛は‘結婚’だと私は思ってる。出会いがお見合いだろうが合コンだろうがね。結婚以外の恋愛の形も認めない訳じゃないけれども、それはどこまで行っても未完成の‘恋愛ごっこ’だよ。‘ままごと’だよ。

 室田君はどう思う?」

 僕は大急ぎできちんとした答えをしようと考える。でも、真実の自分から出て来た答えは本当に頼りないものだった。

「僕はまだ、そんな結婚なんかする資格の無い人間です。将来の展望もまだ全然ないし・・・」

 お母さんは、ふふっ、と笑う。

「そんなの当たり前じゃない。じゃあ、室田君は‘この女の子は将来こんな職業に就いて、何歳で管理職になってこれだけの収入があって、健康そうだから長生きして自分が死ぬまでは面倒見てくれるだろう’って予想して結婚するの?」

 うっ、と僕はまた言葉に詰まる。恐る恐る返事をしてみる。

「いえ、そんな訳、ないです・・・」

 お母さんは、そうでしょう、という感じでまた僕に話し続ける。

「結婚する相手が将来、自分にとって損か得かなんて、そんなの人間として悲しすぎる。

 私の旦那は結婚前は本当にだらしなくてまっとうに生活の糧を稼ぐことすらできなかったけれど、私から逆プロポーズしたその日から何かが憑りついたんじゃないかと思うぐらい、懸命に生き始めたわよ」

 お代わり飲んで、とティーポットから紅茶を僕のカップに淹れてくれる。

「今の室田君は当時の旦那に比べたら、遥かに先を行ってるよ。真面目だし、バンドもやってるし」

「え、でも、バンドで食っていける訳もないですよ」

 お母さんの顔が真剣になる。

「誰もそんなこと期待してない。あなたが今、バンドをやってる、っていう生き様が大事だってことよ。少なくともあなたは今、バンドに自分の何かを注いでいる。それが私があなたに惚れたところよ」

 ‘あなたに惚れたところよ’という部分で、お母さんは、あ、しまった、という感じになる。僕もしばらく、無反応のまま、警戒心を深めじっと様子を窺う。

「あの、惚れたって言っても、紫帆があなたを好きだ、っていうのとは別の意味だからね。当たり前だけど。

 紫帆があなたのバンドの動画を見せてくれたのよ。で、詩は室田君が書いんだよね?」

 はい、そうです、と僕はまだ警戒しながら答える。

「ああ、この男の子ならいいな、って思った。こんな詩が書けるなら、紫帆の旦那さんとしてね。

 何とかして一度室田君をおびき出して家に連れてきなさい、って私が紫帆に指示を出したのよ、実は。まさかこんなに早くのこのことやって来てくれるとは思わなかったけどね」

 新井さんはそこまで思いつめた気持ちで犬の散歩をしていたのだろうか?

「将来室田君が出世するとか金持ちになるとか、そんなのはどうでもいい。あのバンドの演奏、曲、歌に室田君の全てが出てる、って思った。それでいて紫帆が室田君のことを好きだ、結婚したい、っていうんなら、私から何も言うことなんかない。うちには長男が居て後を継ぐ予定だから、紫帆はいくらでも嫁に上げるよ」

 僕は気が付くと顔が真っ赤に火照っているのが分かった。まさか、新井さん本人じゃなく、お母さんから娘の‘逆プロポーズ’をされるとは思わなかった。

「今すぐに、とは言わないから、ゆっくり考えておいて。わたしは本気だよ。もちろん、紫帆も本気。それに、紫帆は結婚したらご両親と是非同居したい、って言ってるよ。

 こんな魚逃したら、室田君もご両親もきっと10年後には後悔してると思うよ」


その5


 帰る時、新井さんは土手の上まで送ってくれた。

「ごめんね、お母さんが変なことばかり言って」

「いや・・・」

 僕は新井さんがとても愛おしくなった。女の子として好きとか嫌いとかそういう感情ではないのだけれど、新井さんがおばあちゃんや両親からどんな風に育てられ、どんな風に真っ直ぐに成長してきたかがなんとなく分かったのだ。とても素直に、相手の苦しみや痛みにも思いをはせることのできる心が育っている。それは、以前杉谷が「室田の方がよっぽど男らしくてかっこいいからね」と言った後の新井さんの嬉しそうな笑顔からも分かる。

 僕は頑張って後の言葉を続けてみた。

「お母さんはとても真剣だったよ。ありがたいな、って思った。

 僕はまだ新井さんやお母さんに、きちんとした返事はできない。もしかしたら僕が何も返事をしない内に新井さんやお母さんが待ちきれなくて気持ちが変わるかもしれない。

 でも、これだけは、今言っておくね」

 新井さんはうっすらと唇を開いて僕の顔を見ている。

「‘好きだ’って言ってくれて、凄く嬉しかった」

 それだけ言って、僕は自転車にまたがり、立ちこぎに全体重をかけて走り出した。

 後ろを振り返り、僕は軽く手を振る。新井さんも右手をちょこっ、と挙げて手を振っている。

 かわいいな、と思った。





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