第44話
『あ、入っていいよ』
インターホン越しにそよぎの声が聞こえる。
僕はそよぎに夏休みの宿題をやらせるために、そよぎの家を訪れていた。初めて来たときはその立派な門扉に緊張したものだが、今では慣れたものだ。
僕は大きな門扉をくぐり、玄関の前に立つ。てっきり、僕はそよぎがここまで来て、玄関を開けてくれると思っていた。実際、今まではそうしていたのだ。
しかし、玄関の扉を開いてくれたのは、そよぎではなかった。
「いらっしゃい」
厳かな雰囲気のある扉を開いてくれたのは、初老の男性。
「あ……こ、校長先生ですか……」
僕の通う塔坂学園の校長、愛原先生。つまり、そよぎの父親がそこに立っていた。
峻険な印象を与える男性だ。眉はきりりと引き締まり、眼光は鋭い。顎鬚をたくわえた引き締まったシャープな顔のラインも合わさり、刺すような威圧感を発する。低音ながらよく通る声。本気で怒れば相当に怖いだろう。
年齢は十六才の娘の父親としては、やや高め。五十代前半というところだろうか。だが、それも当然だろう。そよぎには、亡くなった姉がいる。その姉が生きていれば、今は三十二才のはず。むしろ、三十を越える娘がいるにしては、若い方とも言えるだろう。
僕は緊張で身を固くする。
「君は確か……渡辺君だったかね」
穏やかな表情で、僕の名前を呼んでくれる。
「覚えて……いらっしゃるんですか?」
僕は驚く。彼は校長である。担任でもなければ、教科担当でもない。にもかかわらず、一生徒の名前を知っているというのか?
「いやいや」
校長は、僕の疑問を察したのだろう。腹の底から響いてくるような低音で応える。
「君は特待生だろう。特待生は全員、校長面接があったからね。さすがに、全校生徒は把握していないよ」
「あ、その節はお世話になりました……」
僕は塔坂学園を受験したときのことを思い出す。特待生になるためには、学力試験のみならず、面接試験も必要という決まりだった。確かに、そのときに向かい合って話した記憶がある。
「うむ。元気にやっているようで何よりだ」
そう言って、目を細める。その面接のときには、親が居ないという僕の家庭事情のことも話した。そのときに、校長先生は心を痛めておられる表情をしていたことを思い出す。きっと、そのために気にかけていてくれていたのではないだろうか。
その面接の時以来、関わりといえば、行事ごとの挨拶で顔を見るくらいで、きちんと話したのはこれが初めてだった。いかめしい外見とは裏腹に、心優しい人のようだった。
「今日はどうしたのかな? そよぎと約束していたのかい?」
「えっと……」
どうやら、そよぎは僕と夏休みの宿題をするという話を父親に話していなかったようだ。よくよく考えると、約束したのは昨日の夜。夏休みの宿題をこなすという目的からすれば、仕方がなかったとはいえ、非常識だったかもしれない。
僕は居住まいを正して答える。
「すいません。そよぎさんと夏休みの宿題を一緒にする約束をしたのですが、約束したのが、昨晩のことでして……。突然、押しかけるような形になり、申し訳ありません」
僕は深く頭を下げる。
「頭をあげたまえ」
僕はそっと表を上げ、校長先生の顔を窺う。
校長先生は柔和に微笑んでいた。
「うちの娘に宿題をさせようとしてくれているのだろう? 助かるよ。情けない話だが、あの子はまったく勉強をする気がなくてね」
僕は曖昧に微笑むことしかできない。
「友達が一緒ならば、少しは勉学にやる気を出してくれるかもしれない。ぜひ、仲良くしてあげてくれ」
校長先生はそう言って、頭を下げた。折り目正しい厳格な礼だった。
「そ、そんな大したことではないですから」
僕は思わず、動揺する。
年下の、しかも一生徒に対して、ここまで礼儀正しく接する教師を僕は初めて見た。
今まで過ごしてきた学校生活の中で、嫌な先生だと思う人もいれば、良い先生だと思える人もいたけれど、こんなタイプの先生に出会ったのは初めてのことだった。
教わるならこんな先生に教わりたいものだと、純粋に思えた。
そして、校長先生は顔をあげて、こんなことを尋ねた。
「で、君以外は誰が来るのかね?」
「え?」
僕は思わず、問い返す。
僕一人だけです。
そう言うべきなのだろうが、何故かうまく言葉を紡ぐことができない。
すると、校長先生の方から口を開いてくれる。
「……君一人だけなのかい?」
「……はい」
「そうか」
校長先生は、顎鬚をなでながら言った。
「まあ、よく勉学に励むことだな」
『勉学』という言葉を強調して、僕にくるりと背を向ける。
そよぎと二人きりで勉強するという事が解ってから、少し態度が硬化したような気がした。しかし、それは年頃の娘をもつ父親の反応としては、まっとうなものなのかもしれない。
(そうか。よく考えれば、この人はそよぎの父親なんだよな)
当たり前のことを再確認する。
(将来的には、この人に『娘さんをください』と言わねばならないわけか……)
話は解りそうな人だったけれど、それでも険阻な印象を持つ人であることは間違いない。この人、相手に話すのは骨が折れそうだ。
(しかし、まあ今のところはそう悪くは思われていないだろうな)
僕は安易にそう考える。
もし、印象が悪かったなら、こんな簡単には家に通してくれないだろう。
「幸助くん、遅いよ」
そよぎが二階の自分の部屋から降りてくる。
今日は比較的ラフなパーカーとショートパンツ姿で、珍しく髪を結ってある。彼女なりに勉強に取り組もうとやる気を見せているのだろうか。
「ん? お父さんと話してたの?」
そよぎは校長先生と僕を見て、そんなことを言う。
校長先生はそよぎに向かって言う。
「外の人間に対して、身内を紹介するときに敬称をつけるのは適切ではないぞ、そよぎ」
「『けいしょう』……? 私、怪我してないけど?」
たぶん、それ『軽傷』。
「ふう」
校長先生は小さく溜め息をついて言った。
「こんな娘だがよろしく頼むよ」
そう言って、家の奥に入っていく。
「ほら、幸助くん。早くいこ」
そう言って、そよぎは僕の手を掴んで二階の自室へ連れて行こうとした。
その瞬間、
ベキッ
何かが壊れる様な鈍い音が鳴る。
それは校長先生の方から聞こえていた。
ぞくり、と。
僕は嫌な予感がして、おそるおそる校長先生の方を見た。
その音の正体は――
「ああ、またドアノブが壊れてしまったようだ……」
そう言う校長先生の手にはドアノブが握られていて、
「お父さん、また壊しちゃったの?」
そよぎはそれを見て、あっけらかんと笑って言う。
「お父さん、私が男の子を家に連れてくると、いつもそこのドアノブ壊しちゃうよね」
ドアノブを握る校長先生の右手には、青筋が入っていた。
「ああ……年老いてくると、力加減が解らずに壊してしまうことがあるんだよ」
そして、彼は僕を見て言った。
「なあ、渡辺君……そよぎと随分仲良くしてくれているようだね……」
校長先生の目は、血走っていました。
僕は死を覚悟した。
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