二〇二五年の師走初頭にこのノートを書いているが、昨今の都市国家情勢は混沌を極め、新たな境地へと片脚を突っ込んでいる。
各マスメディアによる情報・印象操作と偏向報道、令和の七年目も虫の息の状態になっても、未だに旧体制という呪いを浄化できない我が国。現政権の表立った問題の関連からは『日本には死気が漂っている』という旨のコメントが飛ぶほど、諸外国から見ても国内の破綻は顕著になっている。
そしてそれは国自体がというものにとどまらず、国民にも同様の事柄が言える。と、純血種である雪瀬自身でも思う時がある。
マジョリティとマイノリティの話を出そう。
そもそも、マジョリティは広義的には『多数派』と言い、マイノリティは『少数派』という意味合いがある為、このエピソードではそちらで使用していく。
マジョリティはマイノリティを迫害し、差別し、最終的には根絶やしにできる。事実、とある職種ではマジョリティは『違憲』としてマイノリティを”公に『差別』することが可能”であることや、捉え方によっては、福祉も差別である。何故か? それには『言葉の”あや”が』存在する。例えば『差別すること』も差別だし、『差別しないこと』も差別である。
一方で、マイノリティにはマジョリティを迫害し、差別し、最終的には根絶やしにできる。こちらも同様に、コミュニティによっては、マジョリティに牙を向け根絶やしにした団体も存在する。
だが彼らは絶対的に”不利”である為、何らかの形でマジョリティに助けられながら彼らに叛逆するという、皮肉を通り越してもはや見るも忍びん事柄が存在するのも事実である。
勿論、両者とも同じ人間である以上、同カテゴリー内で同士討ちは逃れられない。それらを加味しても、これらの事は動物である以上、ましてや自我を持つ者であれば必ず起こりうる事なので、何とも皮肉である。
筆者は現在マイノリティ側の人間であり、元は曲がりなりにもマジョリティだ。
注意欠陥・多動性障害優位の自閉症スペクトラム障害を持ち、そのほかに鬱などの精神疾患を患っていた経験もある私には、現状の人類の深層心理、特に差別意識と言う事柄には非常に興味があり、また最も憎悪すべきものだと思うのである。
感情で言えば、『恋愛』と言う概念があるが、これは直訳すれば『自分にとって都合の良い人間を”下心”で、とどのつまり”性的欲求”で判断した』というプロセス及び事柄を、言語で言えば”スラング”のように変化していったワードだという事であり、私はこの理屈を、最大限の憎悪を込めて『隠匿言語』と呼称している。
これも”都合の良い人探し”という観点で見ると、あからさまに差別である。
つまり何が言いたいかと言うと、『差別はマウント取りや優位性などを表現する概念』ではなく、『一種のコミュニケーション』であり、もっと言えば『必然たる事柄』なのではないかと解釈している。
然しながら近い将来、日本は『”多様性”を認めろ』という、いまだに実現すらできていない諸外国に圧力をかけられ、ある意味で差別の壁は崩壊するだろう。
それも最悪の方向で。
今の日本には、国家と言う物ごととは別に、『諸外国の実験場』という名目があると思っている。
これらが辿るのは、かの伊藤計劃の『虐殺器官』の終盤だったり、神林長平の『戦闘妖精雪風』が掲げる”人と機械の行く末”に近しいと感じている。
『虐殺文法』によって国家は破綻し、更に実験場として都合がよくなった本国は、次なる実験に赴かれる。発展した高性能の人工知能の台頭によって始まる、”無血の戦争”の実験場として。
西側陣営にも東側陣営にも比較的中立的な日本国にとって、これらの項目は回避不可能となるであろう。
万が一、現在の国家間情勢が明確に破綻した先にあるのは、諸外国に言わせてみれば『朝鮮戦争の延長線上』でしかないと思うし、その際にかの英国紳士達は言うだろう。『この問題は中東問題のように他愛のない事柄でした』と。
私達とっては死活問題なことは自明の理だが、周りには大したことではないのだ。
それと同じことがマジョリティとマイノリティの問題には言えると思う。と私は思う。
これからの持続的な生活を願って。
最後に、タイ語(なぜ?)で締めくくります。
『ไม่เป็นไร』