私には小説を書く才能がない。
なぜなら、どのような登場人物でも、感情移入しすぎてしまうから。
ありえますか?
私はよく、自分の作品に登場するキャラクターを想うとき、年齢や性別、境遇や性格に関係なく、泣きながら書いている。
怖いシーンは、背中に冷や汗を感じることも少なくない。
だから、切り込んだ鋭い『非業』を書けない。
手が震えてきて、まるで自分が『体験』しているように、鮮明な映像が頭に流れる。
マンガやアニメ、ときにはドラマ風に脳内を駆け巡る。
例えば「手足が切り取られる感覚って、どんな感じだろう?」と思う。
骨に響く衝撃は、痛覚とは違う次元で「気持ち悪い」のではないだろうか。
――そう考えていると、痛み以外の「悪寒」をリアルタイムで頭に想像する。
響くことで、痛覚に刺激を与えるから、当然痛い。
切られているのだから、もちろん痛いのだが、その部位だけが痛いのではない。
骨には痛覚がないが、直視しているから削れていくのが見えてしまう。
飛び散る赤い液体と粒は、鉄の匂いを周囲に散乱させる。
顔に冷たさを感じるのは、冷や汗と涙。少し温いのは、さっきの飛沫。
まだ、それを文章に載せられるのなら、救いがあるだろう。
しかし、そうではない。
書いているときの感動や緊張は、読み直してみると伝わらない。
しかし、推敲しようとするときや、プロットを眺めていると思い出してしまう。
私が自分の作品を読むときは、そういう『バイアス』が掛かってしまう。
客観的に読み直すことができないから、自分の作品を正しく『推敲』することができない。
私は一分間に、約800~1000文字くらい読むけど、自分の作品に限れば1400文字くらい読んでいると思う。
脳内で、書いた文章が再生される感じがして、じっくり推敲しても、違和感を感じない。
だいたい経験則から、2週間は空けないと、文章の違和感に気付けない。
それで創作をやめるつもりはないけど、壁を越えないと、一段上の扉をくぐることはできない。
私はどうすれば、もっとこの「感動」や「感情」を、筆に載せることができるのだろうか?
ひとつだけ分かるのは、シーン描写で書くのではなく、物語で描写する癖を付ける必要はあるのだろう。
陳腐な言葉でいいから、総合的に見た時に、ひとつの感動になっているように。