• 現代ドラマ

「神曲」を最後まで読んでいない方は読まないで下さい

だいぶ前に読者様から頂いていたメッセージに昨日初めて気がつきまして、急いで返信したのですが、重要な内容なので改めて独立した記事にした方が良いと思いました。
くどいようですが、作品のネタバレになるので、本編を最後まで読んでいない方は読まないで下さい。「ネタバレしてもいい」という方は読んで下さい。

読者様の声:
「ミクが小説『静寂の海』を書いた時点では、映画『ワルキューレ』は存在しなかったのですから、ミクに残されたオスカーの記憶から綴られたという解釈でいいのですね?」

その認識で構いませんが、若干補足点がございます。

ミクが小説「静寂の海」を書いた時点(1995)では、映画「ワルキューレ」(2008)は制作されていませんが、元ネタになる事件自体は歴史上実際にあったこと(1944)です。ミクは他の書物などでその事件に取材して「静寂の海」を書いたつもりなんですが、実は自分自身の前世がその事件に関わったモブの将校さんだった、ってお話です。
オスカー・ミヒャエル・フォン・ローゼンシュテルンというキャラクターはもちろんわたし(名倉マミ)が創作したものですが、作中でも語られているように、この事件に連座して処刑された将校は沢山いたのですね。

読者様の声:
「溝黒という人物の登場意義がわからない。ただ不快なだけでは?誰かの生まれ変わりではないよね?」

敢てフルネームは伏せますが、溝黒はドイツパートに登場するある重要人物の生まれ変わりですよ。「作者(名倉マミ)はもちろんそれを知っている」「読者様も気づき得る」「が、作中人物(十朱ミク)は知らない、気がついていない」という所がこの小説のおもしろい所だと思っています。

「美形が不細工に生まれ変わって主人公がまた同じ奴にイビられる」という話を、「おもしろい」と感じるか、「救いがない」と感じるかは人それぞれだと思います。
また、「Zはマンガみたいだから許せるけど溝黒は許せない」って人も、逆に「溝黒はまだ同情の余地があるけどZは許せない」って人もあると思います。
「なんでこんな話にするんだ。なんでオスカーとエルスベットがそれぞれ生まれ変わってまた巡り会い結ばれるようなロマンティックな話にしないんだ」と作者に対して怒りを感じる方もあると思います。

第四章の和尚が言うように、溝黒は前世の傲慢や悪業の報いで醜く生まれたのか、母親に虐待されたのか、それはわかりません。
でもそうだとすると、オスカーがミクに生まれ変わってまた同じ奴にイビられる説明がつかなくなります。少なくともオスカーは和尚が言うような罪業を犯してはいないですよね?(間接的に殺人をしようとはしましたが)

龍堂寺功が言っているように、「『カルマ』というものはある」「但し、いいことをすればいい報いが、悪いことをすれば悪い報いがある、というような単純なものではない」のだと思います。
わたしがこの小説で表現したかったことは、「『カルマ』というものがあるとしたらこういうものだとわたしは思う」ということかもしれません。

一時期、スピリチュアル界隈で「ブラックソウルメイト」なる概念が流行りかけたことがありまして、拙作「神曲」はそれをモチーフにしている所が新しいかなと思います。
しかも反ナチ将校が日本人女性に生まれ変わって美形のナチ将校が不細工に生まれ変わってまた同じ奴にイビられるって所が。

「神曲」のテーマを四字熟語で表すなら、「輪廻転生」ではなく、「怨憎会苦」「不倶戴天」かもしれません。わたしの好きな言葉です。

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