登場人物のイメージが先行します。人物像が定まってから物語が始まるような感覚でしょうか。
物語の始まり方は千差万別で、こと私に関して言えば、登場人物の外見や性格、過去や目的といったものが決まってから、漸く彼ら彼女らが関わり合う物語が思い浮かんでゆきます。物語あっての登場人物ではなく、登場人物あっての物語なのです。無論、登場人物を考える前に物語の大筋を考える場合もありますが、当初思い描いていた物語とかけ離れたものが出来上がる割合が多く、その原因として生み出した登場人物が取らないであろう言動が当初のプロットに組み込まれていることが挙げられます。
例えば、どれだけ感動的なシーンになると想像できても、武術に秀でた人物は絶対に命を落とさないし、感情よりも目的を優先する人物は恋人が命を落としたとしても涙を流さないのです。例外はあろうとも、その例外に到達する因子が物語上に組み込まれていない以上、その事象は起きようがないです。それが起きるのは『奇跡』か、あるいは『きまぐれ』と言えるでしょう。
私は自分が生み出した登場人物が好きです。殺したくないと思うほど、どの人物にも愛着を持っています。だからこそ、彼ら彼女らの性格を捻じ曲げるくらいなら、物語を捻じ曲げます。遠回りをして、当初の目標へと到達します。物語と登場人物の性格とを鑑みた結果の最適解を模索しているのです。
私にとって物語を紡ぐという行為は、愛着をもった登場人物たちの人生を追いかける行為に他ならないのです。彼ら彼女らが絶対に言わないであろう発言は取り消しますし、勝てないであろう相手には勝ちません。矛盾した行為が嫌いなのです。
もしもそういった矛盾が私の小説に散見される場合には、きっと私は登場人物よりも物語を優先しているに違いありません。そんな時には罵詈雑言を浴びせていただいて構いません。私のことは嫌いでも、彼ら彼女らのことは嫌いにならないでください。それが『偶像』とも言える彼ら彼女らのイメージを膨らませる一助を担った私の責任であり、願いでもあるのです。