32話補足
○ビルマの季節
雨季 5月下旬~10月中旬
乾(冬)季 10月下旬~2月下旬
暑(夏)季 3月~5月中旬
○ウ号作戦策定について
次の本がよいでしょうか。
戦史叢書『インパール作戦』
高木俊朗『インパール』
最初は方面軍も、大本営も補給の問題で反対していたのに、最後は戦況の悪化から計画を認め実行するのは、悲劇という言葉で済ませてよいのかわかりません。
検索すればいくらも情報が出てくると思うので割愛します。
なお英印軍では日本軍の動きをかなり正確に予想していました。その上で、アラカン山系の英印軍をインパール周辺に固め、長距離行軍で疲弊した日本軍をインパール平原で撃退する方針でした。
ただし、スリム中将には懸念もありました。本当にインパールに来るのかと。来なかった場合、部隊を下げたらその分戦線後退となります。
そのためギリギリまで。弓師団の動きを察知して初めて部隊のインパールへの後退を指示します。それで1日違いで、笹原聯隊が道路を遮断することができたのです。
○マニプール渡河
『実戦インパール作戦/笹原聯隊の死闘』を参考にしました。
弓師団の参謀の方が、生き残られた方の記録をまとめたもののようです。
ただし、これに限らずですが、創作している部分もあります。
ちなみに輜重隊は馬もボートで渡したのか、不明です。
他の烈、祭は作戦発起日にチンドウィン河を渡りますが、その時点で、牟田口司令官がチンギスハンに学んだという牛の大部分を失ってしまいます。
○ディマプールまでの侵攻
渡河前の祭師団に口頭で伝えたらしいですね。
ちなみに方面軍からの指令書は、国境山岳地帯の防衛任務が主で、その上でインパール攻略の指示だったようです。
なのでインパール攻略が不可能とわかれば、すぐに国境防衛にシフトすればよかったと思うのですが……。
なお兵站を考えない悲惨な作戦といわれていますが、ビルマ方面軍に同情する点もあって、それは、大本営に要求した部隊増強がほとんど叶えられなかったことです。(戦史叢書『インパール作戦』調べ)
許可が下りて増強が内示された部隊は、
自動車中隊が要求150に対し、26
輜重兵中隊が要求60に対し、14
兵站病院が要求3~10に対し、3
20%程度しか要求に対し増強されなかったんですね。しかも現実に配属されたのは、
自動車中隊が18
輜重兵中隊が12
兵站病院が無し
これじゃ無理ですよね。
このように兵站を無視したというより、兵站を強化できなかった面もあるようです。
ぶっちゃけ、日本はもうじり貧で出せる兵力も無かったのでしょう。
っていうか、この時点で「こりゃ、今のままの作戦じゃ駄目だ」となればいいのに、牟田口さんは短期決戦でインパールを落とせば良いだけのことと心配しなかったと。
戦場で祈祷場を作り、祝詞を上げていたそうですから、本気で神頼みだったのかもしれません。
○図上の計算190キロ等
『戦史叢書 インパール作戦』からです。
○持参する食糧
書籍によって、14日分とか20日分と書かれています。内訳は次の通りでした。
各人携行12日
行李部隊2日分
輜重隊6日分
『宇都宮輜重史』調べ
○神曲
ダンテ『神曲』山川丙三郎訳 第3歌85-87
○ビルマの月
黄金色で、急速に満月になったかと思うと2、3日そのまま等と火野葦平『インパール作戦従軍記―葦平「従軍手帳」全文翻刻」p240にあります。
33「3299高地の戦い」
○膨大な物資
目視し、一度は抑えたのですが、敵が撤退するときに持って行かれてしまいました。
その際に車両は部品を一部抜き取られ、動かないようにされたようです。
次回更新分で少し出てきます。
○入江大隊
インパール方面からの増援と戦っています。
中には1人でしかも無傷で戦車3両を擱座炎上させた軍曹もいて、語るべき戦いもありますが、それは『実戦インパール作戦/笹原聯隊の死闘』をご覧になっていただければと思います。
○長谷川小隊長・森村小隊長
『宇都宮輜重史』によれば、
輜重兵33連隊第1中隊に長谷部小隊長。
第2中隊に木村良光小隊長がいます。
ただお二人のお人柄やエピソードなどなにも知りませんので、名字を変えて作中に利用しました。
戦歴等詳しくは存じ上げませんが、小隊を任されておりますので、さぞかしご苦労されたと推察いたします。
○チャーチル食糧
作中ではパラシュート20としています。
が、望月耕一『瞼のインパール』では、(ここではないですが)50個のパラシュート投下を視認しているようです。
○砲撃シーンや壕のなかの歩兵
創作になります。輜重兵が弾丸補給に行った事実は不明です。
が、末木大隊はこの日に突角陣地に突撃をして攻略しました。
曳光弾で昼間のようになり、閃光と爆発の中の壮烈な突撃だったようです。
34「圧倒的な敵戦力」
3299高地東方の山中での戦いです。
概ね史実通りの流れになっています。
(輜重兵が弾丸補給に行った事実は不明です)
○第12中隊は大宮隊が出発した翌朝、凄まじい砲撃と肉迫攻撃に対し、とうとう突撃、玉砕しました。
詳しくは『実戦インパール作戦/笹原聯隊の死闘』を。
○第9中隊
東方山地は岩石山だったそうで、なかなか地面を掘り進めず、壕を作るのが大変だったようです。
『実戦インパール作戦/笹原聯隊の死闘』p66
「水はないか」というエピソードは、第10中隊の沓掛伍長殿のエピソードを元に創作しました。
『実戦インパール作戦/笹原聯隊の死闘』p71
もう戦いが凄惨すぎて、こういう戦記物を読んでいて辛いです。
また第9中隊の中山中隊長殿は、敵銃弾が鉄帽を貫き3/22午後3時に亡くなられ、一時的に千木良軍曹が指揮を執られました。『実戦インパール作戦/笹原聯隊の死闘』p67
撤退時の3/23夜には激しい雨が降っています。
35「玉砕か開放か」
この時点でまだ序盤の戦いであることに戦慄を覚えます。
3/23に3299高地西方の陣地に移動しましたが、やはり末木大隊は厳しい攻撃に晒されます。
○必中弾、タバコ、投石攻撃
『実戦インパール作戦/笹原聯隊の死闘』p64
なお同書p81によれば、笹原連隊長は自決の決意を固めていたようですが、通信隊の佐藤隊長と話し、思いとどまったようです。
『実戦インパール作戦/笹原聯隊の死闘』p80
◇
次回は、雨季で一変する補給や道路事情。
およびトルブン(トルボン)隘路口の戦いぐらいまでを一気に公開する予定です。
なお本文の最後に書きましたが、戦争物なのでどうしても凄惨な描写が出てきます。が、レイティング的に問題があると思われる箇所があればお知らせ下さい。少し表現をぼやかします。