財政破綻が原理的に起こらないということは破綻が起こらないということではない。それが破綻を回避するという群体としての在り方として意識が本能化し、そこに一律な動物的特徴としての幸運を求めてしまうからこそ、次々と降りかかる幸運と勝利の誘惑に抗えなくなっていくということが破綻であり、それは意識の水源としての共同体の善に繋がっているからこそ、他者との認識の異同では区別がつかず世界の安寧を追い求めて破滅に駆り立てられるということなのだ。動物的な本能はそれ自体としては蓄財と繁栄を意味するものが思想的な原理の破綻と結び付けられると、幸福の在り方を他人との集団的な観点に法を直結させて、妄想を別の人間に建て換えるはずが、それは自分の意識と見分けがつかないので、その妄想を否定するという衝動から建前を使いこなす縛りの側面をあたかも理性による自制だと錯覚し、それを非物質的なものに転移させることで正常さを保ちづづける。しかし名が群体としてではなく、個別の性の観点にあるならば、それを非物質的なものに転移させるのは宗教的な集団意識の狂信でしかなく、それを党派的なイデオロギーの妄想に作り替えることが寛容の公正さであるので、逆に資本としてのトークンは自由を奪われ失われたはずの実体が性的身体の物質性であるかのように存在の食物を取り始めるということなのだ。