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中絶の裁定を自分たちの政治的態度に結び付ける似非宗教性について

私は中絶の権利に反対であるのかそうでないのか。私は中絶を行うことの是非を法律で決定することができるということ自体に反対であるといった方が正確である。この問題は近代の普遍性が宗教領域の立法を制限するという名目で建てられて、その出産の権利の法規定を人間的権利の土台に据えることができるかどうかという論点に関わるものであり、人間の出産の行為に対する奨励を社会的義務であるかのように推し進めることができるかどうかという論点には無関係であると言える。もちろん経済的な観点から言えば労働力の増大をもたらす出産は「奨励」されるべきであり、意図して子供を少なくするメリットは過剰人口を抱えている国以外には積極的には存在しないと言える。しかし中絶の問題とは本人の意思確認を創造の行為としても産出するという象徴的意義に関わるものであり、生産の機能が常に物質的な胚胎としては差異にしかならないということを考慮するような産業的スケールでの規範と衝突するものであることは明らかであるように思われる。ここでの論点のすり替えは生命を胚胎したものを出産前に殺すことは殺人であるかどうかという問題であるが、それは実は生命が記憶の横断性ですべてはつながっているという主張の延長線上にある共同体規範なので、中絶の「是非」とは関係がない。それに反対する人たちの世界観の維持の問題なのである。一方で中絶を社会的に正当化することで妊娠に過大な負荷をかけるような暗黙の承認が入っている場合には、それが中絶の「禁止」という方向でしか性の搾取に対抗できないという意味で、その心の責任の在り方は確実に問わなければならない。もしそれができていない状態で中絶の禁止に反対しても女性にとって不利な社会環境が作られるだけだからだ。したがって中絶の禁止に反対するとは生産の社会的観点に関する性の搾取構造に反対するとともに、その性の表現を自由に推し進めるという方向とセットで把握されなければならず、そのためには資本を金融的な詐欺の増刷の様な在り方で性に言及する権利の普遍性が詭弁であることを指摘することが宗教の政治性であるかのように騙る様な党派政治にも反対しなければならない。

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