倒錯とヒステリーが症候を通じて自らの欲望と一体化する行為をキャラクターとしてモデル化する行為とマトリクスの偽装から自らの人格をキャラクターとして構築的に派生させていくような分割的な行為の創造は空白に対して全く違った態度にある。もし倒錯がそれ自体の法に対して感情を欠如からチャージすることが問題なら、そのベクトルは輝きの投影と意識の放射を重ね合わせる静止画としてその身体を遊泳させることが色付けの快楽として匂いの記憶の交差点からアスペクトの折り畳みになるだろう。そこに振動密度の高まりが星の世界の反映として世界に大小の広がりをもたらす年齢に重みづけを与える。しかしマトリクスの偽装では感情の欠落から何をチャージしてもその行動に重みづけを与えることにはならない。仮にチャージされることが問題である場合、もっと物資的な欠如の心配が意識に反映されるはずで、それが政治的意識に誤って投影される。ということはこれらはマトリクスの問題ではなくフェティッシュの潜在的原動力の維持の観測であって、それが誕生の器官に裏返されてイメージに反射されているだけということになる。データベースの記憶の自動化はもちろんそれに数字的情報を保存するが、サイクルとプロセスのフィードバックが完全的に労働と同じような意識で機械的に施行されているため、その構築的な論理を人格に対して行使するなど問題外で、それは人間の感情に対する停止点を定めるための障害物ということになるだろう。もちろんそれを笑いものにするためにパロディが必要になるわけだが、それを形骸化しているといっても投影された観念の形骸化に対するパロディなので問題はページの余白にどれだけ落書きができるかという範囲の逸脱であるわけであって、それが空間の分割を時間から切断してアスペクトを破壊していくような行為として接続されることは意識上の凪になる。ここには政治的な宣伝がぎっしり詰め込まれるはずで紋切型を商売上の損得で割り出して、創造の問題を倒錯の妄想に置換していくような散逸がインターネットの共感として消費されるのでなければならない。問題は性が両性具有的か近親相姦的かということになるのだが、フェティシズムの場合は、本質的に両性具有を近親相姦のイメージで倒錯化することに目的があるので、それを完全性だと見せかけるものが家族の偽装だということになる。一方マトリクスの構築では近親相姦を両性具有にすることは父と母の問題を創造の問題ではなくしてしまうことになるので、それは別枠の恋愛関係を自分の家族形態と重ね合わせるというやり方で二重化して、それをキャラクターの近親相姦に貼り付けるということになる。この場合、崩壊しているのは意識の完全性ではなく規範意識の完全性の方なので、創造の法に対する姦淫の禁止は一層厳しく順守されることになる。というのも貼り付け方の二重性がどのような語りで不倫を構成するのだとしても、倒錯的な規範を完成させることになってしまうからである。だからキャラクターは空白の枠組みから逃れられずモデルの投射を意識ではなく召喚の在り方に世界化しなければならない。