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確率・母数・試行

ワクチンの問題で1パーセントでも良くなる見込みがあるのならそれを接種した方が良い、という主張が語られないのはなぜか。「すべて」の形式が問題だからだ。つまり1パーセントの確率で「すべての人間」を普遍的に助けられる効果があるのなら、それに賭ける価値があるが効果のなさと副作用の効果が「すべての」有意義な効果に対して1パーセント程度の差異しかないのなら打たない方がいいという「帰納」になるのだ。ここに重症化のリスクは入っていない。ではたとえば重症化の軽減が全体の5パーセント程度であり、無意味な場合や副作用の効果が全体の6パーセントの場合はどうか。これは打たない方がいいのではないのか。そうではない。なぜなら統計的な全体の観測の接種割合の帰納が問題ではなく試行の母数の総体がどうであっても効果があるかどうかが問題だからだ。これを抗生物質のような種類のものと同じにはできない。抗生物質の場合はもちろん統計的な母数から有意な結果が確実に観測されなければならない。そうでなければ身体を害する効果の方が高いことになるからだ。だから飲みすぎは危険で試行の母数の結果では測ることができない。だがワクチンの予防の観点はそうではなく、社会的な感染の広がりに対して科学的な試行が有意義かどうかを意志決定する問題なのだ。そうでなければ自然死や普通に病気になるリスクよりも医療に関わらずに生活する方がメリットが高いのならそうすべきだ、ということになるからである。その場合、麻薬を取り締まる理由は全く存在しないことになる。これを程度の問題に帰すことはできない。もし程度の問題なら政治的プロパンガンダで多数の意志があるのなら、科学的なデータを改ざんしたり、その効果や試験に対して嘘をつくことも正しいことになるからだ。これはある人間が嘘つきであるか正直者であるかとは関係ない。ある人間が責任を取ることはそれが科学的に正しい解釈をもたらすことと同じではないからだ。ネットワークのプロセスの因果関係と情報の拡散の影響は表現の規制を性的な母数で測るときにはじめてその機能が露わになるから、それが嘘をついているかどうかと関りがないのと同じであり、それを分離するために敵対者をデマの信者にしてもだから何なのかで終わる。これが1パーセントの確率の賭けという表現で正当化されるのだ。

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