憲法9条が無力なのはそれが法的な実行に関する記述に関して非暴力という普遍妥当な文言を人間という権利の基底として置くことが人類の平和としての意志を冠しているからではない。それが押し付けられた憲法として占領の実質に関する略式規定を暗黙の裡に含んだ絶対的な形式の善だからだ。したがってその条文に関する人間的読みが善悪という秤に対する解釈を通してどう相対的に試みられてきたかは関係ない。それは占領の分割の歴史的経緯のみに依存する政治的判断なのだ。そしてその経緯とは対外的にある国には植民地と分割統治という歴史記述の承認を要求しながら別の国には歴史認識の普遍性の安全保障を要求するという二枚舌で成立する自衛という国際秩序の形式であり、その存立には核兵器の民族的-地質学的影響と人道的救助の名目をエネルギー開発の援助という方法で経済的に支援するという軍需性で象徴的立場を決定する惑星的スケールの弾道軌道上の視覚の短絡からその海運上の通商的相互性が規定される。この相互性に軍隊は圏域の確保という経済的ブロックを確立せざるをえないのであり、その包囲網の維持を自分たちの国際協調として謳いあげる一方で原発事故の汚染は明白に浸食的な権力の占領性を崩壊させる感染をもたらすので、その生物学的な影響の混同と敵対的な国家政策の継続を両立させることが不可能であるということが権力と兵器のファルスの絶対性の倒錯をもたらす。それは感染のスケールと兵器の生物学的な死の民族的な区別を破壊する。だから問題は権力の浸食作用と軍隊の占領性が生物学的な運動の普遍性で機能しなくなるような放射性汚染の分割から法的な召喚を平和として構築しなければならないということなのだ。