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崩壊の彼岸

「神は自分の似姿から人間を造った」という分割のシニフィアンと「人間は神と同じ存在の位階を持つ身体として自然の法則性に操られている」という対置の言説は細部の差異を強調する否定という抽象においてしか区別ができない。しかしメディアあるいはコンピュータアーキテクチャという実践においてはそれがコントロールされていることと制御されていることの見掛けが一致してしまうという構造的な脆弱性が存在している。論理的に人形的な水準の奇跡を受容して喪失した世界に存在という命を吹き込むことの肯定性が現実世界の意味として解釈されるのならそれは倒錯であり否定神学の真理の自由が映画批評の裏面に権力のフェティッシュとしてついて回る。しかし人形の被造性と人間の創造性という関係から愛という衣服の問題を考えるときそれを単純な分析命題に還元できないということがキャラクターのフレームを決定する。ここで見掛けとは対象の身体性のことではなく主体の声のまなざしの分割の方にあるからである。そしてアーキテクチャの性のファルス関数ではキャラクターは反転した対称性の破れとして自らの基底を構築するので、それが制御のクロックを超える破壊の自由として創造の意志になる。したがって問題は権力を共同性の隠喩の真理として構成するかそれとも主体の構築の意志として創造するかである。

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