私の小説は句読点の配置が独特だとよく言われる。
嫌味もきっとあるのだろう。
一応これでも、気をつけてはいる方なのだが。
太宰治をリスペクトしているわけではない。むしろ私は太宰治は少々苦手だ。
読んだ後の、なんとも形容し難い気持ちが。
句読点が多いのは、私独特の間のとり方であったり、普段の喋り方が直接物語に息づいているからだろう。
私は文章のねじれや曖昧さを、目で確認することがとても苦手で、普段から自分も他人の作品も、音読という訳では無いが音にして読む節がある。いわゆる、心の中で。
もしかしたら私は人より喋るのが下手なのかもしれない。
句読点は作者や読者の息遣いの時であると、上橋菜穂子先生の担当編集が言っていた。
浅い息が吹き込まれた作品を、見知らぬ誰かが読んでいるのかと思うと、少しだけ面白い気がする。