今回は私がどういう経緯で座頭市を書くことにしたかの話をします。
初めて見た座頭市は北野版でした。
勝新太郎の座頭市がそれより以前に大流行していたのは知っていたんですよ。
北野版がその焼き直しで、いくら北野武でも勝新太郎にはかなわないだろう、と言われていたのも知ってました。
でも北野版、普通に面白かったんですよね。
コントやバラエティで使われる伏線回収を駆使した、時代劇をあまり知らない自分にもエンタメだな、と思える良作でしたよ。
敵役の浅野忠信もカッコよかったですね。
軽快なタップダンスも。
しかしですね。
その北野監督が、後日のインタビューのセリフを見て、私の座頭市は終わらなくなったんですね。
「やっぱ、勝さんってすごいんだな」
いや、どういうことだろうと思いましたね。
あの座頭市はとても良かったのにと。
勝新太郎のほうがすごいのか。
そういうものなのかと。
まあそう思って「勝新太郎 座頭市」で検索してみるとすごい量がでてきますね。
そんなに座頭市ってのは人気があったのかと思いましたね。
そして見てみたわけです。
暴れん坊将軍とか水戸黄門みたいな番組だと思っていたんですけどね。
これが全然違う。
動作が違う。
緩急が違う。
ぴたり、と空気まで止まるような静かな中、勝新太郎だけがわずかに首を傾げ、耳を敵に向ける。
次の瞬間、さっと動いてパッと斬る。
この一瞬の美しさは明らかに北野版にはありませんでした。
ひときわ目を引いたのが、一文銭を斬る曲斬りでした。
勝新太郎が本当に銅貨を斬っているわけではないんですよ。
特撮としても、大したことはやってない。
落ちたという「ことになっている」一文銭の音に、勝新太郎の抜刀を重ねただけなんです。
でもその演技が、なぜか一文銭を斬っているように見える。
その世界に入り込んでしまい、座頭市が斬ったようにしか見えない。
何が違うのか。
この迫力の違いはなぜ出てくるのか。
いったい、座頭市という作品は他の時代劇と何が違うのか。
これがさっぱりわからなくて参りまして。
それが書くことのきっかけでしたね。
わからないからわかるまで書く。
そんな動機でした。
あいかわらずさっぱり説明になってません。
でも入れ込んでるものはそうなりますね。
深夜に書いたラブレターみたいなもんです。
人に読ませるようなものになってませんが、まあ小説でもない近況ノートだしいいんじゃないでしょうか。
どうせ誰も読んでないでしょうし。