カクヨムの創作論で「AI」という文字が踊っています。
私も無関心ではいられず、いくつか目を通しました。
「AI生成小説はずるい」そんな気がします。長編小説を苦しんで書いているからです。楽してつくっちゃうのはずるくない?
でもいまそこに存在する技術を使わないのはもったいないという気もします。
その問題についてAIに語ってもらいました。
以下は全文AI生成で、まったく手を入れていません。
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十万字の小説を書くのは、想像以上に骨の折れる仕事だ。毎日二千字ずつ書いても五十日。しかも、ただ書けば終わりではない。迷い、書き直し、また悩んで推敲する。その積み重ねが作品になっていく。この道のりの長さと、労力の重さを知るほど、人は「AIが一瞬で小説を書いてしまう」という事実に驚き、どこか理不尽さを感じてしまう。「そんなのはずるいのでは?」という疑問が生まれるのも無理はない。
では本当に、AIで小説を書くことは“ずるい”のだろうか。
まず、私たちが抱く「ずるい」という感情は、多くの場合、“自分たちが守ってきたルール”が揺らいだときに生まれる。創作について言えば、「時間と努力をかけて書くべきだ」「作品には作者の内面が宿るべきだ」といった価値観が長く続いてきた。その前提に照らせば、AIが一瞬で物語を出力するのは、道を外れているように見える。「努力せずに作品を得るなんて」という違和感が、最初に立ち上がる。
ただ、少し目線を変えると、この違和感は“文化の変化に対する戸惑い”とも言える。ワープロが出たとき、「手書きこそ文章の誠実さだ」と言われた。写真が普及したとき、「絵画の価値が失われる」と嘆かれた。新しい技術はいつだって、人間が大切にしてきた“手間”や“儀式”をあっけなく奪っていく。AI小説もその延長線上にある。
では、AIに全面的に書かせた作品は、どう評価されるべきか。これにはひとつ避けて通れない問題がある。「誰がこの物語を語っているのか」という問いだ。読者はふつう、作者という存在を意識しながら作品を読む。そこに人生があり、経験があり、視点がある。ところがAIが書いた文章には、そうした“語り手の実体”が希薄だ。これが全面生成に対する抵抗感の正体でもある。
けれど、AIを補助として使う場合は事情が変わる。アイデア出しや文章の整え、資料の整理といった使い方なら、創作の核となる判断は人間に残る。道具としてのAIは、結局のところワープロや辞書と同じように、書く人の力を広げる存在に近い。主体性がしっかりしているなら、それは“ずるい”というより、“便利な道具の利用”と呼ぶ方が自然だろう。
結局のところ、「AI小説はずるいのか」という問いは、努力の量で決まるものではない。大切なのは、作品の中心に作者本人の視点や意図があるかどうか。そして、どういう形でAIを使ったのかを、読者や発表の場に対して誠実に示しているかどうかである。
AIが文章を書ける時代になっても、物語の本当の価値は“どれだけ苦労したか”ではなく、“どんな世界を見せてくれるか”にある。その原則は変わらない。技術が進むことで創作の形は変わっていくが、作品の中心にはやはり“人のまなざし”が必要だ。AIの力を借りるかどうかに関わらず、そこに確かな視点がある限り、創作はちゃんと生きていける。