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採り物と巫女

 巫女はん関係を描いて、その他。

 柳田~折口説で、パワースポットとしての「女人結界の女性の限界」において、マナ・アーティファクトとしての石にそれを集め、人も集め、なんぞの説教をして、聴衆へ元気をチャージした者がゐたといふやつ。彼女らは、TR音で称されたらしいので、両先生が参照する昔話には、タラとかトラとかツルとかトランとかいふおばさんが、山ガールを称し女人禁制の山へ入らうとするとかさういふ娘さんへ小便をして説教を垂れどうのかうのといふ話がえらいことある。

 TR巫 儒教仏教道教を修めてゐたらしい。

 宮田登説で、椿がどうたら。la dame aux cameria@椿姫のナニは「La Traviata(道を踏み外した女)」と言ふ。同じく宮田登説では、明治大正昭和のとっかかりに至るまで、TR音の、チルノさんは微妙か、トラさんとかツルさんとかは、スピリチュアルななんぞを呼んでしまったらしい。化生の物へ「トトロ」と付けた宮崎駿御大、あの呼吸する百科事典に、たかが宮田登柳田国男関係は当然読んでる筈だと思ふのだが、にも拘らず「息子が所沢を「ととろざわ」というので」採用した御大に勉強して描きました的なナニが見れん。

 マナ・アーティファクトとしての杓子、匙系、カプセル状の物、もふもふしたもの。さう言ふのは「マナをとにかく集める」ので、巫女さんがこっちでなんかやってるしたとかへお杓文字を置いておくと、奇跡が起き無くなるとかがある。

 沖縄関係で、飯匙とか鍋匙とかが悪さをする伝承は山ほどあるが、てふか沖縄関係は何でもマブイとかで話すのでこの辺が悪さをする程度だが、アイヌにトゥキパスイとかが悪さをした伝承がー。

 南方熊楠は、霊芝が「猫の杓子」と言はれ拝まれてゐると指摘し、古代のスクレイパー、皮コソゲを「テングノメシカイ」として崇拝してゐる事例と、西欧にある贈答品としてスプーンを渡す儀礼、支那の如意(ただ、「仏教徒の」とある)信仰との関連を示唆してゐる。

 水木しげる先生がミシゲー(飯匙)だかナビケー(鍋匙)の怪異を表現する際、ロングで引いて、ありえないほどでかい飯匙を書いてゐるけども、さう言ふものなのだらう。

 フェティッシュとしてのおさじ信仰はグローバルである可能性・・・ッ!!。

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