石束の故郷は田舎でして、土地柄の所為か学校生活も非常にのんびりしていました。
受験どころか、一年間のカリキュラムもけっこう大雑把だったような気がします。小6の時の先生はけっこうなおじいちゃん先生でしたが、大変お話の上手な方で教科書と関係のない話をいっぱいしてくれました。たとえば社会や国語の時間に豊臣秀吉の逸話を話してくれたりすると、太閤検地や刀狩りや朝鮮出兵の話ではなく、草履をあっためる話とか壁の修理の話とか墨俣一夜城の話とかをしてくれるわけです。
三つ子の魂百までといいますが、おかげで真面目でひたむきな木下藤吉郎と傲慢で強権的な豊臣秀吉が同一人物におもえず。私の中のイメージでは「別人じゃないか」というレベルでズレたままです。
もちろん『太閤記』ばっかりではありません。
今も、先生の声が思い出せるくらいに印象に残っているのが次のような『謎のお客さん』のお話です。
◇◆◇
海に近くて魚料理の美味しい宿場町に、ツケで飲んで食べての長逗留している客がいた。
一日二日ならともかくも一週間になり十日になり、その間豪華なご飯と高いお酒を食べまくり飲みまくり。
さすがに心配になり(女将さんにもせっつかれた)主人が宿賃を貰いに行くと、どこまでも偉そうな客は「実は無一文だ」とぶっちゃけた。いきり立って掴みかかる勢いの主人。それを「まあまあ」とやんわり躱してその人物は
「よく切れるのこぎり持って行って、宿屋の裏に生えている竹を切ってもってきてくれないか」
と言ったのだった……
――と、ここから先は一番楽しい所のネタバレになるのでこれ以上いえないのですが。
授業のあいまの、お話タイムだったので先生は肝心の演目、つまりお話の名前である『タイトル』を教えてくれませんでした。
いえ、子供たちあいてのお話なので、講釈師みたいに最初に「今日はこのお話です」なんてタイトルをいう必要がなかったのです。
そんなわけで小学六年生当時のわたしの記憶に、この不思議な『お客さん』の物語の「あらすじ」だけが残りました。
その直後は「おもしろかった」「たのしかった」という感想しかなかったと思います。
しかし記憶が薄れ、覚えていたはずのストーリーがあやふやになるにつれて、もう一度その話が知りたくなってくる。
その小学生は、昼休みや放課後にずっと図書館いる様なこまった子供だったのでがぜん、そのお話を「探し」はじめました。
しかし、みつからない。
小学校の図書館を隅から隅まで探しても見つかりませんでした。
日本昔ばなしやちょっと難しそうな民話集なんかも読んでみましたが載ってない。
『太閤記』が豊臣秀吉の一代記であるように偉人の伝記を読んだらわかるんではないかと、偉人伝のシリーズをはじからはじまで読んでも出てこない。
親に頼んで県立図書館に連れて行ってもらって子ども向けのカウンターで「こんなお話なんです」と覚えているかぎりのスジを説明してみたものの、やっぱりわからない。
ほんとに見つかりませんでした。
……今して思えば。何で素直に先生に聞かなかったのか。
そうなんですよ。なぜか聞きに行こうとかちっともも思わなかったんです。親にも「図書館に行きたい」としか言わなかったと思う。
きっと太閤記の元ネタはが全部分かったのに、このお話だけが見つからないのが悔しかったんだと思います。
そして。ずっと後になってのこと。
京都のとある私立大学に通っていた時。
小学校の同級生からの知らせで、先生が亡くなられたと知りました。
お通夜にも本葬にも間に合わないけど、せめて墓参りだけでもと帰省する途中、ラジオから聞き覚えのある物語が聞こえてきました。
お元気だった頃の桂歌丸師匠の口演を録音した『竹の水仙』でした。
落語だったのか。と思い、こんなことなら先生が生きてらっしゃるときに、素直にどこに載っている話なのか聞けばよかったと改めて脳裏に過ぎりました。
どうせ成人式や同窓会で会うこともあるだろうと思っているうちに、二度とそんな話ができないようになってしまったのだと、がっくりきました。
きっと、一杯色んなことを話せたろうし、文学部のある大学で教員免許をとるために勉強していますと伝えられたろうに、と。
歴史や物語を好きになれたのは、先生のおかげです。
そんな風に伝えたら、どんな顔をしてくださったろうかと。
『竹の水仙』は世話物というジャンルの講談あるいは落語のネタの一つです。
近くて遠く遠くて近い間柄の落語と講談は相互補完するみたいにネタの行き来があり、講談から落語になったお話もあれば、その逆もありまして、この話なんかはどちらでも演じられています。
(講談が強い分野のお話だと、忠臣蔵や赤穂義士のスピンオフタイトル、あるいは荒木又右衛門などの仇討物、歌舞伎役者を主人公にしたお話や真田幸村がヒーローとして活躍する軍談、落語でもやる皿屋敷や四谷怪談などの怪談もの、由比正雪の『慶安太平記』などがあります)
講談も落語も、古典として受け継がれている話がある一方でその時代時代で新しい話が生まれたり、補綴改作さらに拡大シリーズ化されたりしますが、それぞれに楽しさや面白味があります。いっそいうなら演者一人ひとりに違う面白さがある。
小学生の子供たちが息をつめて見つめる中、ノートも見ないでこちらを覗き込むような様子でお話になるくらいだから、きっと先生はこの話が大好きでなんどもなんども聞き込んだに違いない。
「先生は、どこでこの話を知ったんですか? やっぱりラジオですか? 誰の『竹の水仙』だったんですか? それとも本があるんですか」
そんな話をしたかったなあ、などと。
新選組の講談の資料をあさりながら、昔元ネタが見つからなかった物語があったことを思い出したので、長めの日記に書き置いておこうと、思い。
以上を書き留めました。