恒常性は、生理学において長らく、恒温動物の体温や脈拍などの調整機能として捉えられてきた。これは内部環境の変化に対し、元の状態に戻ろうとする働きである。例えば、筋肉を鍛えると一時的に筋繊維に厚みは増すが、何もせず放っておくと次第に萎んでいく。また風邪を引いた際、一時的な体温の上昇が見られるが、症状が治ると元の状態に戻ることも、恒常性のわかりやすい例だ。しかし、恒温動物の生態の多様性、複雑系の観点から見ると、そのような恒常性の捉え方はあまりに静的と言える。まず筋肉の恒常性の例から一つの疑問が湧く。恒常性が変化に対し拒絶的であるのなら、まず筋肉の成長を増進させる神経物質の量を、必要とする運動エネルギー量に対し、本来少なく分泌しなければならない。つまり、一度はその変化を許容しながらも、後に元に戻るよう身体の機能を調整しているのである。ここで恒常性のメカニズムは、複雑系の観点から動的であるという仮説が立つ。
恒常性に順行と逆行の性質を適用させる。
恒常性における順行と逆行の概念は、心理学の精神分析における概念、知覚から運動の変換(順行)と、運動から知覚の変換(逆行)に近しいと思われる。外部と内部の橋渡しと均衡を保つのが恒常性であり、仮に精神的労働を内省、身体的労働を外勢と呼称するとしたら、それらいずれかの接続が困難になった場合において、恒常性が損なわれた結果、いわゆる体調を崩す、神経の疾病、発達障害などとして表出するのだろう。
精神的恒常性と生理的恒常性の関係は、順行と逆行による連関から言及可能というのは、すでに述べた通りである。係る順行と逆行は循環を形成し、二項対立と三項関係の均衡を図る(恒常性と三項関係の記述については、キェルケゴールの『死に至る病』の関係の概念を参照したい)。恒常性の損なう度合いはその二項対立や三項関係などの偏向具合に依拠するものと思われる(美と醜の関係の哲学的考察から参照する)。
ここで一つの疑問を提起する。
恒常性が一つの総合的システムとして現れるのか、あるいは複数の連関を形成する複合的システムなのか。
しかし、一つの巨大な根源のシステムであるという見解に対しては、おおよそすぐに反例があがるだろう。もし仮に恒常性が生命の根源を司る代物であるのならば、恒常性それ自体により生命に纏わる多様性は排されるだろうから。
だから、ここで提案したいのは、恒常性というものには種類があり、仮にそれらを遺伝的恒常性、細胞的恒常性などと呼ぶことにしよう。また生命のあらゆる部分に拡張された恒常性は共時性によって立ち現れ、相互作用し、かつそれは順行と逆行の狭間に介入するものとしよう。これにより、生命の多様性は確保されるものとする。この論の最も重きに置くものは、生命の多様性の確保にある。
恒常性と恒常性との間に共時性は見られるか。
また、恒常性の適用範囲はどこまでか。
生理学的に用いられる恒常性とこの論内で用いられている恒常性とでは、論理階型が異なっているため、その点も念頭に論を推し進めていく必要がある。この論内での恒常性の定義は、大雑把に『順行と逆行の均衡を保つもの』であり、何かというとメタ認知的な概念であるから。これに伴い、順行と逆行、それぞれの定義は、系内の既存の蓄積情報を外部に作用に至る一連の過程を順行、外部からの刺激や情報を系内に取り込み、それを基盤に再構築、再調整、修正を反映させる過程を逆行とする。それぞれが有機的に相互作用し、順行から逆行への移行をフィードバック、逆行から順行への移行をコレクションとすることで、この循環を試行錯誤と置くことができるだろう。
複雑系生命システムを大元に異なる恒常性が列を成し、それらの中に順行と逆行が内含され、また各々における部分(例えば精神的脳の活動なり身体的脳の制御なり、細胞の代謝や遺伝形質、病理的メカニズムなど)の性質如何によって変数自体の個数も決まる。そういった複合システムが、恒常性の名のもとに共時的に姿形を変えながら変異を遂げ、収束へと向かっていく。それが複雑系生命システムにおける大まかなモデル案だ。
また、この事によりメタ認知的恒常性は複雑系を記述する際の用語となる。
鳥と卵、どちらが先かという問題がある。
そこにメタ認知的恒常性の観点を向けるならば、まず前提としてこう置く必要がある。鳥における卵とは一種の生態であり、それは外部環境と内部機能との生理的恒常性によって生じたものである。その恒常性は鳥の肉体によるメカニズムとして説明可能であり、するとその恒常性を発生させうるにはまず鳥の肉体と外部環境の二項対立ひいてはさらなる進化論的恒常性を要する。この事から鳥のほうが存在として先であると言える。
反例として卵が先の場合を考察するのならば、卵は創発的な内的機能と外部環境との二項対立により板挟みとなり、必然、外部からの刺激から身を守る術を持たない卵は熾烈な外部環境との恒常性を図るべくより殻を強固に、かつより小さい形態へと変異していくのが道理である。それはあたかも昆虫の生態のように。しかし、その進化は漸次的に足が遅いものである。遺伝子的変異は外界からの刺激に対し鈍く、また細胞的変異は比較的柔軟である。両者それぞれの遺伝的恒常性と細胞的恒常性との相互作用が進化を早める物であると同時に、変異の安定性を規定しているのである。ゆえに進化は漸次的重なり合いのもと、時間をかけて行われる。そのことから、卵が先である場合、卵は雛を孵させる以前に内的機能と外部環境との恒常性の崩壊により割れてしまうのが道理であり、否定的に見ざるを得ない。
メタ認知的恒常性の観点よりさらに鳥への進化と卵の形態を述べるのならば、卵は鳥が孵化させやすいよう樹木の枝などの高い場所にあるべきであり、またその生態から徐々に卵の体積は小さく、それに応じて鳥の体長も縮んでいったのである。そして卵がそのような場所に植え付けられる必然性は、はなからその卵を産んだ存在が鳥ないしはそれに類似した生態の動物である必要があるといった結論になる。
メタ認知的恒常性は、極度の抽象によって成り立つ数学の一理論においては効力を発揮せず、数学理論の連関に携わる分にはおよそ目処が立つくらいの期待に現状は留めておくことにしよう(例えば、演繹法という単体の手順には入り込む余地などないが、それと帰納法との二項対立においては対処する問題によって優位性が定まる。順行と逆行の作用が見られるという点について、メタ認知的恒常性の議論の余地があるだろう)。
演繹法は法則と実態の関連から結論を導き出す手法、対する帰納法は個別のデータから一般的法則を導き出す手法とされている。内部的情報の蓄積から結論への具体化が演繹法であり、また外部的情報の収集から結論への抽象化が帰納法である。このことから演繹法は先の定義に則るならば順行的手順と呼ばれ、帰納法は逆行的手順と呼ばれるものとなるだろう。ここにまず二つの関連から窺える一つの均衡が見出せたことになる。外部要因に依存する問題への対処に順行と逆行の両方の手順が適用されうる現実の様態を、ここでは暫定的に、可能的恒常性と名付ける事とする。
不良設定問題への対処として、この可能的恒常性の偏り、ひいては演繹法(順行)と帰納法(逆行)の循環を非線形振動子のようにモデル化し、人間の認識パターンとして定式化するというのはどうだろう。自己修正の可能性も開けるのではないだろうか。 つまり、問題を掘り下げると必然的に偏りが生じ、順行と逆行を逐一参照しながら均衡を保つことで結論の確度が保たれるとする仮説だ。言い換えれば、それこそが人間による推測の確度と不確定性の担保であり、経験的裏付けと理論的裏付けが定まるのである。
数学的理論に対するメタ認知的恒常性の有用性および応用性に関する仮説は、以上で示せたものとする。
メタ認知的恒常性を、熱力学における保存則のように捉えている節がある。その点を結びつけて考察するならば、メタ認知的恒常性におけるエントロピーの増大がどういうものか。カオス理論のような無秩序として受け入れる土台は、神経生理学における神経細胞の振る舞いを非線形振動子のモデルで説明した理論によって形成されているものと考えることができるだろう。しかしながら、それに対する反論は、『メタ認知的な概念に対して、非線形振動子のような複雑系の振る舞いを導入し、その均衡を保つ概念として恒常性を仮説に打ち立てるのならば、基準となる正常な振る舞いとはなんぞや』と、その具体性を問われるだろう。順行と逆行の淀みない循環がいわばメタ認知的恒常性の基盤とする考えである。ならば、その淀みない循環の正体、あるいは状態とはどのように規定されうるのか。現実の中間のような値を取りうるのか、あるいは原点を取りうるのか。またその両方か。ここで導入したいのは、原点を取りうる値と中間を取りうる値の差異を生み出すのが、時間の次元という仮説であり、どちらも検討に値する点だろう。二項対立としての前後、有無の問題。循環そのものに向けられた発生学的問いである。
恒常性へと向かう収束の過程の中で必ず予測不可能生、つまりカオスを内含している。このことから、恒常性による非線形振動子の循環作用そのものがカオスを生じうる。
相反する初期条件の二つが場に存在する場合、メタ認知的恒常性の下に循環作用が生まれ、カオスを帯びながら調和へと向かう、というのがさらなる仮説になる。ここでの初期条件に必要な要因は、互いに相反する性質を持つ二つの因子で構わない。それが恒常性の発生に必要な要素である。その上で、さらに個数が増えれば、その分だけカオスの値は増大し、調和という収束を迎えるまで多大な時を要すると考えられるかもしれない。
ここで人間が抱く矛盾思考の調和的図らいをも見て取ることが可能である。相反する性質の思考を共時的に抱いた際、その反発がメタ認知的恒常性(順行と逆行)の働きにより相互作用は循環を繰り返し、それは試行錯誤と呼ばれる認知機能にあたり、内部と外部の板挟みによる抑圧と発散のすえに行動の志向が逐一決定されていく。内部と外部の状態が互いに均衡を保とうと揺れ動く限り、矛盾の解消はなされないが、また同時にそれこそが循環であるため、停滞とはならない。このようにして、人間は相反する性質との反発、矛盾を抱えながら自立可能なのである。
運命論的な物の見方から来る反論として、物理学の応用にカジノのルーレットの予測可能性から引用すると、『限りなく1に近い確率の算出が連続する状況下において、メタ認知的恒常性はおよそ崩壊していると捉えられるだろう。しかし、そのような崩壊がある種の予定調和的状況に映るのは何故か』というものが想定されてくる。しかしその予測可能性の担保は推論と結論との二項対立を順行と逆行に当てはめ、さらに推論と結論のそれぞれに予測可能性と予測不可能性の二項対立を設けることで解決が見られる。推論(内的現実)における予測可能性(卓内の傾斜の角度、摩擦係数、ディーラーの込める力加減など観測者の認識内の現象)と予測不可能性(観測者の認識外にある現象)の非線形振動子的振る舞いの閾値と結論(外的現実)の以下同様の閾値が漸次的に重なり合うことで、前述の反論における状況の再現がメタ認知的恒常性の下で成立しうるからだ。つまり、反論内容から想定される状況さえも、カオスを内含したメタ認知的恒常性に変わりはなく、前述に挙げた、可能的恒常性の一形態なのである。また、その観点から、推論における予測不可能性と結論における予測不可能性とのギャップがいわゆるカオス理論の素とも言えるかもしれない。
以上のことから循環は発生学的に相反する性質を持ち合わせた二つのものが場に存在する場合において、存在可能であると言える。
美と醜に関わるちょっとした哲学的考察
美が醜を兼ねるのか、醜が美を兼ねるのか。
アスリトテレスの詩学の冒頭において、『模倣』の何たるかが描かれていた。曰く、人間は精緻な『模倣』を好むものだと。それが現実の模倣として精緻であれば精緻であるほど、人は知的快楽を覚え、そこに美を見出す。後に語られる所では、人間の悪性とも思える文脈の模倣が『悲劇』という行為にあたる。それはプラトン風にいうならば、悲劇とは、人間の醜という未完成部分を美という完成に近づける行為となる。その観点から結論すると、美は醜を兼ねるのかもしれない。少なくとも、悲劇の根本たる悪性は、その文脈の中に残り続けているのだから。
醜が美を兼ねる可能性を探る場合、それはプラトンによる観点の意に反し、醜とは美の未完成と解釈されず、詩学の浄化作用(カタルシス)に則るのならば、それは内的な働き(徳の蓄積)ではなく、外的な働きかけ(欲の解放)と一考の余地があるだろう。
そのような仮定を推し進めていくと、内と外の反発的な対立構造が見えてくる。言うなればそこに生じる感情的作用は『背徳』と呼ばれるものとなるだろう。すると、浄化作用は一見悪性から善性への転化という解釈がたちまち更なる醜への昇華と看做されうる。
つまり、人間の『美と醜』と二律背反ともされる対立構造は、実のところは浄化作用と呼ばれる感情の喚起、知的快楽を促す材料の域を出ない、身も蓋もなく、そのような結論が得られる。
『美と醜』は人間の一種の原動を駆り立てる燃料である。
善と悪の対立に通ずるように、それは人々の関心を惹いてやまず、時にその対立構造は人々に『模倣』という行為を促す。模倣、すなわち『同調』の作用である。人々は『美と醜』の『模倣』に触れることで、更なる知的快楽を求め出す。同一の物でありたい、あの対象に近づきたい、あんな醜悪なものにはなりたくない。そういった投影を引き起こす。
自分は実存の社会を深く知らない。そのため、これ以上の議論は机上を飛び出ない。
その上であえて案を一つ挙げるとすると、美と醜の関係性から得られる原動力を活用したいのなら、そこには自覚が必要だろうと想定される。詩学に則り、秩序だった文脈のなかで悲劇が構成されないならば、その詩作は不出来と評されるように。
おおよその二項対立として扱われる概念は恒常性のもとに相補完される。
この仮説を発展させれば、これまで不明瞭であった神経症であるか否か、発達障害であるか否かの境界を明らかにし、それらの基準にもなりうるかもしれない。
ここにおける反論としては、人間の性格の多様性により、二項対立や三項関係に留まらないというものが想定される。まず恒常性なるものが二項対立や三項関係を等号で結ぶものであるとするならば、いずれかの偏向により不等号が生じることで神経症や発達障害の診断を出すというものだろう。ここで等号と不等号の算出と、恒常性の基準が問題として挙げられると思われる。ここで一つ提案したいのは、性格や気質自体は非線形振動子のように揺れ動くものとし、精神的恒常性と細胞的恒常性と遺伝的恒常性とがそれぞれ独立しながらも共時性のもとに立ち現れるものと仮定する。そうすることによって、共時性によって生じた複数の恒常性の連関と個人の性格や気質を表す非線形振動子による等号と不等号との差異と漸次的な閾値の重なりが、神経症や発達障害か否かの線引きと判断するものとできないだろうか。
他者や自分に係る命の危機時における咄嗟の虚偽の供述は、精神的恒常性の原理から見て、どのように解釈できるか。フロイトにおける生の本能と死の本能が、順行と逆行の間で偏向を促し、いずれかの衝動に走らせるという仮説はどうだろう。
精神的恒常性は、自立と絡める事で動と静の均衡や成長につれて拡張されていく認識の幅とその障害に関わる偏向の仕方を論じることができるだろう。その論の基盤は、二項対立と三項関係の構造、順行性と逆行性に依拠する。
臨床心理学における物語療法の有効性は、感情の浄化作用(カタルシス)により精神的恒常性の回復が見られるという解釈はどうだろうか。また、精神的恒常性の自立は、外部からの刺激やストレスの強度に比例、あるいは相関があり、それによって損なう度合いが求められるのではないだろうか。その見解の如何は、中世における悲劇の流行と魔女裁判、現代における情報の飽和と流行の隆盛のサイクルの早さなどの狂乱と飽和の二つの角度から求められるかもしれない。
記憶の忘却に関するメカニズムから、以下のような反論が想定される。恒常性が偏在し、それらが共時的相互作用のもとに複雑系生命システムの多様性を確保すると仮に認めるとしよう。しかし、人間の記憶に関わるメカニズムにおいて、忘却にも恒常性が適用されうるのならば、およそほとんど外的作用(刺激)もなく、また同時に内的作用(想起)もないにも関わらず摩耗する過程、つまり恒常性の自己崩壊ともいえる矛盾的作用は、一体どのようにして解釈しうるのか。そのような指摘をされた場合、反駁は容易である。人間の忘却に関わる恒常性は、ニューラルネットワークの重みづけを用いることで説明できるのだから。この恒常性を仮にニューラルネットワーク的恒常性と置くことにしよう。ニューラルネットワークにおける順行と逆行はそれぞれ蓄積情報の出力と蓄積情報の更新におおよそ置換可能である。複数の類似的対象xの共通的特徴をa1〜an、b1〜bn、……のような形で収集し、重みづけをしていく過程は逆行に相当し、その蓄積情報を外部に出力する過程は順行に相当する。記憶の蓄積は順行と逆行による相互作用的循環の下に強度が確保されていく。記憶の摩耗、ひいては記憶の錯誤さえも、その循環の不足から生じる。類似性のある特徴は恒常性の下に漸次的に紐づけられ、異なる特徴かつ少ない情報量のものは、逆行の不足により循環から排され、そこから生じる偏りにより恒常性の崩壊を招く。その崩壊はただ消失という結果だけを得るのではなく、異なる特徴同士との比較修正の際に曖昧な形で混ざり合い、再構築の材料にされる。それが恒常性の観点から説明しうる記憶の忘却と錯誤のメカニズムである。
また、この論から、人工知能が自らが出力したデータさえも組み込むことによる過学習が結果として情報の精度を欠いてしまうという危惧が、この恒常性の観点より解釈可能となる。この危惧の問題点は人工知能が自らが出力したデータとそのほかの学習データとの区別がつかないところから生じている。順行から逆行への移行におけるメタ認知の欠如が、恒常性の崩壊を招き、過学習が起きると解釈できるのだ。また、このように問題点がはっきりとしたことで解決方法も模索可能となった。つまるところ、人工知能が出力したデータが巡り巡って自分のもとに“新たな”学習データに扮して戻ってくる際、そのほかの学習以前のデータとの区別がつけられるようになればいいのである。メタ認知的恒常性の発生を促すようプログラムすればいい。まず出力したデータにメタデータと分類できるよう予めタグをつける。新たな学習データとして扮した以前のメタデータと既存のデータとの比較修正の過程を逆行、それに並行して既存の蓄積情報をもとに出力した(新たにタグをつける)データと以下同様のメタデータとを比較する過程を順行とし、シニフィアン(フェルディナン・ド・ソシュールが定義した近代言語学の概念、記号表現)とシニフィエ(以下同様、記号内容)の循環作用のもと、漸次的に自己修正を施す事で、過学習を防ぐ、という現状の大雑把な目論見をここに記述しておく。
恒常性とは単なる調整機能に留まらず、既存の秩序の崩壊に際して、複雑系における新たな創造的転換を促す中間的機能を果たす。