「まあ、相手にとって不足なし、ということは認めるわ」
リアナはしぶしぶと言った。
視線の先には、恋人と呼ぶには少しばかり頼りない関係の青年がいる。隣の女性と楽しげに笑いあっては、治水工事の専門書や、イティージエン様式の建築、古竜の健康に良い食餌などについて会話が弾んでいる。
そんなにも長くデイミオンと会話したことなどないリアナは悔しくてしかたがない。これが教養の差というものなのか。
「喉渇きませんか? ローズマリーのサイダー、さっぱりしますよ」
横から手が伸びてきた。しゅわしゅわとして冷たい液体を口にふくむ。「あ、これおいしい」
しかし、二人が尾行をはじめて、もう半刻が経とうとしている。
サイダーはおいしいし、城に缶詰めになっているよりも街を歩くほうが楽しいのは事実だが、そろそろ疲れてきた。
「歩き疲れたわ」つい、愚痴がもれる。
「あのデ〇女、意外と動けるわね。内ももを肉離れすればいいのに」
王にも年頃の少女にも似つかわしくない暴言だが、フィルはにこにことそれを見守っている。
「少しくらい目を離しても行く先はわかりますから、ちょっと休憩しましょう」と言った。
なぜか路地裏に招くので、不思議に思いながらついていく。と、ワイン樽に腰を下ろすようにうながされる。外出時には基本的に護衛の言うとおりにする習慣のリアナだ。黙って従うと、フィルが片膝をついてしゃがみ、靴を脱がせた。
「ほら、靴擦れが」
言われてはじめて気がついた。たしかに、小指のあたりが擦れて赤くなっている。
「おろしたての靴なんか履いてきたからだわ」
かわいいワンピースに浮かれて、新しいブーツを選んだ自分が悪い。ため息。あのターニア・デラックスのほうが賢いし、たぶんデイミオンに好かれている。さらにため息。
だが、かいがいしく手当て用の布など取りだしたフィルを見て、びっくりする。
「そんなことしなくていいよ!」リアナは慌てた。
「今日は、オフだったのをつき合わせてるのに……」
「いいから、やらせてください」
物腰はやわらかいが、相変わらず有無を言わせない青年だ。仕方なく、手当をされるにまかせた。お茶を淹れるときの手つきなどが優雅なので気がつかなかったが、こうして見ると意外とごつごつしている。剣だこというやつだろうか。
「はぁ……なんか、むなしくなっちゃった。デイミオンって、モテるのね」
茶色のつむじに向かってつぶやく。「ルルとボール投げでもして、遊んでたほうがよかったわ」
「そうかな? 俺は楽しかったですけどね」手当てを終え、立ちあがる。「……こすれたところに布を当てているけど、また痛むようなら言ってください」
「ありがとう」
優しい青年なだけに、リアナが気に病まないように気を遣ってくれたのだろう。まあ、楽しかったところもないではない。焼き菓子とか、しゅわしゅわする飲み物とか。「……かもね」
腰を上げたリアナは、そろそろと足を踏み出してから、「帰ろ」と言った。
「帰りはおぶっていきましょうか?」
「もうー……フィルが言うと、なんだか冗談に聞こえないよ」
****
魅力的な女性との時間は早く過ぎる。デイミオンはそれを痛感した。そろそろ城に戻って、放り出した雑務に向き合わねばならない。あまり長く〈呼ばい〉を閉じておくのも心配だし。
それで本題を切り出した。
「シーズンの申し入れがあった男性数名と、あなたがお会いしていると聞きました。こんなふうに、一度だけ、昼に」
「はい」
ターニアはうなずいた。
「子どもも小さいものですから、しばらく家族水入らずで、シーズンのお勤めもお休みさせていただこうと決めましたの。それで、これまでお誘いいただいた方に、お詫びとお断りを兼ねてご挨拶まわりをしております」
「そうですか」
デイミオンは端正な顔に憂いをたたえた。「あなたのような方が……タマリスは火が消えたようになるでしょう」
「デイミオン卿こそ、今年のシーズンは新規のお申し出を全部お断りなさったとか。きっと、特別に感じる女性にお会いになったのでしょう?」
デイミオンは、本当に珍しいことだが、耳を赤くした。
「その……経験豊富なあなたに、ご意見を頂ければと思うのですが」
「もちろんですわ、デイミオン卿」
「仮定の話として、若い、シーズン前の女性がいるとしまして。その、友人の話なんですが――」
その相談は、さいわい帰城途中のリアナに聞かれることはなかった。
*****
お忍びの城下街探索には、ケブら数人が壁の染みのごとく護衛に貼りついていた。かつてフィルの副官だったテオは、だいたいこういう場合には彼の代替的な役割となるので城内に詰めていたが、戻ってきた王を見て一言言わずにいられない気分になった。
「なんであんたら、あんな密着して帰ってくんの?」
自室までリアナを送りとどけ、詰所に戻ってきた男にそう尋ねる。
「陛下が足を痛めたんだ。靴擦れで」
なにが嬉しいのか知らないが、しみじみと水など飲みつつ答える。「かわいそうに、こすれて赤くなっていた。新しい革靴はダメだな」
言葉とは裏腹の、この世の春と言わんばかりの満面の笑みだ。
「ほおー」
もしかしてその革靴は、という問いは飲みこんだ。関節をはずされて、雨の日をその痛みで察知できるような身体にされたくなかったからだ。がくぶる。
フィルバートはじっくりと座って仕事をする男ではない。立ったまま報告書に目を通し、水を飲み終えると、さっさと扉に向かった。振りかえりざまにコインを投げ、テオがそれをキャッチした。念のため、灯にかざして確かめる。「毎度」
テオが思うに、間諜とはこうして使うものなのである。
【終】
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