居酒屋の入り口に盛られている塩を回収して販売するという母のビジネスモデルの破綻に気付いた時にはもう、地球を滅ぼす巨大隕石はすぐそこまで迫っていた。すぐそこと言っても光の速さで一日くらいの距離で、人類がその両足で頑張って走ったって到底辿りつかないような場所なのだが、それでも天文学的数字と日々見つめ合っている学者にとってはあっという間の出来事らしい。思うに、彼らは自らの死のその先さえ見つめているために今この現在が見えていないのではないだろうか。
テレビではアメリカやらロシアやらがなんとか隕石を破壊しようとしたり、人類の一部を宇宙へ逃がそうだなんて悠長なことを言っているが、さすがにエクソダスするほどの時間は残されていないだろう。海外ではすでに暴動や略奪などが起きていて世紀末感がたっぷりだが、この国は二十年後だってまだ世界が続いている前提で生活が続いていた。かつてノストラダムス氏に振りまわされてからというものの、世界的終末感に疎いのかも知れない。それでもゆっくりと世界が壊れ始めているようであったが、懸命に日常を再現しようとする人々の姿はどこか滑稽であった。
かろうじて平常通り続いている学校での退屈で無意味な授業を終えて家に帰ると、玄関には脱ぎ散らかされたローファーが横転していた。もうひとつ男物のシューズも同じように転がっていて、二階へ続く階段にはスカートとズボンが打ち捨てられている。それを避けるように二階へあがると、廊下には姉のパンツと見知らぬ男物パンツが落ちていた。
耳を澄まさずとも、玄関まで聴こえていたその声。姉の部屋からは姉のメスとしての鳴き声が包み隠さず漏れている。肉が打ちあい粘膜と粘液が奏でる卑猥な音色。開きっぱなしのドアの向こうで獣のようにセックスしている姉とその恋人(だと思われる)はこちらに気付いても行為をやめなかった。
「ただいま」
私がそう言って帰ってきた言葉が「おかえり」かどうかは判らない。情けない声を上げる姉はそのままに、私は自分の部屋へ戻ってすぐにヘッドホンを頭にかけた。
姉は地球滅亡が訪れるとしってからずっとあの調子である。やりたいことをやって、やりたくないことはやらず、今の内に悔いをなくすのだとか。かつて学年主席であったという栄光は見る影もなく、今や食欲と睡眠欲と性欲の塊でしかない。
母はそんな姉にショックを受けて、三ヵ月前に家を出たきり帰ってこない。父はATMからありったけの預金を引き出した直後に若い男五人に袋叩きにされ、金を全て奪われたまま意識が戻らず病院のベッドの上である。
そんな色々なことを忘れるためにヘッドホンからディープ・パープルの『スモーク・オン・ザ・ウォーター』を流させた。あまり派手な曲ではないが、大音量で流せば大体の雑音は消えてしまう。しかし、この日の姉の喘ぎ声は発情したネコのようであり、イアン・ギランの声をかき消して私の耳に届いていた。
さすがに腹が立った私は窓際のポトスの鉢植えを壁に投げつけた。ベニヤの裏の石膏ボードも割れて壁がへこみ、床に土が散らばるが、それでも壁の向こうの喘ぎ声は止まらない。私はヘッドホンを外して壁に立て掛けてあった金属バットを手に取り、姉の部屋へと乗り込んだ。
「あんあんうっせぇんだよ! そんなに聴いてほしいなら公園でヤってろよ!」
部屋の入り口にあったカラーボックスをバットで殴ると、それは思いの外簡単に折れ潰れた。姉と接合している男の方は驚いてベッドから転げ落ちたが、姉は上気した顔にとろけたような目を張り付けてこちらをゆっくりと見上げた。
「ごめ……んねぇ、チエ。わたし、もう、こうしてないと、頭おかしくなりそうなの」
「もう十分おかしいだろ。別に誰とハメようがしったこっちゃねーんだよ。うるせーから外でヤれよ」
廊下に落ちていたパンツを拾って、それを窓から外へ放り投げる。ズボンとスカートも放り投げ、部屋の中に散らばっていたシャツも全部丸めて捨てた。男は慌ててシーツを身体に巻いて部屋を飛び出したが、姉は脚をがくがくと震わせながらゆっくりと立ち上がった。その股間から精液が垂れて床に滴っても、何も気にしていないという様子である。
「ねぇ、チエもヤろうよ。辛いこと全部忘れちゃうよ?」
「やんない。私を巻き込まないで。それと」
ナイトスタンドの上に捨て置かれた二本の注射器。それも外で衣服を拾っている男へ向かって投げつけた。
「薬はやめて。次見つけたらあの男殴り殺すから」
「えー」
姉は心底がっかりしたという様子で床に座り込んだ。その視線がナイトスタンドの引出しをちらと見ているのに気付いた私は、その中に隠されていた四本の注射器と白い粉末の入った袋を見つけた。
「あー、みつかっちゃった」
「お姉ちゃんさ、恥ずかしくないの? ちゃんとして死のうって思わない?」
姉はしばらく私の顔を見つめていた。口を半開きにしながらよだれを垂らし、まるでUFOでも見つめているかのようである。ややあって、姉はその口を歪め、私を鼻で笑った。
「だって、私はずっとちゃんとしてたもん。最後くらいちゃんとしたいのは、チエ。あんたでしょ?」
バットを握る手に力が入る。殴られると思ったのか、姉の体は小さく跳ねた。それでもその口は開き続ける。殺させようとするかのように。
「わたしはこわいんだぁ……ずっとちゃんとしてきたのに、したいことしないでちゃんとしてきたのに、世界が終わっちゃうなんて、あんまりでしょ? なんのためにちゃんとしてきたんだろう、って。その点、チエはいいよねぇ。ずっと待ってたんでしょ、世界が終わるの。もうトイレでお昼食べなくてもいいから。教科書も捨てられないし。だから、チエにはわたしのこと、わかるはずないよ」
衝動的にナイトスタンドをバットで殴って破壊していた。衣服を拾って戻ってきた男の肩も思い切り殴ってやった。鎖骨が折れたらしく叫びながら床を転がっていたが、姉はそれさえも笑っている。
「もう全部終わるんだよ。そんなかりかりしても、隕石は落ちてくるんだよ」
バットを握ったまま、私は家を飛び出した。今までは憂鬱でしかなかった外の空気が、今はこんなにも心強い。さっきまでいた学校へ戻って、ほとんど生徒のいない教室で机を蹴散らしても、誰も咎めない。
窓の外を見てみれば、緩やかに日常が崩れていくのがわかる。表面上は平和そうにしながらも、皆どこか大胆だ。校庭の隅で気の弱そうな女子を輪姦している男たちがいる。それを見ながら缶ビールを呷る体育教師。地面に寝そべって大空を仰ぐ男子。みんな思うところがあって、最後までの時の過ごし方を考えているのだろう。まだ数カ月の猶予があるというのに気が早いことだ。
私はもっと高いところから世界を眺めたくて、屋上の扉をバットで破壊した。誰もいないと思われた屋上は、しかしすでに先客がいた。
「やぁ、大島さん」
そう言って真っ赤な手を振ったのは、女子バレー部の横田さんだ。彼女はどこか中性的な見た目と性格で一部の女子に人気があり、それ以外の女子からは嫌われていた。
「……なにしてるの」
私は彼女の足元を見てそう訊いた。それが何か判らないから訊いたのだが、それが何でできているのかは判った。
「これかい? 私に嫌がらせしてきたやつらさ。もう二度と蘇らないようにしてるんだ。ほら、見てよ。こいつらみんな、違う顔してるのに腹の中には同じものが詰まってるんだ。面白いよね」
横田さんは床に並べられた女子の、大きく開いた腹に手を入れた。唐揚げの肉に味を染ませるようによくこねると、小腸を鷲掴みにして引き出した。
「こんな綺麗なハラワタなのに腹黒なんだ。面白いよね」
「うん」
あまりにも彼女が楽しそうだったから、私は頷いた。彼女はその隣の腹からも腸を引き抜き、腸で蝶々結びをしてみせた。
「大島さんは、なにかした? 世界が終わる前に」
私は首を横に振った。家に残してきた姉のことが頭を過るが、もうあの家に戻るつもりはない。
「別に、何かしなきゃいけないってこと、ないでしょ」
「でも、せっかく世界が終わるんだから。誰か殺しておきたい人がいたら殺しておきたいし、ほしいものがあれば手に入れたくない?」
一瞬だけ躊躇ったが、私は首を横に振った。しかし、どうあっても私に頷かせたいのか、彼女は再び口を開いた。
「なんでも協力するよ。銀行強盗でもなんでも」
「なんでも、って」
「男が欲しければ弟をあげよう」
「いらないけど」
「もしかして女の子が好きなのかな? そういうことなら私が一肌脱ぐけど」
「そういうわけじゃないんだけど」
「なら、なにがしたい? なにがほしい?」
きらきらと輝くその目を正視できなかった。私は掃除もされず汚れた足元を見て、それから天を仰いで――――そして、どうして私に望みがないのか理解した。
「――――なにも。私のほしかったものは手に入ったから。私の望みは叶ったの」
「大島さんの望みって?」
山の向こうの高圧鉄塔。その先の世界は今どうなっているだろう。テレビはずっと隕石の話題が続いていたのでいつの間にか見なくなった。世界のどれだけが正常で、どれほどの日常が正常と呼べるのか、私は解らない。けれど、ひとつだけ確かなことは、私にとっては今この時がとても尊いのだということだ。
「私はずっと、何かに消してほしかった。私の力じゃ抗えないほどの絶対的な何かに」
「それがお望みなら、私が殺してあげるけど?」
「それは、ダメ。私はきっと、抗えるから」
彼女は私に歩み寄る。手には刃物。大きな包丁だ。その刃先が私へ向かって走る前に、私は彼女の頭を金属バットで粉砕した。骨が砕ける感触が小気味よい。鼻と口から血が迸って、綺麗な顔が苦痛に歪む。よろめいて倒れたところを何度も何度もバットでタコ殴りにし、肘がどこだったか思い出せないほど体中の関節を増やして、もう動かないことを確認してからバットを投げ捨てた。
これからどうしよう。自分で死ぬ気はないし、逆らえる相手に殺されるつもりもない。
警察官だってきっと家族と過ごしているに違いない。とりあえず何か思いつくまでここにいようと、私は汚い床の上に寝転がった。
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