『トリックスター群像 中国古典小説の世界』井波 律子∥著(筑摩書房)
中国の五大白話長編小説『三国志演義』『西遊記』『水滸伝』『金瓶梅』『紅楼夢』の物語世界において、それぞれのトリックスターがどんな役割を果たしているかを検討しながら、中国古典小説の流れを辿るという目的の本書。
物語世界の枠組みという点から見ると、いずれも語り物を母胎としています。
語り物の三国志物語の世界では中心人物劉備と一心同体の張飛が、八方破れの大暴れで聴衆をエキサイトさせる大トリックスターであったのが、羅漢中が著者とされる『三国志演義』では大トリックスターの役割は善玉劉備と対立する悪玉の曹操へと変換される。
劉備も曹操も退場してからは諸葛亮がひとりで中心人物とトリックスターの役割を担わなくてはならなくなり、あの万能感につながるってなるのが納得です。
『西遊記』でも、開幕当初、天界を向こうに回して大暴れしたスーパートリックスター孫悟空が、三蔵法師の従者となりただの真面目なスーパー猿に変貌した後は、猪八戒がずるくて滑稽なトリックスターとして物語をざわめかせる役割を担う。
役立たずで孫悟空に守ってもらうだけの三蔵法師を中心に、真面目に三蔵に尽くすスーパー優等生孫悟空、そんな悟空をときに陥れようとする猪八戒、クールに黙々と従者としての役割をこなす沙悟浄と、キャラクター配置が絶妙でもあります。
盛り場で聴衆を前に講釈師がおもしろおかしく演じる語り物では、腕っぷしの強い無法者の張飛、孫悟空が演じる大暴れは、うっぷん晴らしを求める聴衆をどっと沸かせる盛り場演芸の花形であった。それが全体構造の完成度の高い長編小説化される過程で、単純な暴力型トリックスターの孫悟空や張飛からトリックスター役が変換されていく。
これに対して、講釈師の「水滸伝語り」をそのまま取り込んでいる部分も多い『水滸伝』では、純粋暴力の化身、大トリックスター黒旋風李逵が物語世界をかく乱し続ける。
封じ込められていた百八人の魔王を解放することによって開幕した『水滸伝』世界は、再び彼らが地底に回帰することによって終幕を迎えるという枠組みがあらかじめ決まった物語であり、中心人物の宋江はその枠組みを機能させる回路の役割を持つからこそ見せ場のない地味なキャラクターで、そうなると、大トリックスター李逵は宋江の分身として設定されたキャラクターとも読み取れる。だから宋江は最期に李逵を道連れにする、と。深いですね。
『西遊記』の完成度に比べると、ある意味未完成の『水滸伝』から生まれたのが『金瓶梅』。『金瓶梅』ははじめから単独の著者に構想された初の長編小説であり、十六世紀末の明末にいたってはじめて「語られたもの」ではない「書かれたもの」である白話長編小説が誕生したのである!
って聞くとすごいですよね『金瓶梅』。ただの昼ドラどろどろと思っててごめんなさい。(ワタシ、まんがグリム童話の金瓶梅が好きなのですけどね。)
淫蕩な悪女藩金蓮が大トリックスターとして大暴れしつつも再び『水滸伝』世界に回収される物語構造はお見事。
多種多様な女性キャラクターを書き分けたという点でも画期的だった『金瓶梅』を踏み台に、ついに中国古典小説の金字塔『紅楼夢』が生まれる!
って聞くとすごいですねぇ『金瓶梅』。ただの昼ドラどろどろじゃなかった。
グレート・マザー賈母が君臨する『紅楼夢』の物語世界では多種多様な女性キャラクターが活躍し男性は影が薄い。中心人物賈宝玉は、みずからは陰となって少女たちを輝かせ、同時にすぐれた少女たちの間を右往左往する道化型トリックスターの役割も演じる。
が、『紅楼夢』世界は緊密な物語構造、多種多様な人物像の書き分け、周到にして緻密な人間関係の描写、と完成度が高すぎるゆえトリックスターの活躍は限られてしまう。
というふうに、トリックスターに焦点をあてながら、物語構造やキャラクター配置をも読み解いていくのでとてもおもしろかったです。
テキストとなっている物語のあらすじを追いながら解説されるので、未読でも十分楽しめます。
『中国奇想小説集 古今異界万華鏡』井波 律子∥編訳(平凡社)
『捜神記』から始まる六朝志怪小説から唐代伝奇、宋代の筆記、明代と清代の奇想小説と。千五百年にわたる奇想小説の歴史の中から26篇が紹介されてます。
日本でもおなじみの「枕中記」や「牡丹灯記」や狐女房のお話など。時代によって物語のテイストが変わっていくのが興味深いです。
恋人や妻が幽霊だった、とかって、普通に想像したらおどろおどろしくて恐ろしいのに、〈もののあはれ〉で仕立て上げちゃう日本人の感覚ってどうなってんの、とふと逆に考えてしまったり(笑)
『室町時代の少女革命『新蔵人』絵巻の世界』阿部 泰郎∥監修 江口 啓子∥編 鹿谷 祐子∥編 玉田 沙織∥編(笠間書院)
「『新蔵人』絵巻は絵を伴って作られた物語作品です。しかもその絵の中には登場人物の台詞が書き込まれています。ちょうど挿絵入りの小説の挿絵の部分がマンガになっているようなものです。ですからみなさんも室町時代のライトノベル、少女マンガを読むつもりで、気楽に楽しんでもらいたいと思います。」p8より
なーんて〈はじめに〉でイイ感じに紹介してくれているのですが、内容は全然ライトノベルじゃなかった! 昼ドラだよ!!っていう、衝撃の男装女子のストーリーです。
衝撃といえば『ざ・ちぇんじ!』で『とりかへばや』を知って、オリジナルを読んだ時の衝撃もすごかったですけど、そういうインパクトでした。はい。
何がすごいって主人公がやりたいほうだいでけろっとしてるのがスゴイ。なにがしたいのコイツっていう。
同じく〈はじめに〉で
「本書は読者のみなさんに少しでも古文に親しんでもらえるよう構成を工夫しました」
とあるように、最初に読みやすい現代語訳と吹き出しでストーリーを紹介。
それから次々にそれぞれ異なる視点からの短い解説が続く、というふうにかなり読みやすい構成になってます。
「一つの物語を「読む」ということは、ただ物語の内容を読んで知るだけに留まるものではありません。その物語がどういう物語として「読む」ことができるのかを、解釈していくことを含めて「読む」と言います。そして物語の豊かさは、どれだけ多様な読み方ができるかによります。本を読むとは受動的ではなくむしろ能動的な行為であり、知的で創造的な冒険に他なりません。」p9より
ということで、中世の女性たちの窮屈さ、仏教思想とのかかわりといった視点から考えてみて…………も。
やっぱりヒロインはハチャメチャなのですけど。でも、こういう「心のまま」に行動するヒロインに、共感は持てなくとも、好奇や爽快さを感じるのは理解できて、それって、女性を取り巻く環境が当時も現代も本質的には変わってないからじゃ、なんて思えたりもしまして。
深いです。