『アトリのかばん』を書きおえました。ガタガタで粗の目立つ、決して出来のいいものではないけれど、とりあえず最後まで書きあげられたことにホッとしています。あとがきなんて大げさではとも考えましたが、自分がどうしてこのお話を書きはじめ、書きつづけられたのか、ここに残しておこうと思います。


 『アトリのかばん』の第一話を書いたのは、三年と少しまえ。外出先で、かばんのなかにしまったはずの折りたたみ傘のカバーが見つからず、「入れたものが消えてしまうかばん」というアイディアを思いつきました。

 アトリという人物は、当初、ただのイケメンでした。ただのって言い方はよくないか。すらっと背の高い黒髪黒目のアジア系美男子で、当時、消臭剤か何かのCMで目にした清潔感あふれる福士蒼汰さんのイメージ。でもさ、「私がイケメンを書く意味ある?」って、書くまえからなんとなくしっくりこなくて。その手の男性なら他の人が私よりずっと魅力的に書けるはず。そうではなく、私だから書けるものってなんだろう、そう思っていたとき、SNS上でのちのアトリのモデルとなる方に出会いました。

 広く浅いSNSという世界での、出会いと呼べるかも微妙なほど些細なつながりです。だいぶ前にご縁も切れ、いまはどこで何をしているかもわかりません。その方は、男性の体を持ちながら女性的な特徴が表れる、いわゆるクラインフェルター症候群の方でした。そして、10年前の災害によりふるさととご家族を一度になくされた方でもありました。

 Xジェンダーを自認する私は、その用語がまだ世間になかった十代のころから「なぜ世の中は男と女で完全に分けられてしまうんだろう」と悩んでいましたが、「こころとおなじように体も中性になれればいいのに」とちらりと思うたび、「実際そうなったら大変なことも多いよね」と、染色体異常という事象を知らずともこどもながらに推測していました。
 そんなぼんやりとした推測が、彼と出会ったことでにわかに解像度の高いカラー映像に切り替わりました。こころの性の在りようは隠すことができますが、身体的な特徴は常に人目に触れざるをえません。こどものころのいじめなどデフォルトで、大人になっても人間関係の築きにくさは変わらない。新しいコミュニティーに加わるとき、玄関で宅配便を受けとるとき、道ですれちがうときすら、彼は好奇の目にさらされ、うわさや偏見の対象にされていました。
 彼が日常のなかでつまずく石ころの多さに、私は「人はこんなにも他人の性別をはっきりさせたがるのか」と衝撃を受けました。男か女か、ジャッジせずには気が済まず、さらに「こんな男(女)、いるわけない」とまるで「欠陥品」のシールでも貼り付けるようにまたジャッジする。「昔に比べたらずいぶん多様性も認められてきたよね」なんて言われるこの現代日本で、彼は自分の存在そのものを削られるような毎日を送っていました。当時はまだ、クラインフェルター症候群という名前にもたどり着けないまま。
 
 『アトリのかばん』を書き進めるうち、私は何度か「もうやめちゃおうかな」と投げ出したくなりましたが、そのたびに思い出されたのが、彼がときおり自分を「ヒトモドキ」と自称していたことでした。
 デブやブスやオカマなど、他者が口にすれば蔑称になることばも、当事者が前向きなニュアンスで自称する分にはかまわない風潮があります。けれど、彼の口にする「ヒトモドキ」ということばは、彼が自分を卑下し、否定しているように響いて、私はそれが本当に嫌だった。

 生物学系の大学へ進んだ私は、自分の性自認の原因を探りたくて、在学中、身体や脳の性分化に関する資料を読み漁っていました。そもそも研究が進んでいないため資料自体がそう多くないのですが、それらに触れて分かったことは、「ヒトを含む生物の性の在りようは宇宙と同じでほとんど解明されていない」こと、そのうえでこれまでの知見から言えることは、「染色体が分離しきらないだの遺伝子が勝手に座席を交換しちゃっただの、細胞がサボってて大事な物質出してくれないだの、そんなことはいくらでもありえるし、生物としてはそれが普通だ」ということです。

 いわゆるセクシュアルマイノリティ(性分化疾患をここに含めるかの議論はまた別として)の存在を否定する文句として、「生物学的に」「本能として」「種の保存の観点から」おかしい、という論調は多く見受けますが、このように断じる人ほど生物学に関してまるで無知だと私は思っています。かつて科学的検証に基づいて「地球は丸い」と結論付けたガリレオをバイアスだらけの素人たちが嘲笑したように、人は基本的に信じたいものしか信じようとしないし、それを支える根拠はあまりにも薄っぺらなものです。
 だから、染色体が一、二本多いくらいで(もちろんそれによる心身への影響は大きいにしても)、言ってしまえばその程度の違いで、人間を「人でない」とみなすことが、本人さえそう感じてしまうような男女二元論の社会の空気が、私は本当に嫌で、馬鹿馬鹿しくて、悔しかった。「あなたはちゃんと人間で、生きていていいんだ」と何度も強く思いました。
 
 『アトリのかばん』は、私が彼に言いたくても言えなかった気持ちをおにぎりみたいにぎゅっぎゅと固めてできた作品です。この世界にいるたくさんのアトリが、ただふつうにどこかで生きて、それぞれの日常を送っている。そのことを書きたかったんです。特別でもおかしいわけでもなんでもない。アトリのような、グアニのような、フローレンスやフーシャのような、たくさんのたったひとりの人たちが、まぎれもない人間として、それぞれのこころと体でただふつうに生きているということを。

 この作品の一話を書き終えたあと、私は彼のふるさとにほど近い地域へ転勤しました。原子力発電所から25㎞。仕事では、彼も住んでいただろう、今なお帰還できない地域に入ることもあります。
 私は性自認が中性なだけで、身体が中性的な人の気持ちが分かるわけではない。被災した地域にいま偶然住んでいるだけで、大切な人や家やふるさとを失ったわけではない。何も知らない、何も失っていない私がこんなお話を書いていいのか最後まで自信はなかったし、これが「私だから書ける」ものだともやはり胸を張っては言えません。ただ、この物語の始まるきっかけをくれた彼に出会えてよかったし、アトリの背中を追いつづけた日々は幸せでした。
 
 このお話を書きはじめたころ、好きだと言ってくれた方、応援してくださった方、本当にありがとうございました。実力不足を強く感じた作品でもあったので、もっと勉強しなおして、今度はもう少し整った形で戻ってこようと思います。そのときはまた、温かく見守ってくだされば幸いです。