推敲に入りましたら、他賞の書き直しや書き足しが出るかと思いますが、今回は構成をそれほど変えずに推敲できると思います。
今後、間違えてる部分や、一致しない部分の推敲が重点になるので、
矛盾を見つけたらお知らせ下さい。見落としだと思います。
※ 三月二十二日 1
夜須の聞き取りに対する態度の部分を書きかえました。(以下抜粋)
『君には、集落に住む人々の文化や習俗に対して敬意が欠落している。一年前はあれほど良い論文を書いたのに、どうして突然、これほどまでに変わってしまったんだ』
と言うのが教授の口癖になってしまっていた。その記憶が夜須を苛つかせる。
『交野君なら真摯に丁寧に時間をかけてでも聞き取りをおこなうだろう。だから、信用を得て深く彼らの風習や習俗を聞き取ることが出来るんだよ。君のやり方だと警戒されてしまって、題材を深く掘り下げることが出来ない。相手を尊重し信仰に対して、もっと理解を深めようとは思わないのかね』
教授はそう言うが、所詮盲信だったり、勘違いや思い込みによるものなのだから、それに信憑性があり、事実確認できれば信じてやってもいい、と夜須は日頃から思っているし、そういうスタンスで研究をしている。
その点からすれば民俗学というものを斜から見ている仲間とは気が合う。
※ 三月二十二日 2
夜須が揚羽を視認したときのことを書き変えました。(以下抜粋)
最初から存在しておらず、交野が揚羽と呼んだときに夜須の知覚や視覚に影響を及ぼした先入観だったとは考えられないか。
※ 三月二十一日 2
かんべのお婆さんの話を聞いているセリフに胴塚のことを追記しました。
「さぁ、なんやったかなぁ。やけんどなぁ、胴塚は曾祖父さんが御先様の祟りを収めよう思うて、新しゅうしたんちや」
※ 三月二十二日 3
そこでふと、疑念が湧いた。火丸たちの生きた時代はおそらく源平合戦の頃、平安時代後期だ。九相図には寿永二年1183年頃とあった。鯨が漂着したのは養和の飢饉があった1181年頃、てふが落ち延びてきたのはおそらく壇ノ浦の戦いよりずっと以前か。首の年号を消したのもそれと関係があるのかも知れない。火丸たちはわざとてふたちが落ち延びてきた時期を、養和の飢饉の初頭にごまかして言い伝えているのではないか。島民は何らかの理由でてふを殺したことに後ろめたさを覚え、年代をごまかして他の言い伝えと混ぜて、真実を隠したのか。
火丸の子孫は惣領屋敷の交野家だ。確か、アクアマリンの親父が漁師をやめた際、交野家もやめたと言わなかったか? かんべの老婆は曾祖父の代で碧の洞窟に繋がっていた鍾乳洞の入り口を塞いだと言ってなかったか。しかも、胴塚を何故わざわざ建て直したのだ?
※ 三月二十二日 10
「ワガネガイカノウタ」に変更。
※ 参考文献他を記載しました。
良くないものに関して記載していません。記載の必要がある場合、お知らせ下さい。