書きかけだった短編に手を入れて公開しました。2016年に発表した短編「Vladimira」の番外編です。本編は「青葉第七文芸 第三号」に収録されています。検索すれば、通販ショップのサイトが出てくるのでよければチェックしてみてください。
内容としては、天涯孤独のJC箱崎いむるちゃんとロリババア吸血鬼ヴラディミーラの心温まる交流を描いた話になります。が、実際読んでみるとある意味でひどい話です。ドン引きされる方もいらっしゃるかもしれません。
本編である「Vladimira」は、わたしの中で新境地を拓いた1作でした。少し具体的に言うと、物語の節目から逆算してカタルシスを演出する段取り臭い作劇をやめ、あるがままの心理を綴る方向性にシフトしたのです。
尤も、これは最初からそう狙っていたわけではなく、当初の構想では、いつも通り段取り臭い作劇をやるつもりでした。ただ、その結果としてプロットが膨れ上がり、既定の文字数を大幅に超えることが明らかになってしまった。
どうしたものか。悩んだところで締め切りは待ってくれません。けっきょく、プロットを書き直しながら手探りで執筆していくことになります。1日の作業は前日に考えたプロットを破棄することからはじまり、その日考えたプロットも次の日には破棄される。その繰り返しが続くこと約1か月。ようやく光明が見えたのです。
そのとき参考にしたのがローリー・リン・ドラモンドやティム・オブライエンの短編でした。彼らの作品はしばしば時間軸を切り刻むようにして進行します。通常、物語と聞いて想像するような、一直線の流れではなく、ある決定的な瞬間を一つ定めたら、後はその前後を一見無造作にも見える形でばらばらに配していくのです。
「Vladimira」の構成でもその手法を採用しました。それぞれのチャプターで、重要な事件を一つ定め、その前後をばらばらに配することにしたのです。
それまで、わたしは、物語の節目となる重要なシーンをなるたけ効果的に演出することを考えてきました。たとえば、衝撃的な事実が明らかになるシーンなら、その前にタメやフリを設け、読者が主人公と一体となって驚愕するよう流れを作ってきました。それが、ここでいう段取り臭い作劇です。
しかし、「Vladimira」ではその手法を捨て、衝撃的な事実をチャプターの開始とともにいきなり読者に突き付ける形を採ることにしました。事件の追体験性を捨て、それがいかにして起こったか、主人公がどう感じたかが徐々にわかっていくような書き方に変えたのです。
結果として、大幅に文字数を削減することができました。また、それだけではなく、新たな物語の表現方法を手に入れたという手ごたえもありました。実際、この手法は別の短編でも用いられています。この「Vladimira外伝」もまたそうした一編となります。
尤も、この外伝では衝撃的な事件はいっさい起こりません。ただ、語り手の中で、少しだけ印象的なことが起こるにすぎません。それは、話の終盤になって明かされるでしょう。その意味では、通常の作劇と変わらないのですが、そこに至るまでの過程をあまり筋道立てて描かないようにしています。
むしろ重視していたのは、過程ではなく、環境というか、登場人物2人の日常でした。印象的な出来事、というのも、その日常を話としてまとめるための道具にすぎません。このあたりは、ドラモンドやオブライエンだけでなく、当時よく読んでいたまんがタイムきらら作品の影響も少なくありません。
きらら作品もまたストーリー性が希薄で、展開があるにしても、それは4コマという断片の連なりによって表現されます。その独特なテンポ感みたいなものを小説の形で再現してみたい、という展望があったのです。
テンポ感に限らず、登場人物2人の掛け合いなんかはもろきらら作品の影響が出てます。こういうコミカルなものってそれまであまり書いたことがなかったんですよね。どっちかっていうとシリアスな笑いの方が趣味なので。
ただ地の文はドラモンドやオブライエン、あるいはジェフリー・ユージェニデスを意識してるので、台詞とはかなりギャップがあります。表面上はコミカルなものの、真面目な叙情でまとめあげてるんですね。その辺も含めて実験でした。