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そういうことではないというのはわかってる

http://costep.open-ed.hokudai.ac.jp/costep/contents/article/1861/

 なんかこういうイベントが近所であるそうで、そんで確かに、ってちょっと思ったんですよ。

 桃太郎のおじいさんはまあね、柴を刈って、というのを別に生業にしてるわけでもなければ、本筋にも絡んでこないので別にいいですけども、讃岐造よな。お前よ。おじいさんがネームドってよく考えたらめちゃ不穏でしょ。しかも、竹を刈っては「よろづのことにつかいける」ですよ。よろづのこと? 竹で? 竹にそんな柔軟性あります?

 つまりですね、讃岐造は竹を媒介にした能力者で、たとえば同質量の竹と「万(よろず)」のものを交換できるチカラがあって、まあでも過去には帝と一悶着あったりしたけど隠遁してたんですよ。
 それでね。そうすると讃岐造は、内心ずっと不安だったと思うんです。何にって、「かぐや姫も自分が作ってしまったんではないか」ということですよ。だってそうでしょ。竹が光ってて、そこに赤ちゃんがいるなんてこと、ありますか? 造はそれより自分の能力を信じてる。静かに暮らして行こうと思っていた。思っていたけど、もしかしたら自分は寂しかったかもしれない。子供が欲しいと願ってしまったのかとしれない。
 何も知らずに喜ぶおばあさんの影で、そのことをどうしても言い出せない造ですよ。自分がもしも死んだら、そりゃあ死後更に強まる念としてかぐやは残るかもしれないけれど、その保証はない。煩悶する日々が続いたと思うんですよね。

 ところが、月から迎えがやってくるという。現にやってきて、かぐやは連れ帰られる。多分この時、地球サイドで、内心一番ほっとしてたのは讃岐造なんではないかと思いますね。ああ、オレが【作った】わけではなかったんだ。お前にはちゃんとお前の人生があったんだな。

 っていう講演なんだと思いますので、時間が合えば聴きに行こうかなと思ってます。

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