ここ最近、コンビニや薬局で安眠サポートと称する商品が販売されるようになっている。
睡眠の質を上げるとか入眠をサポートして云々と言い、走りはヤクルトだったと思うのだが、最近はカルピスやピルクル、類似の(何故か皆胃に優しい系統)商品が次から次へと販売されている。
他方、以前に記事にもしたようにカフェインの合法性に目をつけて、キツい量のカフェインが含有された飲料なども販売されており、過去にこそイキった若者の飲料であったこれらカフェイン系エナジードリンクもとうとう一般化し珈琲の延長線のようなイメージでやっていこうとする飲料まで現れるようになった。
これらを総合的に察するに、つまり起きている間はシャッキリと起きて、寝る時はスイッチをoffにしたかのように眠るのが現代人の求める生活態度であるということになる。機械じゃないのだから、過去に高度経済成長期時代に言われた”エコノミックアニマル”という半ば嘲笑じみた欧米人から見た日本人の印象はこのまま固定されてしまうのではないか、という気持ちが起きてしまう。仕事の日にも昼寝の時間を設けるラテン系のノリを日本人は一生理解することがないだろう。
さて話を安眠飲料に戻す。
試供品、安かったから等の理由でこれらの飲料を飲むことが私にもあったわけだが、これらの飲料は入眠サポートというより安眠サポートであり、具体的には一切夢を見なくなる。
成程、これを求める現代人も確かに存在するであろうとは思われたものの、実際にこれをやってしまうと睡眠というよりはワープであり、普段入眠が浅く、四六時中夢を見ている文乃綴という一個人はこれらの飲料を摂取したどころで一切”寝た”感じがしない。寧ろワープしており、損しているような気持ちにすらなる。
いや、睡眠の本体とはいっそ夢のことを指すのではないだろうか?
夢は様々な出来事を思い出させてくれる。
定期的に新しい学校に入る夢を見るぐらい、私は学校機関にコンプレックスを抱いていることが理解出来るし、大学に入る夢なんて相当な回数見た。現実にはそうはなっとらんのだが、夢の中では一瞬そういうことを忘れて
「レポートを書かねば」
などと適当なことを考え始め、夢の中で最近読んだ思想書の読解を始める。この時、夢の中で
「やはりフロムの『自由からの逃走』は名著であり……」
などと滔々と説明をし始める自分が居るのだが、夢の中なのだから説明したところで自分以外に聞いている相手は居ない。
最近、夢を見せる何らかの機関もそれを心得ているのか
「だよねー!」
みたいな、相槌をうってくれる場面が増えてきた。夢の中で思想書の中身について自問自答している怪人がここに居る。
夢を見て起きた時のあのがっかり感がたまらなく好きで、初恋相手が夢に出てきたりすると嬉しくなるし、三島由紀夫が出てきた時は夢の中で殆ど絶叫していたし、何故か三島つながりで美輪明宏が夢に出てきたこともある。なんか縁起いいんじゃないかな、それ……。
起きてから
「ああ私、大学生じゃなかったんだ……」
と思って悲しくなるのだが、この悲しみというのは本当に独特で、如何にも酸っぱい葡萄という感じがしてならず、何だかんだ独学者は正規で勉学に励む人間に或る種の後ろめたさを抱えて生きているのである。
近日中に政治系テキストを『第四の文学』にて投稿予定。
大江健三郎の死に寄せて
『小石の崇拝、或いは何故文学オタクは美しくなることを諦め大江健三郎を愛するに至ったのか』
アラン・ド・ブノワとナショナリズムの変遷から、後日の同人誌において展開される理論の叩き台として
『辺境と普遍、現代におけるナショナリズムの二つの側面について』
の二つを、書きたいな……書きたい。希望系なので弱々しい。
何故か4月がやたらと忙しくなることだけは確定しているため、記事については確約が取れない。本当であれば小説を書きたいところなのだが……。