安酒の匂いが混じり合う。玄関のドアが開くたび、私の世界はその二つの匂いで満たされた。今夜も夫は、その悪臭を背負って帰ってきた。
「ただいま」
その声には何の感情もない。ただ、これから始まる儀式の合図だった。リビングに巨体を投げ出し、テレビのボリュームを上げる。そして始まるのだ。会社への愚痴、世間への不満、そして、その全ての矛先が私へと向かうまでの、カウントダウンが。
「おい、聞いてんのか!」
グラスをテーブルに叩きつける音。びくりと震える肩。私は息を殺し、ただ嵐が過ぎ去るのを待つだけの貝だった。殴られ、蹴られ、髪を掴まれ引きずられる。痛みで意識が遠のく中で思うのは、いつも同じこと。「なぜ、私はこんなにも弱いのだろう」と。
そんな毎日に、亀裂が入ったのは偶然だった。古びた雑居ビルの地下から漏れ聞こえてくる、乾いた衝撃音。好奇心に引かれて覗き込んだ先には、汗と熱気が渦巻く、別世界が広がっていた。
ムエタイ。
サンドバッグを叩く男たちの、鋼のような肉体。キックボクシングとも違う、もっと原始的で、凶暴な匂い。トレーナーらしき男が、痩せた若者に低い声で何かを囁いている。隅には、賭け金らしき札束を握りしめる男たちの姿も見えた。非合法な地下のジム。それが、私の心を捉えて離さなかった。
「強くなりたいか?」
背後からかけられた声に振り向くと、顔に古い傷跡を持つトレーナーが立っていた。私は、か細い声で、しかしはっきりと頷いた。
地獄のトレーニングが始まった。痣だらけの身体に、新たな痣が重なっていく。だが、夫に作られた痣とは全く違う。それは、明日への希望を宿した、誇らしい痣だった。サンドバッグを夫の顔だと思い、憎悪の全てを叩き込んだ。
ローキックで相手の軸を砕く。首相撲で動きを封じ、ボディに容赦なく膝を突き刺す。そして、至近距離から叩き込む、剃刀のような肘。トレーナーは言った。「これはスポーツじゃねえ。生き残るための技術だ」と。
そして、チャンスは思ったよりも早く訪れた。
その夜も、夫はいつにも増して酔っていた。絡みつくような視線が、私の全身を舐め回す。
「なんだその目つきは。反抗的なつもりか?」
愚痴が最高潮に達し、夫がソファから立ち上がった。大きく振りかぶられた手が、私めがけて振り下ろされる。
――その瞬間。
恐怖は消えていた。私の身体は、憎しみと訓練によって研ぎ澄まされた刃と化していた。
反射、というにはあまりに正確に、私の右足がしなる。
「ゴッ!」
鈍い音と共に、夫の太い脚に強烈なローキックがめり込んだ。巨体がぐらりと揺れる。悲鳴を上げる間も与えない。踏み込み、夫の首を両手で捉える。首相撲。驚愕に見開かれた顔が、目の前にあった。
「がっ…!?」
がら空きになった腹部へ、祈るように、しかし全力で膝蹴りを叩き込む。夫の身体が「く」の字に折れ曲がる。
そして、とどめ。
崩れ落ちる夫の顎へ、下から突き上げるように右肘を叩き込んだ。
「ガッ…!」
短い断末魔。夫の巨体は、まるで糸の切れた人形のようにリビングの床に崩れ落ち、ピクリとも動かなくなった。
静寂が部屋を支配する。鉄の匂い。でもそれは、私の口の中に広がる、いつもの味ではなかった。夫の口から流れる、鮮血の匂いだった。
私は、倒れた夫を冷たく見下ろした。震えは、もうない。ただ、長年私を縛り付けていた重い鎖が、バラバラに砕け散る音だけが、頭の中に響いていた。
スマホを手に取り、慣れた手つきで番号をタップする。
「はい、119番です。事件ですか?救急ですか?」
私は、深く、深く息を吸い込んだ。新しい世界の空気を、初めて肺いっぱいに満たすように。
「救急です。夫が、倒れたので」