第8話「暴発」

 終業を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。

 日本史担当の今井先生が退室すると、生徒たちも三々五々立ち上がり、部活や帰宅のために教室から出て行った。比呂もテキスト類をカバンにしまい込んだが、自分の席から立ち上がろうとはしなかった。一平太と教室で待ち合わせる予定になっていたからだ。

 やがて、いつものようにドタドタと一平太が小走りでやって来た。

「ああ、ペータ。これだろ?」

 比呂は一平太の顔を見ると、自室の鍵がついたキーホルダーを彼に差し出した。

「念を押すけど、PC以外触らないでくれよ?」

 昨晩の電話で打ち合わせた通り、一平太はPCから「V.H.最終章」のファイルを取り出すため、友人と共に、比呂の部屋に向かう事になっているのだ。

「判ってるよ。でもお前の部屋に向かうのは、遅れるかもしれないぞ。別の人間と会わなきゃいけないからな」

「え? 別の人間って?」

「『湘二』の生徒だよ。友人のつてで紹介されたんだ。ちょっと話を聞きに行くんだ?」

「ちょ……ちょっと待てよ。また、怪談ファン?」

「ああ、そうだよ」

「何で、今日? そういうのは、また別の日でいいだろ? 何でこんな重要な時に……」

 「湘二」とはキタ校から最寄りの公立校の一つである、湘南第二高校のことだ。一平太は、日頃からありとあらゆる手段を講じて、実話怪談を収集している。初対面の人間にいきなり食事を奢る代わりに、体験談を聞かせてもらう事などもしょっちゅうらしい。

「今だからだよ。昨日話しただろ? 気になることがあるから、それを確かめに行くんだ」

「そうなのか……」

「こうしちゃいられないんだよ。今日は予定がてんこ盛りなんだ。じゃ、お前の部屋でまた会おうぜ!」

 そう言ったきり、一平太は背を向けて、またバタバタと教室を出て行ってしまった。

 比呂は小さく溜息をついた。あのエネルギッシュさは、時には見習う部分もあるかもしれないが、真似することはとても出来ないと思ってしまう。

 少し遅れて、比呂も教室を出て写真部の部室に向かった。今日は、定例となっている撮影会が行われるのだ。「撮影会」とは、徒歩で校外を回り、散歩がてら色々な景色を撮影するイベントだ。キタ高は、近隣に神社仏閣などの撮影スポットが山ほどあるので、このような企画にとっては、うってつけの環境なのだ。

 その日は比呂を含めた八人の部員で、金沢街道沿いの花々を撮影することになっていた。キタ高の校門を出ると、曲がりくねった石段を降りて、北鎌倉駅へ向かう。そこからさらに歩き続け、鶴岡八幡宮を通り抜けて金沢街道まで到達するのだ。

 初夏の鎌倉は、境内の中だけではなく、あちこちに名前も判らない色とりどりの花が咲き誇っていた。最近になって急に草花に関心が出てきた比呂は、園芸に詳しい女子部員に植物の名前を一つ一つ聞いては写真を撮っていった。

 今日は、朝起きてから今まで、一切不穏なことは起こらなかった。例の佳子の隣の部屋の窓も、今日は固く締められた状態だった。

 しかし、だからと言って、比呂の不安は少しも和らぐことが無かった。彼の脳裏には、ここ数日で起こった一連の事象、とりわけ昨晩目撃したあの踏切の風景が、悪性の腫瘍のように巣食っていたのだ。

 寺院の山門付近に白い山アジサイが咲いていたので、カメラを向けた。何回かシャッターを切った後、何気なくスマホを取り出して、時刻を確認した。

 比呂は舌打ちをした。思ったよりも随分時間が経っていた。夏至が近く、日が長くなっていたので油断していたのだ。金沢街道からキタ高までは、徒歩以外の移動手段は無い。今から学校に戻っても、かなり遅くなってしまうだろう。佳子の下校に今日も付き合わなくてはいけないことは判っていたのだが……

 自分は先に帰ると他の部員に告げ、比呂は単身キタ高へ速足で戻ることにした。

 その途中、北鎌倉駅を通り過ぎ、石のトンネルをくぐった辺りから、何故だか嫌な胸騒ぎがワラワラと起こって来た。それは、決して体力が貧弱な比呂が、急な石段を急いで昇っているからでは無かった。

 今、佳子は何をしているのだろう……無性に気になる。

 スマホを右のポケットから再び取り出すと、電話を佳子宛てにかけてみた。

 発信音がしばらく続いたのち、着信音に変わった。しかし、いつまで経っても電話は取られなかった。まだ、部活が終わっていないのだろうか。

 やがて、坂道を昇りきり、キタ高の正門に到達した。校舎に向かう途中で、再び電話をかけた。今度は、数回の着信音の後で電話が取られた。

「あ、もしもし? 何?」

 間違いなく佳子の、それも平然そのものの声が返って来た。比呂はひとまず胸をなでおろした。

「ごめん、今学校に戻ったとこ、そっちは、どこにいる?」

「こっちも、今教室に戻って帰り支度してる所よ。じゃ、ここで待ってるね」

「判った、すぐ行くよ」

 電話を切った直後、北校舎の正面玄関をくぐった。そこから、一階の廊下を東側へ歩いて行く。東側階段に到達すると、二年A組の教室がある三階を目指して昇っていった。

 しかし、階段を一段ずつ昇って行くごとに、何故か比呂の胸騒ぎは鎮まるどころか激しくなっていった。

 たったさっき、佳子の声を聞いたばかりなのに……

 何かしら、途方も無く「嫌な物」が近づいているような気がする。

 いや、既に「それ」は、すぐ間近に迫っているのではないか……


(佳子が……危ない……?)


 それが、具体的に何を意味しているのかは定かでない。しかし、何故だかそんな脅迫じみた観念が、比呂を急きたてている。際限なく膨らむ不安で、胸が破裂しそうになる。

 二階と三階の中間にある踊り場に差し掛かった時、念のため、もう一度佳子に電話をかけようと思い、スマホを再度手に取った。

 ほぼ同時に、比呂の右手の中で、スマホがメールの着信音を鳴らした。

(何だ……?)

 受信ボックスを開き、送信者を確認する。

 戦慄の余り、身体が激震した。

 三階へと続く階段の一段目に右足を踏み出したまま、比呂の両脚は石像のように硬直してしまった。

 それは、アキラからのメールだった。


(何故……?)


 半ば無意識に、比呂の指先はスルスルと画面を滑り、そのメールを開いていた。


 ボクの大好きな佳子ちゃん

 キミのために、ボクは小説を書いたよ

 佳子ちゃんの大好きな、こわい話だよ

 佳子ちゃんがよろこんでくれるように、こわいこわい話を書いたんだよ

 きみにこわがってもらうためなら、ボクはなんでもするんだ

 だから、「あいつ」はキミのところに行くんだよ

 バリアント・ヘッドがやってくるよ

 キミをこわがらせるために、キミを切りきざむためにやってくるんだ

 まっててごらん

 佳子ちゃんをきりきざむために、あいつがやってくるよ

 ……

 ……

 ……


 メールの文面は、その後も延々と続いていた。

 しかし、そこまで読んだ所で、どこからか「あの音」が鳴り響いてきた。


(キチキチキチキチ……)


 脳に鈍器で強打されたような衝撃が起こった。

 それと同時に、比呂の視界は別の空間へと「瞬間移動」した。


(ここ……は……?)


(教室の中だ……)


(机と椅子が並んでいる……教壇や黒板もある……)


(これは……誰の視点だ……? またか……また起こったのか!)


(引き戸が開く音?)


(視界が回転した!)


(走ってくる!)


(あいつだ!……)


(教室の後ろの戸をくぐって……)


(走って来る!)


(右手を……カッターナイフを握った右手を大きく振り上げて……)


(あいつが……迫って来る!)


 金属をひっかいたような悲鳴が、頭蓋骨の内部で反響した。

 続いて、コンセントを引っこ抜いたように、あらゆる知覚が断絶した。

 比呂の意識は、音も光も無い、闇の底に放り込まれてしまった。


☆             ☆


 最初に、自分が自分であるという認識が、虚無の空間にぽつりと浮かんだ。

 続いて、漆黒だった視界に、胡乱な色彩が徐々に戻って来た。

 頭がグラグラと揺れ動き、車酔いをしたように、吐き気が胸の奥に渦巻いている。

 気が付けば、比呂は階段の踊り場で、背中を壁にもたれて立っていた。

 床に目を落とすと、自分のスマホが落ちていた。すると、あのメールを読んだ場所から、全く離れていないのか……

 心臓が爆発しそうに高鳴っている。手の平に脂汗がじっとりと滲んでいる。

 一体……何が起こったのだ……

 今のビジョンは……明らかに、どこかの教室の、一番後方から見た光景だったが……

 徐々に回復していく比呂の聴覚が、どこか遠くから届いてくる人の声を捉えた。


(何だ……?)


 耳を澄ますと、女子が慟哭しているような声に聞こえる。


(ひょっとして……?)


 スマホを拾い上げると、ふらつく体に鞭を打ち、矢も楯もたまらず階段を駆け上がった。三階のフロアに到達するや、東端の教室目指して全速で走っていった。

 A組が近づいてくるにつれて、声が大きくなってくる。それに同調して、忌まわしい予感が、いや増していった。

 教室の後ろの引き戸は開いていた。迷わずそこから室内に飛び込んだ。

 校庭側の窓際で、背中を向けたポニーテールの女子が四肢を縮めてうずくまっていた。

 間違いなく佳子だ。

 ひっきりなしに、彼女の慟哭が教室内に響いていた。

「佳子!」

 比呂は佳子に駆け寄った。しゃがみこんで、両肩をつかむと、一層佳子は半狂乱になった。両目から涙をボロボロと流し、顔をゆがめて泣き叫んでいる。

 先ほど垣間見たビジョンを、比呂は思い出した。

 誰かに襲われたのだ……

 比呂は咄嗟に教室内を見回した。

 二人以外、誰もいないことは一目で判った。人が隠れられるような場所も無い。念の為、両手を床につき、頭の位置を床ギリギリまで下げて教室内を見回した。教壇の短い四本の脚を通して、向こう側が見通せた。つまり、教壇の中に誰かが潜んでいるという事も無いのだ。

 佳子は、傍にいるのが比呂であることに気が付いたのか、恐慌状態だった表情を徐々に緩ませていった。

「どうしたんだよ……何があったんだよ」

 気が動転しているのは比呂も同様だったが、何とか平静を装って話しかけた。

 佳子の状態は何とか納まりつつあったが、比呂の手を両手で包み込むように固く握ったまま、泣きじゃくっている。しばらくは、言葉を発するのは無理のようだ。

 その時、比呂のポケットから電話の着信音が鳴った。スマホを取り出してみると、一平太からの発信だった。

 よりによって、このタイミングで……

 比呂は電話を取り、スマホを耳にあてた。即座に、一平太の耳障りな怒鳴り声が飛び込んできた。

「おお、比呂か! 大変だよ!」

「あ、ペータか。何か、あった?」

「俺の携帯に、アキラからのメールが届いたんだ! それも何十通も!」

 第一声で、またしてもとんでもない情報がもたらされた。立て続けに衝撃を食らい、比呂の心臓は悲鳴を上げた。

「え……? どんな?」

「最初は、俺のところにも例の『V.H.最終章』が送られてきたのかと思ったんだ! でも、添付ファイルは無かった。どんなメールだと思う?」

 その問いかけに対して、比呂の頭に浮かんだ答はたった一つしかなかった。

「ひょっとして……佳子に語りかけるような気持ち悪い文章?」

「ええ? 何で? 何で判ったんだよ!」

「それ、どんな文面? 最初の部分だけでいいから読んでくれ」

「わ、判った、ちょっと待て。一旦メール読むから」

 しばらくして、一平太は、問題のメールの最初の数行を読み上げていった。

 一文字たがわず、比呂に送られた物と同じ文面だ。

「もういいよ。後は判った。きっと僕に送られたメールと同じだよ」

「えっ、マジかよ! お前にも? 何通送ってきた? 俺には、全部同じ物が三十以上も送られてきたんだ!」

「え……?」

 比呂は、慌てて受信フォルダを確認したが……

 驚きのあまり、危うく叫び声を上げそうになった。いつの間にか、未開封のメールが三十六通もたまっていた。全てアキラからの送信だ。数個を開いてみたが、全て最初のメールと同じ文面だった。

「ええと……こっちも全部で三十七通あったよ。驚いた……」

「えっ!」

 一平太は、再度ひときわ大きな声で驚いて見せた。

「ちょ……ちょっと待て! 畜生! 間抜けだった! 何でそんな簡単な事に気が付かなかったんだ! こっちもきちんと数えてみる!」

 どうやら、一平太は何かしら重要なヒントを得たらしい。数十秒後、再び彼の声が返って来た。

「おい! こっちも三十七通だ! これで繋がったぞ!」

「え? え? さっきから何言ってんだよ。全然わかんないよ」

「よし、じゃあ基本的な事を確認するぞ。いいか?」

「う、うん……」

「まず、『V.H.最終章』の中には、『カムロミサ』の亡霊という『小説内都市伝説』が存在する。それにインスパイアされて書かれた『小説内小説』が、『V.H.』だという設定だ。そして、『V.H.最終章』の作品世界は、この現実世界と相似形を成している」

「うん、そうだね」

「となると、この現実世界にも類似の都市伝説なり、怪談なりが実際に存在するんじゃないかと思ったんだ。それで、検索しまくって調べたんだよ」

「それが、昨晩電話を切った後の話だね。あ、それで『湘二』の生徒に会いに行くってことになったのか」

「そういう事だ。で、結果を言えば、キタ高には類似の都市伝説は無かった。しかし、『湘二』にはあったんだ。正しく、首の無い制服を着た女子の幽霊の話だよ! だけど、その幽霊の名前は『カムロミサ』じゃなかったんだ」

「じゃ無かった?」

「ああ、そうだ。考えてみれば、『V.H.最終章』と『現実』は同一じゃない。あくまで相似形なんだ。例えば『最終章』内では『V.H.』を執筆したのは『アキオ』という人物だけど、現実で執筆したのは『桐谷』であるというようにね」

「なるほど……」

「で、実際に『湘二』に伝わってる怪談では、幽霊の名前は、『ヒムロサナ』なんだよ」

「ヒムロ……サナ……」

「サナだよ。お前、気が付いたか?」

「え……?」

「『サナ』は『三七』だろ?」

「あ!」

「そういう事だよ。都市伝説には何通りかのバージョンがあった。その中には、鏡に向かって『ヒムロサナ』と『三十七回』唱えると、背後に首の無いセーラー服の幽霊が現れるっていうのもあるんだ。俺とお前に『三十七通』のメールが送られて来たというのは、それと繋がるんだ。それから、もっと重要な事、気が付いてるか?」

「重要……?」

「『V.H.最終章』の小説世界では『V.H.』を『三十三人』が読み終わった時に『カムロミサ』が現れた。で、この現実世界で、奇怪な事件が連発したのはいつからだった? 『V.H.十二章まで』を『三十七人目』が読み終わった直後からだよ。その人物は?」

「ええと、それは……」

?」

「そういう事か……」

「そうだよ。。それから、お前はもう一つの『一番重要な事』に気が付いてるか?」

「もう一つ? 一番重要? ううん……」

「桐谷、菅原、それからお前……事件に巻き込まれた男子三人に共通している要素が何だってことだよ」

 思いもかけない謎かけだった。比呂はしばらく考えこんだが、皆目見当がつかなかった。

「いや、全然判らないよ……」

「う~ん、そうか。まあ、お前は知らないのかもしれないな。いいか? 。そして、お前も佳子とは非常に近しい関係にある」

「え? そういう方面の話に繋がってるのか?」

 佳子は、非常に男子に人気がある。彼女に想いを寄せている男子は、比呂が知る限りでも五人もいた。その内には菅原と桐谷も含まれているのだ。

「そして、そもそもアキラも佳子の事が好きなんだよ」

「え! マジで?」

「マジもマジだよ。あのメールの中にあった『ボクの好きな佳子ちゃん』という文面は、文字通りそのまんまの意味だってことだ……」

 比呂の頭の中は、情報の処理能力を超え、混乱状態に陥っていた。

「つまり……そうなると、どういうことになるんだ……?」

「『V.H.最終章』ってのは、アキラが佳子に当てた、一種の歪んだラブレターだってことだよ。始めっから、標的は佳子一人だったってことだ」

 比呂は絶句した。彼の想像が及ぶ範囲を、とっくに超越した話に発展している。

「あいつは、ホラーやオカルトが好きな佳子の為に、ありったけの『恐怖ドラマ』を用意したんだよ。自分が書いた小説と相似形のストーリーを、この現実世界を舞台にして描き出すことによってね。そして、ドラマの中の登場人物として、佳子には、嫌というほど怖がってもらおうという趣向なんだ。実際、この現実でも、『最終章』と同じように、『ヒムロサナ』あるいは『バリアント・ヘッド』が出没してるじゃないか」

「そ……そんな! 狂ってる! 有り得ないだろ!」

 比呂は、思わず大声を出してしまった。だいぶ落ち着いてきた佳子が、身体をびくりと震わせた。

「そうだよ、狂ってる。全ては、アキラの狂気がもたらした事なんだ。オカルト現象は、何も死んだ幽霊が起こす物ばかりじゃない。比呂も『生霊』って知ってるだろ?」

「う……うん。でも、それに何の関係が?」

「生霊ってのは、人間の狂気じみた執念、妄執が生み出す、疑似的な霊のことだ。今回の事件も、アキラの歪んだ恋愛感情が暴走して起こった物なんだよ。由利姉ちゃんが言っていた、心霊的に気持ち悪い感覚というのは、それを生霊のように感じ取ったって事なんだよ」

「ま、待てよペータ! じゃあ、この事件の行き着く先はどうなるんだよ……」

「アキラの目標は、。とりわけ、ターゲットになってるのは桐谷だろうな。あいつは、特に佳子に熱を上げていたから、アキラにとっては宿敵だったんだよ。実際、『V.H.最終章』の結末では、小説内で『V.H.』の作者ということになっている『アキオ』が殺されるらしいな。現実でも、その展開をなぞっていくなら、『V.H.十二章まで』を執筆した桐谷が危ないことになる。桐谷が抱いていた恐怖は、根拠のない物じゃなかったってことだ」

 その時、佳子が自分の涙を拭いながら、比呂の顔を見上げた。

「誰と話してるの? ペータ君……?」

 佳子が蚊の鳴くようにか細い声で囁いた。

「あ、ペータ。一旦、電話切るよ。続きは、僕が帰ってから部屋で聞くよ」

 確かに、一平太の話も聞くべきかもしれないが、今何よりも心配すべきは、佳子の状態なのだ。そして、比呂には、冷静に考える時間も必要だった。次々に起こる事件、そして洪水のようにもたらされた一平太の仮説で、思考能力がパンクしているのだ。だから、一平太には、たった今起こっている大事件については、後で話すことにした。

「ああ、判ったよ。実は、俺達はさっきお前の部屋に入った所なんだ。友達は、もう作業に取り掛かってるから、すぐに『最終章』のファイルをお前のPCから復活できると思う。全ては、それを読んでからだよ。じゃな」

「ああ、また後で」

 電話を切り、スマホをポケットにしまうと、比呂は床にへたり込んだままの佳子の表情を伺った。まだ、興奮が収まりきってはいないようだが、涙は流れていない。

「佳子、話せる? 一体何が起こったんだよ」

 比呂が話しかけると、佳子は再び比呂の手を握った。彼女の身体の震えが比呂の手にも伝わって来た。

 長い沈黙の後で、佳子はようやく……

「良く、判らないの……見た物を信じたくないんだけど……」

 と、消え入りそうな声で答えた。

「ひょっとして、誰かに襲われたんじゃないの? さっき僕は、その光景を『佳子の視点から』見たのかもしれないんだ……」

 比呂は、それを口にする事に、少なからず躊躇を感じた。しかし、ここは心を鬼にして最も重要なポイントを確認しなければならないのだ。

「そうかも……しれない……入口の方を向いたら、こっちに走って来たの。右手で握ったカッターナイフを……振り下ろしてきた……」

「ええっ? ど、どこかケガは?」

「ううん……きっと、カッターは窓ガラスに当たったんだと思う。私は、大丈夫……みたい……」

「その後、どうなった?」

「判らない……そのまんま床に倒れこんだ後、何が何だか判らなくなっちゃって……」

「そいつは、レジ袋を被っていた?」

「うん……女子の制服を着てて……両目の部分に穴が開いた袋みたいな物被ってた……」

 最後の方の言葉は、再び嗚咽交じりになっていた。先ほどの恐怖を蘇らせてしまったのだろう。比呂は、胸をえぐられるような罪悪感を覚えた。

 比呂は、立ち上がって校庭に面した窓ガラスを見回した。「その者」が振るったカッターナイフが当たったのであれば、ガラス面に傷がつきそうなものだと思ったのだ。

 そして、それはいともたやすく見つかった。

 最も後方の窓の、丁度肩と同じ位の高さの部分に、大きくガラス面が欠けた箇所が存在している。


(これか……?)


 続いて、比呂の視線は下方へ向かい、床面を舐めまわすように探索していった。何故か、そこに事件の痕跡が残っているのを予見していたかのように。

 はたして、決定的な証拠物が、床の隅に見つかった。

 折れたカッターの刃……

 それも、5、6枚がまとまった、かなり長い刃だ。根本側が、不規則な折れかたをしているから、器具を使って折った訳では無いだろう。文字通りナイフのように長く刃を押し出し、それを力任せにガラス面に突き立てれば、このような形で「砕ける」のではないか。

 比呂はそれをハンカチで包むように拾い上げた。よく見ると、元の部分が折れているだけでなく、切っ先側も少し欠けている。

 冷酷な現実が比呂に突き付けられた。その刃を持った指を起点にして、さざ波のように全身の皮膚が粟立っていった。

 確かに、先ほど言った一平太の仮説には一定の説得力があった。一応の筋立てが全て通っているように聞こえる。例えば、カッターナイフを振り下ろされたにも関わらず、佳子はこうして外傷もなく済んでいる。アキラの目的の一つが「現実を舞台にしたホラードラマ」によって、佳子を怖がらせることだというのなら、その者が彼女を傷つけずに立ち去ったことは筋が通った行動なのだ。

 しかし、だからと言って……?

 結局、どういうことになるのだ……?

 菅原と佳子に襲い掛かった、セーラー服を着た「何者か」の正体は?

 現に今、幻覚でも何でもなく、比呂の手の中でそのカッターの刃は物理的に実在しているのだ。圧倒的な現実感を持って。

 そして、先ほど垣間見たビジョンでも、あの者が被っていたレジ袋はスーパー「ユニバース」のロゴの印刷までくっきりと見えるほどに、実在感があった。そして、同じ者を佳子も見ている。疑いようも無く、あの者は現実に存在した、生きた人間だったということだ。

 ならば、その正体は?

 ずっと行方不明になっているアキラが、校舎内でセーラー服を着てウロウロしているとでも言うのだろうか。とてもでは無いが、そんなことは信じられない。

 考えてみれば、先ほど佳子が襲われた時、比呂は直ぐ近くの階段の踊り場にいたのだ。その者が、佳子を襲った後に逃走したのであれば、下の階に降りる方法は二か所ある階段を使う以外には無い。A組の近くにある東階段を降りたのなら、踊り場に立っていた比呂の目の前をすり抜けて逃走したことになる。そうでは無く、西階段を降りて逃走したなら、長い廊下を端から端まで走破したことになる。いずれにせよ、犯人が誰であろうと、そんな事があり得るのだろうか。

 百歩譲って、それがアキラの仕業だったと認めることにする。佳子の机の中に、頭部を切り取った写真を入れたのも、アキラの仕業だったとする。

 ならば、更衣室と佳子のロッカーの鍵を開けた者は? しかも、どれを使ったのか、判るはずの無い佳子のロッカーだけを狙い打ちにする方法は? それもアキラの仕業だというのか?

 何もかも訳が判らない……

 一平太の説明は、比呂にとって、何の解答にもなっていないのだ。


(それにしても……)


 と、比呂は首をかしげる。

 またしても、あの「」が鎌首をもたげている。

 先ほど垣間見た、あのビジョン。

 ……

 所が、それが何なのかを追求しようとすると、頭の中に靄がかかったように、記憶の焦点がぼけてしまう。

 その時、ようやく佳子がよろよろと立ち上がった。どうにか嗚咽は収まったようだが、まだ顔面は一目で判るほどに蒼白だ。

「どう? 歩けそう?」

「うん……」

 佳子は、自分の机の上に置いたままになっていたバッグに手を置いた。それを持って教室を出るのかと思いきや、何かを思いつめたような表情をして、ぴたりと動きを止めてしまった。

 比呂は、佳子の横顔から、彼女が何か重大な事を言いよどんでいるのだと感じ取った。だから、彼女に次の行動をあえて促さなかった。

「ねえ比呂。頼みがあるんだけど……」

 佳子は比呂の方へ向き直ると、真正面から目を見据えてそう言った。その瞳の奥に、悲愴なまでの決意の色が潜んでいた。

「頼み……? 何……?」

「行きたい場所があるの。一緒について来て欲しいんだけど……」

 そう言われたと同時に、比呂の脳内に一つの光景が一瞬だけフラッシュバックした。

「行きたい所? 今の時間から? どこに?」

 そのように言わざるを得なかった。

 しかし比呂には、佳子がその後どのように答えるのか、実は判っていたのかもしれなかった。

「御魂神社ってとこ……すぐ手前に踏切があるの……」


☆           ☆


 予想していた事とはいえ、その提案に対して、比呂は絶句してしまった。

 昨晩、液晶モニターに映し出されたあの踏切の画像が、まるで自分が今そこに立っているように、生々しく蘇った。

 しかし、それで比呂の腹は決まった。

 その名前を出されたなら、迷いを振り払って、昨晩の出来事を打ち明けるしかない。

「そうか……実は、僕もそこを見つけたんだ。佳子は、何でそこじゃないかと思った?」

 比呂のよどみない言葉に対して、佳子は目を見開き、小さく息を飲んだ。

 そして、しばしの沈黙を挟んでから、

「昨日、電話を切った後で、頭の中に見えたの……踏切の向こう側に、うっすらと鳥居が……だから、スマホの地図で線路沿いに調べたら……」

 と、答えた。

 比呂は、内心で苦笑した。自分と全く同じことを佳子もしたという事だ。

「そうか……でも、何故そこへ行こうと?」

「判らない……判らないけど、そこへ行けば、何かが前に進む気がするの……」

「怖くないの?」

 佳子は眉をひそめ、一層悩ましげな表情を見せた。

「凄く怖い……でも、そこに行かなくても、ずっと怖い思いをするのは同じだと思う。だったら、何故どうしてこんなことが起こっているのかを、一刻も早く知りたいの……」

 比呂は、両手の拳を握りしめ、しばらく黙思した。そして、決断した。

 確かに、そこへ行くことで何かが解明し、事態が前進するのかもしれない。すでに陽は沈み、辺りは暗くなり始めている。今の時間からその場所に行くのは、尚更恐ろしいのは確かだ。しかしその一方で、あの時モニターで映し出された画像と同じ時間帯で現場に行くことにこそ、何らかの意義があるのではないか、とも思うのだ。

「よし……じゃあ行こう。二人で行けば怖くも無いしね」

 すると、佳子は急に泣き出しそうな笑顔を浮かべ、

「ありがとう……」

 と、か細い声で答えた。

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