第2話「襲来」


 身体を動かすことが何よりも好きな佳子にとって、最も心躍る授業である体育の時間が終わった。

 佳子を先頭に、かしましい会話を交わすA組の女子の集団が、西校舎の廊下を南側へ向かって歩いていく。現在では、キタ高の体育の授業において、着替えは男女共に専用の更衣室で行う事になっている。かつては、普通の教室を使っていたのだが、一時期、悪質な盗難事件が多発したために、更衣室を設けたという経緯があるらしい。

「でも、佳子やっぱり凄いね。やっぱりバスケ部のレギュラーね!」

「ほんと! かっこよかった~!」

 クラスメートたちは、異口同音に佳子のプレイの事を称賛していた。もっとも、佳子本人としては、体育の授業では毎日部活で行っているバスケではなく、別の競技をしたいというのが正直な気持ちだった。

「別に、あたしなんて大したことないのよ。もっと上手い人なんていっぱいいるし……」

 そんな会話を交わしているうちに、一行は更衣室の前まで辿り着いた。

 佳子は、更衣室のノブの下にある鍵穴にキーを差し込んだ。

 生徒達は、個別のロッカーに各自の貴重品を入れて鍵をかけると、そのキーは授業中も各自が身につけておくのが決まりとなっている。

 そして、更衣室全体の扉については、生徒の代表者が責任をもって施錠と開錠を行うのだ。A組で鍵を預かっているのは、クラス委員の佳子だ。そのため、授業が終わったら、彼女を先頭にして、女子達は更衣室に向かって行ったのだが……

「あれ……」

 佳子は小さく声を漏らした。

 鍵を持った指先を起点にして、生理的な違和感が起こったのだ。

 右手をキーから離してノブを握りなおすと、やや乱暴に手首をひねった。ガシャリと音を立てて、ドアは開く。

「あれっ……? ええっ?」

 再び、佳子は驚愕の声を上げた。その場にいた女子の誰もが、彼女の異変に気が付いた。

「何何? 佳子、どうしたの?」

 最も傍でその様子を見ていた優奈がそう尋ねると。

「鍵……かかってなかったのかな……」

 佳子はひとり言のようにつぶやいた。

「ええ!」

「かけ忘れたんじゃない?」

 今度は、友人たちが一斉に驚く番だった。

「そんなことないわ! いつも、みんなが部屋を出たのを確認してから、最後に部屋を出て鍵をかけるんだし、それが完全に習慣になってるんだから!」

 佳子は、先頭を切って更衣室の中に入っていき、自分が持っていたロッカーの鍵の番号を確認する。そして、その鍵を差し込むことをせずに、いきなりその番号のロッカーの取っ手を握って引いてみた。

 はたして、何の抵抗も無く、乾いた金属音を鳴らして扉は開いた。

 一瞬の間を挟んで、佳子の金切り声が室内に鳴り響いた。

「キャアアアアッ!」

 色めき立って、友人たちは更衣室の中に入って来た。幾らなんでも佳子の悲鳴はただ事ではない。

 二重の意味で佳子は驚いたのだ。

 一つは、まさかとは思ったが、彼女の悪い予感が当たってしまったこと。自分のロッカーにも「鍵がかかっていなかった」のだ。

 そして、もう一つは……

「無いの! 制服が無い! ロッカーに鍵もかかってないし!」

「ええええっ!」

 その開け放たれたロッカーの中に「自分の制服がかかっていなかった」ことだった。

 スポーツバッグは入っており、貴重品を入れた巾着袋も無事だった。しかし、セーラー服もスカーフもスカートも「制服一式」が一切入っていなかったのだ。

 室内に女子全員の悲鳴が割れんばかりに轟いた。軽いパニック状態になった生徒もいた。

 無理からぬことだ。女子更衣室から制服が消えるというのは、尋常な事態ではない。

「じゃあ、盗難にあったってこと?」

「他に無くなった物は?」

 女子達は、各自で自分のロッカーを確かめてみた。しかし、他の生徒については、全てロッカーの鍵はかかっていた。そして、喪失していた物も皆無だった。

 となると、更衣室の鍵と、佳子のロッカーだけが開けられて、佳子の制服だけが盗まれたことになるのだろうか。念のために、女子達は、手分けをして全てのロッカーの中身を確かめたが、佳子の制服は何処にも見当たらなかった。

(一体、何故……)

 一つ一つの事実を確かめるたびに、じわじわと佳子の中に戦慄が広がって行った。身体の芯から震えが起こる。

 しかし、ぐずぐずしていたら次の授業が始まってしまうのだ。佳子はやむを得ずスポーツバッグを持って、ジャージ姿のまま体育の教師に事態の報告をしてから、A組の教室に戻った。この事件は、またたく間に学校中に広まり大問題となったが、佳子の制服は何処からも見つからなかった。


☆               ☆


 午後7時。

 部活を終えた佳子は、いつものようにモノレールに乗って、「湘南深沢」駅に戻って来た。

 あんな事件があった直後だ。帰宅するのは、できれば比呂と一緒の方が心強かったのだが、写真部の彼とは部活の曜日が合わないのだから仕方がない。一応比呂にはメールを送り、事件の事を知らせておいたのだが、返信は来ていない。だから、彼が自分の事を心配してくれているのかどうかは判らない。

 駅のホームを出ると、帰宅する前に駅前のスーパーに立ち寄って、夕食の為に買い物をした。制服が無くなってしまい、ジャージ姿で店内に入ったので、かなり恥ずかしい思いをしたが、これも仕方が無い事だ。

 惣菜売り場で、切り干し大根と好物のサワラの西京焼きを買った。こういう気分がすぐれない時は、美味しい物を食べることが最高の処方箋なのだ。

 それから、和菓子売り場にも立ち寄った。佳子は世の中の殆どの女子と同様、甘い物に目が無いが、どちらかと言えば和菓子党だ。この際、カロリーは気になるが、「清悠堂」のもなか「雪ノ下」を箱買いすることに決めた。着物を着た日本美人のイラストで有名な鎌倉銘菓だ。佳子はこれを一人で食べ切ってしまうほど好きなのだ。

 スーパーを出て、いつもと同じ帰路を歩いて行くと、やがて「サンフラワーマンション」が近づいてきた。マンションの前には、大きなトラックが停めてあった。荷台の内部に沢山の家財道具が入れてあるから、引っ越しなのだろう。また、新しい住人が入ったのだ。

 正面玄関をくぐり、ホールを横断して、エレベーターに乗り込んだ。五階のボタンを押すと、かごは上階へと昇って行き、やがて停止した。静かにドアが開くと、前方へ長く伸びる薄暗い廊下が現れた。

 エレベーターから外へ出て歩き始めると、廊下の奥のドアが一つ開いていて、内部から明かりがもれていることに気が付いた。ドアの周辺に荷物が幾つか積んである。

 そこから、短髪で細身の若い男性が出てきて、こちらに向かってきた。畳んだ段ボール箱や、膨らんだごみ袋を持っている。

 佳子は、玄関前に止めてあったトラックの事を思い出した。きっと、引っ越しの荷物を運び入れているのだ。引っ越し業者らしい制服は着ていないから、住人かその知人なのだろう。

 あの部屋は……? 男性の身体で遮られて良く見えないが、自分の部屋の「隣」だろうか……?

 すると、引っ越して来た新しい住人は、あの「いわくつきの部屋」に引っ越して来たということだろうか……

 そんなことを考えた直後、男性は佳子と一瞬目を合わせてから、すれ違った。


☆            ☆


 家族が誰も待っていない自宅に戻ると、佳子は初めに、収納棚の奥にしまってあった衣装ケースを引き出した。制服一式を失ってしまったが、夏服の上着については三着持っていたから、まずは問題ない。セーラー服のスカーフは、あと一枚しかなかったが、これも当面問題はない。しかし、スカートは常時使っていた物が二着しか無かった。その内、一着は今日盗難にあってしまい、二着目はクリーニングに出したばかりなのだ。三着目も持ってはいたが、調子に乗って余りに短く詰めすぎてしまったので、優等生の佳子は、いざ身に着ける段になって躊躇してしまったのだ。以来、ずっと衣装ケースに封印していた三着目のスカートを、ついに出す時が来たのだ。試しに身体に当ててみると、自分が思っていたほどには短くなかった。これならば、明日着て行っても白い目で見られることは無いだろう。どうやら、明日からは普通の制服姿で登下校ができそうだ。

 最大の懸案事項が片付いたせいか、急に腹が空いてきた。朝から鍋に一本の煮干しを放り込んだままにして作った出汁を使って、簡単な味噌汁を作った。それに、スーパーで買ってきた西京焼きと、切り干し大根と御飯を合わせれば、ディナーの完成だ。それを食べ終わると、食洗類を軽く水で流してから食洗器に入れ、スタートボタンを押した。

 その次は学生の本分、勉強の時間だ。ダイニングキッチンを出て自分の部屋に入ると、机に向かい、明日の英語の宿題を片付ける。その後は、最近特に判らなくなってきた、数学の予習に取り組んだ。

 そうこうしているうちに、午後十時。微妙に眠くなってきたので、明日の時間割を学生カバンに揃えてから、風呂に入ることにした。それが済むと、簡単に洗い場を掃除してからバスルームを出てパジャマを着る。ドライヤーの冷風で髪を乾かし、肌の保湿の為に薬用化粧水をつける。そして、電動歯ブラシと歯間ブラシで入念に歯を磨く。

 ダイニングキッチンを通過して、再び自室に戻ると、照明のスイッチを入れる。

 即座に、誰もいない室内がチカチカと照らし出された。

 これで、ようやく一日のノルマ全てを消化しきった。後は、眠るだけなのだ。

 佳子は、ベッドの端に腰を沈めると、そのまま上半身だけ仰向けになった。

 しばし、何も考えずに周囲に耳をすませた。

 目覚ましが時を刻む、小さな音以外には、何一つ聞こえてこない。

 息が詰まりそうな沈黙が、コンクリートの壁と床と天井によって、濃密に封じ込められている。

 先ほどまでは、日常のルーチンワークに専念していたので気が付かなかったが、自分はこんなにも寂しい空間で生きていたのだ。

 不安だ。

 どうしようもなく、泣きたくなるほどに、心細い。

 今朝読み終わったあの小説の内容が、生々しい熱を持って体内に残留している状態で、あのような事件が起こった。だから、仕方がないとはいえ……

 佳子は、情けなくなった。自分が、こんなにも脆い心の持ち主だったとは思っていなかった。

 こんな時に、不思議と思い出すのは、病院にいる母や出張先の父の事ではなかった。

 比呂は今、一体何をしているのだろう。もう寝てしまったのだろうか。

 今更ながらに、気づかされた。自分は、たまたま一時的な一人暮らしをしているわけだが、たった二週間で、寂しさと不安に押しつぶされそうになっている。しかし、比呂はこのような生活をずっと昔から続けているのだ。佳子の義理の叔父である比呂の父親はプロカメラマンで、一年中根無し草の生活をしている。そして、比呂の母親とは五年前に離婚している。それで比呂は「湘南深沢」駅の南側の、歩いて十分ほど離れたアパートで、父の仕送りを受けて一人暮らしをしているのだ。

 比呂は凄い。

 きっと、全く寂しく無いはずはないのに、それをおくびにも出さずに、いつでも泰然としていられる比呂は、凄く強い男の子なのだ。恐らくは幼少の頃から、心の何処かで抱いていたそんな感情を、こういう機会に、佳子は初めてはっきりと自覚したのだ。

 スマホを手に取って確認すると、比呂からのメールは届いていないようだ。勝手な要求だと判ってはいるが、自分がこういう精神状態であることを、比呂も察して欲しいと思ってしまった。

 アドレス帳を開いて、比呂の名前を表示する。両親の直ぐ次、上から三番目に登録しているのが比呂だった。彼は、自分の「親類」なのだから当然のことなのだ。

 しかし……

 佳子は、軽くつばを飲み込んで、自分の中にある僅かな躊躇を打ち消した。

 比呂に電話をかけると、間もなく、小さな発信音が耳に入り込んだ。

 義理の従兄弟である彼に、携帯で電話をかけるのは、実は殆ど初めての事なのだと、佳子は気が付いていた。


☆        ☆


 色とりどりの小魚達が、一斉に水面へ昇って来ると、小さな水しぶきを立てて、顆粒状の餌を猛烈な勢いで食い散らかしていく。

 いつもながら、彼らの食欲は凄い。先週新しく「比呂の同居人」になった十匹のカージナルテトラが、熱帯魚水槽に彩りを添えていた。

 「湘南深沢」駅から南へ徒歩十分、木造の古アパート「清風荘」の二階「四号室」に比呂は住んでいる。父親は一年中日本各地を飛び回っているため、完全なる比呂の一人暮らしだ。

 毎日のルーチンワークの最後の行程である、魚への餌やりが終わった。目覚ましを見ると午後十一時。後は、布団を敷いて寝るだけだ。

 スマホを手に取って、メールの受信ボックスを開く。昼間、佳子から送られてきたメールに、改めて目を通した。

 佳子の制服一式が更衣室から盗まれた、その事実だけを、やけに事務的に打った文面だ。正直に言えば、それを受け取った時には少なからず動揺した。今に至るまで、比呂の頭から、この件が離れることは無かった。「親族」の礼儀としては、即座に返信するべきだったのだろう。しかし、こんな時に、一体自分は彼女との距離感をどのように、どれだけ取ればいいのだろうか。ずっと昔から、その問題が解決できていない比呂は、いざ文章を打つ段になって、思考が凍ってしまった。

 しかし、このまま放置して置くのは、やはりまずいのだ。比呂は返信用のメール画面に、文字を打ち始めようと思ったが……

 それと同時に、着信が鳴った。それもメールでは無く電話の音だ。

 画面を見ると、よりによって佳子からだった。

 即座に電話を取りスマホを耳に当てると、彼女の声が小さく飛び込んで来た。

「まだ起きてた? 私だけど」

「うん、起きてたよ」

「メール読んだ?」

「うん、読んだけど……一体、具体的に何が起こったの? あの文面だけじゃ判らないけど……」

 佳子は、当時の細かい状況を話しはじめた。

 更衣室のドアがかかっていなかったこと、自分が使ったロッカーの鍵も開いていたこと、他には一切盗難は起こっていなかったこと、などだった。知りたかったことを、手っ取り早く彼女の口から直接説明してくれたおかげで、メールを送る手間が省けたともいえるが、同時に比呂は、従姉妹の非常事態でもメールの返信をしなかった薄情な男となってしまった。彼女の声を聞きながら、比呂は小さな罪悪感を覚えた。

 事件を知らせるメールを受け取った時から、比呂の頭には一つの嫌な考えが張り付いていた。そして、それは佳子からの説明を聞いたことで、一層鮮明になってしまった。

 外側から更衣室の扉の鍵を開ける方法とは一体何だろう。純論理的に考えれば、「犯人」が合鍵を持っていた場合、ピッキングの技術をもっていた場合の二つに可能性は絞られるだろう。常識的にはいずれも考えにくい話だが、絶対に有り得ないと断言も出来ない。

 しかし、佳子が使っていたロッカー「のみ」鍵が開けられていたことについては、どのように解釈すればいいのか。犯人が合鍵を持っていたにせよ、ピッキングしたにせよ、最初に開錠したロッカーが佳子の物だったということだろうか。

 その場合、犯人としては、手に入りさえすれば、誰の制服であっても良かったのであり、たまたま最初に開錠したロッカーが佳子の物だったに過ぎなかったというのなら、何の不可解さも生じない。

 

 佳子は、使うロッカーの番号は毎回異なっていると、はっきり言っている。となれば、沢山あるロッカーの鍵を片端から開錠し、中に入っている私物を確認しないと、彼女の制服であるかどうかは、判らないはずではないか。しかし、鍵が開いているロッカーは佳子の物たった一つだけだったのだ。他の、開けてはみたものの、「外れ」だったロッカーも沢山あったのならば、それらはピッキングの技術や合鍵で「再び施錠した」とでも言うのだろうか。一秒を争う犯罪行為において、そんな無駄な時間を費やす理由は全く考えられないではないか。

 もう一つの可能性は、更衣室で佳子がロッカーを使用した時に「犯人」または「共犯者」がその番号を目で確認していた場合だ。しかし、その人物は必然的に「女子」ということになるから、これもまた信じがたい話となってしまう。常識的に考えれば、女子高生の制服を盗む動機を持っているのは、変質的な男性だろう。

 冷静に考えれば考えるほど、制服は「無差別に盗難された」と考えた方が合理的なのだ。にも関わらず、比呂は、犯人が佳子をターゲットにしたのだと思えてならなかった。

 その理由は至極単純である。彼女が学年でもトップクラスにもてる女子だからだ。彼女に思いを寄せている男子は比呂が知っている範囲でも五人いる。潜在的には、もっと多いだろう。

 単に美人というだけではなく、気さくで誰に対しても分け隔てなく接することのできる佳子は、特に内気で真面目なタイプの男子の気を引く傾向があった。実際、中学生時代には、とある男子生徒が病的に思いつめ、ストーカーまがいに佳子に付きまとった事もあった。今日、制服盗難事件の一報を知った時に、真っ先に思い出したのはその件だったのだ。

 比呂の仮説には、何の論理的根拠もない。しかし、どうにも体の奥でザワザワした異物感がうごめいていて、気持ちが悪いのだ。

 これは、一平太が言うところの、一種の霊感なのだろうか。周囲のオカルト好きの知人や、霊感持ちを自称する父に言わせると、比呂はとんでもない強い霊感の持ち主であるらしい。しかし、余りに強すぎるが故に、普段は防衛本能でそれをシャットアウトしているのだそうだ。比呂は、その説に全く同意できていないが、仮にそれが正しいと仮定すると「他人に降りかかった危機」を察する能力については別だ、ということはあるのかも知れない。自分が抱いているこの居心地の悪さが、佳子に迫る危険を本能的に察知している証拠だとすれば……

 それを全く否定できないから、比呂は自分が思い描いた犯人像を佳子には決して口にできなかった。

「ねえ、頼みがあるんだけど、いいかな……」

 佳子が急に、神妙な語調で言った。

「え? 頼み?」

「明日、早起きして、私のマンションまで迎えに来てくれない?」

「迎えに?」

「そう……」

 比呂は、あえて「何故?」とは聞かなかった。

「何時に行けばいい?」

「六時じゃ無理?」

「判った。何とか起きるよ」

 佳子の気持ちを察したからだ。ならば、それを問いただすのは野暮なことだろう。彼女も比呂と全く同じ危惧を抱いている。しっかり者だと思われていた佳子でも、家に一人で取り残された上にこういう事態になって、不安に駆られている。彼女が送ったメールは、文面こそ事務的だったが、やはり深刻な救難信号だったのだ。

「有難う」

「じゃ、お休み。もう寝なきゃ起きられそうにないからね」

 比呂は、努めて素っ気無い声を作って言った。

「うん、お休み」

 佳子の最後の声も淡々としていて、普段の彼女と何ら変わりなく聞こえた。

 そして、電話を切ってから比呂は気が付いた。

 考えてみれば、携帯で佳子と会話をしたのは初めての事だったのだと。


☆                ☆


 チャイムの音が鳴った。

 丁度、佳子は家を出る準備を整え終わった直後だった。

 時刻は五時五十八分。約束した時間の二分前だ。比呂は、男子としてはまめで、身の回りの事をきちんとこなせるタイプだ。彼と待ち合わせをした記憶は殆どないが、やはり時間にも正確なのだろう。

 カバンを持って玄関まで歩いて行くと、念のためにドアスコープを覗いた。やはり比呂だったので、佳子は胸をなでおろした。普段は、こうして外の人物を確認したりはしないのだが、あのような事件が起こると、どうしても神経質になってしまう。

「お早う!」

 鍵を開錠してドアを開けると、廊下には普段と何ら変わりない彼が立っていた。

「ああ、お早う」

「有難う、来てくれて。余分に歩かせちゃってごめんね」

「いいよ。運動だと思えばいいし」

 比呂はさばさばとそう言うと、さっさとエレベーターの方へ歩いて行ってしまった。佳子は速足で追いかけて行くと、すぐに比呂を追い抜いた。

「あのさ……私の後ろからついて来て欲しいんだけど……」

「ああ、いいよ」

 比呂は、それにも涼しい口調で答えた。佳子は、自分の意図を即座に察してくれた比呂を頼もしく思った。それは、これまで当たり前のように存在する「親族」のように思っていた彼に対して、初めて意識した「男性らしさ」だったのかもしれない。 

 二人は、エレベーターに乗って一階へ到達すると、玄関から外へ出た。佳子が先行し、その数歩後から比呂が付いていく形で、駅までの道のりを急ぎ足で進んでいった。

 途中、二人は一切会話を交わすことも無かったが、比呂の足音が後から聞こえて来るだけで、随分と心強い物だと佳子は感じた。

 しかし、ガードレール沿いに、道を緩やかに右へカーブし、前方にモノレールの線路が見えて来た時の事だった。

「隣の部屋に住んでるのって、どういう人?」

 比呂が、背後から唐突にそんなことを言った。

「どういうって?……良く分からないけど、若い男の人みたい」

 佳子は、前方を向いたままで答えた。

「ふーん……」

「何で?」

「いや……別に」

 それきり、会話は再び途切れた。

 佳子は、比呂の言葉の濁し方に、微かな違和感を覚えた。

 口が重たい彼が、どうして突然そんなことを言うのだろうかと、追求したい気持ちはあった。しかし、やがて駅のホームに昇り、モノレールに乗り込むうちに、その件を蒸し返す機会を逸してしまった。その後も、キタ校に到達するまでの間、二人は全く会話を交わすことは無かった。


☆             ☆


 比呂にとって、7時より前に登校するのは、初めての経験だった。佳子はバスケ部の自主練習に行ってしまったので、比呂は校舎の階段を昇り、自分のクラスである2年D組へと向かった。

 当然だが、教室内には誰もいなかった。朝練で早く登校している何人かの生徒のカバンだけが、あちこちの机にかけてあった。比呂は、一番窓際の列の後ろから二番目にある自分の机の上にカバンを置くと、中から「バリアント・ヘッド」の原稿を取り出してから座った。

 元々は、昨晩のうちに一気に小説を読み終わろうと思っていたのだが、佳子の要望で早めに就寝することになったため、予定を変更したのだ。

 こうして早く登校する羽目になったが、それならそれで、やるべきことをシフトすればいいだけのことだ。

 「バリアント・ヘッド」は最後の章に至り、全ての真相が明らかになるくだりとなっていた。


 主人公エリノアの追及によって、ブレンダを蘇らせた魔術のおぞましい正体が明らかになった。それは何と、この世に強い未練を残して死んだ霊魂を死体に宿らせることによって「動く死体」を作り出す術だったのだ。そして、シャーマンが召喚したのは、よりにもよって、かつて猟奇殺人犯によって、生きたまま首を切断されて殺された女性の怨霊であった。

 そのような邪法によって復活したブレンダは、できそこないの肉体と、生への妄執だけしか持たない悪鬼に過ぎなかった。時間の経過に従って、「その者」の肉体は崩壊していく。とりわけ、頭部が胴体よりも早く腐敗が進んでいくのだ。頭部の「使用期限」が切れそうになる度に「その者」は新しい被害者を見つけ出して惨殺する。古い頭部を捨て去ると、チェーンソーで被害者の頭部を切断し、替わりに自分の物として胴体に接続するのだ。「その者」は、ただ死霊として動き続けるためだけに、同じプロセスを次々に繰り返していくのだ。

 そして、最後にはエリノアの恋人であるマーカスまでもが「その者」の犠牲になってしまった……


 そこまでストーリーが進行したところで、原稿の束は最後の一枚となっていた。

 「完」の文字は書かれていなかったが、それで小説は完結したのだろう。

 比呂は原稿の束を封筒の中に入れると、カバンの中にしまった。

 ふと思い立ち、替わりに電子辞書を取り出すと「VARIANT」と打ち込んでみた。比呂の乏しい英語力でも、その単語の意味はうっすらと記憶に残っていたが……


「VARIANT」=「異なる。相違なる」


 やはり、そういう意味だったか……

 比呂は合点した。小説の中で明確な説明はなされていなかったが「異なる頭部を持つ者」という事だったのだ。

 内容的には、巷の評判ほどには怖いと思わなかったが、まあまあ暇つぶし程度には楽しめた。何よりも、恐らく処女作であろう小説で、極めつけの変人として有名なアキラが、ここまできちんとした小説を書けたという事が驚きだった。

 しかし、小説を読み終わったら、することが無くなってしまった。今日の授業の課題は昨晩のうちに終えているので、特に勉強熱心では無い比呂は教科書を広げる気にもなれなかった。前方の壁掛け時計に目を移すと、始業時間までにはかなり時間があった。

 比呂の意識は、急速に混濁して来た。普段よりもかなり早く起きたために、睡魔が襲ってきたのだろう。

 瞼が重くなり、意識が途絶える瞬間に、首がコクンと折れた。

 直後、奇妙なビジョンが、何の脈絡も無く頭の中に入り込んで来た。


 墨を流したような夜の闇に沈む「踏切」……


 遮断機が上がっている……


 ただそれだけの、静止した風景……


(何だ……? これは……?)


 比呂の脊髄に、電流のような刺激が走り、身体がびくりと痙攣した。濃霧が突風に吹き飛ばされるように、澱んでいた意識がクリアーになった。

 首を軽く左右に振ってから、比呂は再度自らに問うた。


(何だった……? 今のは……?)


 夢を見た時の感覚とは、全く違っていた。

 明らかに、自分の目で見た物とは異質な視覚情報が、強制的に脳内に流入したようだった。その余波が、不快な異物感となって、頭の中で渦巻いている。

 居ても立っても居られない。

 なにか、とんでもなく奇怪な事件が起こるような気がする。今すぐ、自分は何処かに駆けつけなければいけない。

 一刻も早く……しかし、それが具体的に何なのかが判らない……

 そして再度、比呂の脳にハンマーで殴られたような衝撃が走る。

 五感が揺らめいた。

 視界の全てが、聴覚が、触覚が、そして平衡感覚までもが、同時に失われた。

 続いて、まるで「自分の目で見ているかのように」何者かの視覚が目の前に広がる。

 それは、先ほどの物とも、全く違う光景だった。


(これは……?)


(学校の廊下……か……?)


(走っている……)


(誰かが、学校の廊下を走っている時の……主観映像……?)


(階段が近づいてくる……)


(誰かが下の階から昇って来る……)


(あれは……? 確かA組の……?)


 その男子の驚愕の表情が、視界一杯に広がった。まるで、眼前で叫ばれたように、彼の絶叫が比呂の鼓膜をつんざく。


 同時に、その映像はプツリと断絶してしまった。

 替わりに、墨を流したような漆黒の世界が再び戻って来た。

 その後、どれだけ時間が経ったのか、あるいは経っていないのか、比呂には全く判らなくなってしまった。

 しかし、その状態から、突然意識がふわりと回復すると、目の前には当たり前のように机があった。


 教室の中だ。


 さっきまでの、椅子に座った状態から、一歩も動いていない。

 握りしめた両こぶしの中に、脂汗が滲んでいる。心臓が爆発しそうに鼓動している。


(何だった……今のは……?)

(何が……あった……?)


 ようやく、そんな思考を巡らせるようになった時、廊下の向こうから、男の声が響いてくることに気が付いた。

 良くは聞こえないが、何かをわめいているようだ。

 反射的に椅子から立ち上がり、走り出した。後の出入り口から教室の外に出ると、廊下の右側へ向かった。北校舎東側の階段が近づいてくると、それに比例して、男子の声も大きくなってきた。尋常な大きさの声ではない。

 階段に到達すると、足を止めて下方を見た。階段が折り返している踊り場で、一人の男子がエビのように背中を丸めて床に倒れていた。苦悶の表情を浮かべ、左のすねを両手で抑えて、のたうち回っている。何やら、悲鳴ともうめき声ともつかない、言葉にもならない言葉を喚きまくっている。

 その傍らには、もう一人の男子がしゃがみこみ、彼の様子を心配そうに伺っていた。比呂の気配に気が付いて、男子が顔を上げた。

 その顔には見覚えがあった。確か桐谷というA組の生徒だ。「ホラー四天王」の一人で、小説の執筆に関して、アキラにアドバイスをしていたらしいが……

「な……何が、あったんですか!」

 階段を駆け下りながら、比呂は叫んだ。

「判らない! 悲鳴を聞いて、俺も駆けつけたんだけど……」

 桐谷の声も逼迫している。

 階段を踊り場まで降りて行って間近に見ると、床に倒れている生徒の顔にも見覚えがあった。名前は知らないが、学年でも指折りの美男子なので、嫌でも目立つ存在なのだ。しかし、端正な顔は、何かに怯えたように醜く歪んでいた。口の端からよだれが垂れ、目に涙が滲んでいる。誇張抜きで、半狂乱の状態だ。

「この人は……?」

「菅原だよ……俺と同じクラスの。」

 桐谷は、比呂の質問に声を震わせて答えた。

「階段から落ちた……?」

 比呂が自問するようにつぶやくと、菅原はそれに呼応して、床に横たわったまま首を激しく縦に振った。しかし、相変わらず、何かを泣き叫んでいるが、まともな言葉になっていない。

 桐谷が心配そうに菅原に話しかけた。

「足を痛めたのか? どうしたんだよ! 何か言いたいことがあるのか?」

 すると菅原は、初めて意味らしい意味のある言葉を、ろれつの回らない声で叫んだ。

「カ……! カッターが……! カッター……ウアアアアア!」

 菅原の血走った両目は焦点が合っておらず、視線が宙を漂っていた。口の端からは小さく泡を吹いている。

 明らかに、正常な精神状態ではない。単純に、階段から転げ落ちて負傷した、というだけの事故には思えなかった。


(カッター……?)


 その「単語」が引き金になって、比呂の記憶の底で、解答を保留したまま埋もれていた、ある「音」が意識の表層に浮かび上がってきた。

 まるで、今聞こえているかのように生々しく……


(あれ……か……?)


 次の瞬間、比呂の疑念は、一切の論理を飛び越えて確信に変わっていた。

 昨日、ホームルーム中に「バリアント・ヘッド」を読み始めた時、どこからか響いて来た、「キチキチキチ……」という音……

 あれは、思い返してみれば、カッター、つまり「カッターナイフ」の刃を押し出す時の金属音ではなかったのか。

 しかし、菅原はそれきり、はっきりした言葉を口にしなかった。顔面をひきつらせ、左足を抑えたまま、延々と呻いているだけだった。

 一体、彼が言った「カッター」という言葉に、どういう意味があるのか、それとも無いのか、全く判らなかった。

 それからもう一つ。比呂の目は重大な事実を見逃さなかった。

 それは、菅原が「カッター」と口にした直後、それを聞いていた桐谷の顔色が、あからさまに豹変したことだった。

 まるで、何かに酷く怯えているかのように……

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