第二章 猟犬の恋・小さな演奏会

 それは、ブリジットが日本に殺しの請負をした時だった。

 日本のマフィアのボスの暗殺、簡単なミッションだった。

 しかし、監視カメラで姿を目撃されていた為か、執拗にそのマフィアにブリジットは狙われていた。

 既に七人は殺し、脱出用の船の時間も過ぎていた。

「ちっ、お気楽な国だと思って舐めていたか……」

 銃のマガジンもあと二つしかない、このまま物量で戦えばいずれ負ける。

 ホテル、バー、何もかも、マフィアの関連施設だった。

「こんなにも日本のマフィアがしつこいとは思わなかったな」

 ブリジットはマガジン一つを使い果たし、逃げ込んだ先は、大学の研究所だった。

 血と汗で、ベタベタになった服と夜の温度が体温を否応なく奪う。

 この時間に誰もいないと思いながら、ブリジットは壁を背に、地面に座り込んだ。

「ふぅ……」

 タバコか酒がやりたかった。どのくらい時間がたっただろうか?

 ブリジットが顔を上げた先に、白衣の男が驚いた顔でブリジットを覗き込んでいた。

(殺すしかない)

 そう思考が決定しブリジットは銃を男に向けたその時、ブリジットは宙を舞った。

 それは不思議な感覚だった。

 ジェットコースターに乗ったような、魂の抜けるような感覚、ブリジットは敗れたのである。

 それも白衣の学者にである。

 デットエンド。

 銃を奪われ、身動きも取れない状態でブリジットは静かに言った。

「殺せ」

「まぁ待ちたまえ。我々は人間だ。奇跡的に言葉も通じる。これでも飲んで落ち着き給え」

 そう言うと、男はブリジットにコーヒーの入った紙のカップを差し出した。

「私は伊万里信玄いましりんげん。しがない生物学者だよ。君は?」

「……ブリジット・ブルー」

 その男は不思議だった。

 ブリジットが少し、生物学の知識があると知ると、様々な資料を広げ、饒舌に語る。

 警察も呼ばずに二日がたった。

 信玄の研究部屋は小さいが簡易シャワーもあり、ブリジットは過ごしやすかった。

 信玄はそれが普通のようにブリジットの分の食事を用意した。

「今日は春雨サラダだよ。どうだね? 君にとっては未知との遭遇ではないかい?」

 不思議な食感だが、食欲のそそる食事にブリジットはフォークが進んだ。

「気に入ったようだね。ミス・ブルー」

 信玄は無言のブリジットによく話しかけた。

 信玄は恩師の頼みで二か月教鞭を揮っている事、彼は個人の研究者で、その仕事の話、家が古武術の道場で、幼少の頃から鍛えられていた事、ブリジットが、自分の事を名前以外話さずに四日目が経った。

 違和感を感じたのはまだ夢の微睡みの中にいた時だった。

 (しまった!)

 ブリジットはそう直感した。目を開くと、信玄がブリジットの義手を外していた。

「何をする!」

「ばれたか」

 悪戯を見つかった子供のように、舌を出して笑った。

「君が寝ている間に、驚かそうと思ってたんだけどな」

 そう言う信玄の手の中には、精巧な義手があった。

「腕の筋肉運動を読み取って動く、訓練すれば普通の手のように使える代物だよ」

「何の為に私に?」

 ブリジットは最初から、この男の行動は理解出来なかった。

「さて、一週間後に僕は東南アジアに向かう。そのボディガードとして君を雇いたい。どうかな?」

 自分より強いこの男に、ボディガードなど不要である事はブリジットが一番よく分かっていた。

「シンゲンさん、貴方は何が目的だ?」

 頭をかくと、信玄は言った。

「昔から親に言われててね。困ってる人は助けなさいと、それが女の子なら特にね」

 そして、義手の訓練が始まった。

 信玄の武術の簡単な手解きも同時にブリジットは自ら望んだ。

「そうそう、力はいらないんだ。的確に力を殺す」

 身体を密接させた状態での指導に、ブリジットは信玄を意識した。

「シンゲンさん……」

「どうしたんだい?」

「私は貴方に返せるものがない。汚れた女だけど、こんな私でよければ……」

 信玄はブリジットの頭を撫でると言った。

「私には娘がいるんだ。母親の顔を覚える前に母を亡くして、私の男手一つで育てているんだが、これがとても甘えん坊でね。その癖家政婦を雇う事を嫌がって一人で家にいるんだ。もし、私の娘が困った時に出会ったら助けてやっておくれ」

 それから、どうやって作ったのか、偽造パスポートで信玄はブリジットを日本から脱出させた。

 信玄は、ブリジットにチケットが買えるくらいの金額と数日分の携帯食料を渡した。

「また、何処かで会おう。この狭い地球だ。また会えるさ」

 学生時代から、妹を追う事だけを考え、生きて来たブリジットの最初で最後の初恋が終わると共に、鉄腕の猟犬の誕生であった。

「また、会えましたね」

 写真を抱きしめると、ブリジットは懐かしそうに目を閉じた。

「ふふっ。私は雇って頂けたようですが脈ありでしょうか? 貴方の娘、ゼッハは私が命にかえて守ります」

 写真を元の場所に置くと、ゼッハの部屋を綺麗に清掃した。

 キッチンに戻ると、先ほど準備していた物を見る。

「うん、よく膨らんでる」

 丸い生地を円状に伸ばし、ソースを塗った。

 山羊のミルクから作ったチーズをのせ、プレーンピザを作った。

「さて、カロリーに五月蠅い、メイド長用に、ほうれん草のパスタも作りますか」

 準備があらかた出来た頃に、ゼッハとリリトが帰宅した。

「いい匂い」

 ゼッハは大きく深呼吸すると、ブリジットの姿を探し、見つけるとブリジットに飛びついた。

「ただいま、ブリジット!」

「お帰りなさい。お嬢様」

 ブリジットはゼッハを抱き上げる。リリトはその様子を見て、手に力を入れていた。

 犬の性分か、嫉妬しているのである。

 部屋の掃除と、食事の準備を終わらせていたブリジットに、リリトは言う。

「私はここを去ると思ってました」

「私はここのメイドですよ?」

 ペロりと舌を出して返答する。

 ゼッハが紙袋の中をゴソゴソと探り、ブリジットとリリトに、マグカップを差し出した。

「はい! みんな、おそろい!」

 子犬をあしらったイラストが入ったカップを出すと、ゼッハは嬉しそうに笑った。

 マグカップを手に取り、ブリジットは深くお辞儀をした。

「お嬢様、わざわざ有り難うございます。大事にしますね」

「うん」

「それでは、山羊のチーズで作ったピザと、ほうれん草のパスタ、食後にはマフィンもありますよ。さぁ、冷めない内に食べましょう」

 リリトとゼッハをテーブルに勧めると、ブリジットは、オーブンから焼きたてのピザを取り出し、切り分けた。

 また、ほうれん草のソースを使ったパスタを二人の前に配膳すると、隣の部屋の古いオルガンにブリジットは腰かける。

「ピアノなんて久しぶりですが、お気に召せば」

 ピザを一口咀嚼しながら、リリトは耳をぴくぴくと動かした。

「ショパンですか?」

 ゼッハは目を閉じて音楽を楽しんだ。

「子犬のワールーツ!」

 リリトはゆっくり席を立つと、オルガンの近くに飾られていたバイオリンを取り、ピアノに合わせた。

 ブリジットは少し驚いた様子でリリトを見ると笑顔を見せ、鍵盤に集中した。

 小さな演奏会が終わると、ゼッハの拍手が部屋に響いた。

「二人ともすごいねぇ! 私にも出来るかなぁ?」

 リリトは、ゼッハの口の周りの緑のソースをハンカチで拭き取り、ゼッハの目線で言った。

「出来ますよ。沢山練習をすれば、ピアノだってバイオリンだって、貴女ならなんだって出来ます」

「そうですね。お嬢様、よければピアノ教えますよ」

「ホントに!」

 ゼッハの頭を撫で、ブリジットは優しく微笑んだ。

 しかし楽しい食事中を一瞬で変える電話が鳴り響く。

 リリトは手を上げ、電話の受話器を取った。

 それはゼッハの叔父、アーベルからであった。

「はい、そう……ですか、分かりました。はい、明日ですね。準備します」

 リリトの表情から、明らかに動揺が見て取れた。

「どうしたの? リリト」

 優しくゼッハの肩を抱くと、リリトは言った。

「ゼッハ、貴女のお父様、シンゲン様のお葬式を明日行います。空中分解した飛行機の生存者はゼロ、そして遺体も誰が誰か分からないような状態だそうです」

「ちょっとメイド長! そんな事、お嬢様に……」

「事実なんです! それでもゼッハは生きて行かないといけないんです!」

 ゼッハは少し暗い顔をしたが、真っ直ぐにリリトを見て言った。

「お父さん、ホントに死んじゃったんだ……」

 父の死を現実とゼッハは受け止める。

 リリトに抱きつくと、ゼッハは震える声で言った。

「だ、大丈夫だから、リリトもブリジットもいるから、寂しくないから」

 ゼッハが無理している事は見てとれたが、何も言わずにゼッハをリリトは強く抱きしめた。

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