一章 少年と翼獣

一章 少年と翼獣(1)

「フゥ、あんまり遠くに行っちゃだめだよ」

「ダメダヨ?」

 風音をさえずるのに飽いたのか、ハフリの声を真似るようになったフゥは、短い足をせわしなく動かし、草の合間を走りまわっている。そんな様子が愛らしく、ハフリは思わず笑みをこぼした。

 大きく伸びをし樹の幹にもたれ、ゆっくりと息をつく。胸底でよどんでいたものが薄れていく。

 森の木々は檻のよう。人目を気にしていると葉音すら嘲笑じみて聞こえる。いばらの道には身心をいたぶられるばかりで、待つ人のいない天幕はハフリに孤独をつきつける。

 澄み渡った青空と緑あふれる草原。ハフリを待つように立たずむ木。ここだけが、息のしやすい場所だった。

 白い鳥の群れが、風にのって飛んでいく。空から見下ろす景色は一体どんなものなのだろうかと考える。ここから見える大地は果て無き草原のみ。この先に草原以外の景色があるのかすら、ハフリにはわからない。

 目を細め空を仰いでいると、にわかに鳥たちが騒ぎだし四散した。

 逃げるようなさまに目を凝らし、ハフリは息を飲む。

 時間をたがえた金色の星が、雲ひとつない蒼穹に輝いていた。

 否。星ではない。それは——翼を持った金色の獣。

 その姿は、書物に描かれた動物のどれにもあてはまらない。否、複数の獣の特徴をあわせ持っていた。

 優美な曲線を描く嘴を持つ、鷲の頭。ひづめの付いた前肢。しなやかな胴と後ろ足、鋭い爪は獅子のもの。尾は馬。なにより目を引くのは、金色の光を振りまく大きな両翼。

 きれい、と思わず言葉がこぼれた。獰猛さを感じさせながらも気高く美しい、太陽から生まれたようないきものがそこにいた。

 心奪われているうちに、獣は間近に迫っていた。我に返ったハフリの目前にあったのは、獣の猛々しい荒ぶった姿で。咄嗟にフゥを胸に抱きこんで、身体を丸めてうずくまる。腕のなかでフゥがきゅぅと鳴いた。

 大きな羽音と巻き起こった風に背筋が冷える。それほどまでに近いところに獣がいる。

 一瞬がとてつもなく長く感じられた、そのとき。

「ティエン、とまれ。下がって着地。——よし」

 低くも闊達な声とともに羽音が一度響き、あたりは穏やかさを取り戻した。

 草を踏む音に恐る恐る顔をあげようとすると、

「大丈夫か?」

 肩に触れられる。跳ねるように身を起こすと、はらりと視界から前髪が消えた。

 そこにいたのは、ひとりの少年だった。

 しなやかに風に揺られるのは、あたかみのある焦げ茶の髪。同様の色をした瞳は、どこか獣じみている。

 うつすものが見えそうなほどに澄んだ瞳孔に捉えられ、ハフリは言葉を失った。

 青年一歩手前といった空気をまとう少年は、ハフリの様子に驚いたのか、数歩離れると両手を挙げて敵意がないこことを示す。

「おまえは、雨燕あまつばめの民?」

 少年の問いに、ハフリは首を横に振った。雨燕の民は、砂漠に生きる流浪の民だと本で読んだことがある。

「あ、あの……っ」

「なに?」

 小さな声を受け止められて、身体が震える。

 喉を押さえながら、言葉にならない声を幾度か吐き出した末、尋ねた。

「あの、あなたは、どこから」

「この草原の向こうにある、山のふもとから」

——外の世界の、ひと。

 彼のような容姿は、本のなかでも見たことがない。服装ひとつとっても、異なっている。ハフリは麻づくりの貫頭衣一枚だが、彼が纏うのはぶ厚い布の詰め襟だ。今は襟を開けさせていたが、この森よりずっと寒いところから来たのだと知れた。

 ハフリが少年を観察していると、悔しげな呟きが耳朶に触れた。

「……無駄足、か」

 やりきれなさが滲み出た声に、思わず「ごめんなさい」と縮こまる。

「なんでおまえが謝るんだ」

 こたえに窮していると、少年が思案気に空を仰いだ。

「あのさ、ここで一番物知りな人のところに連れて行って欲しいんだけど。できる?」

 思いがけない要望にしばし考えこみ、とある人物に思い当たると、ハフリはおずおず口を開いた。

「たぶん、セトおじいさま、なら……」



 金色の獣を森の外に待たせて、ハフリは少年とともに森に踏み入った。

 ふたりが歩くのは開けた道——外からの客人に、いばらの道を通らせるわけにもいかなかったからだ。遠巻きに注がれるまなざしは、人目を避けて過ごす自分に対してか、外界からの客人にか。居心地の悪さに身がすくんだ。

 追従する少年は萎縮どころかまわりの視線を気にとめる様子もなく、興味深そうにあたりを見回している。

「この森は豊かだな」

 少年の言葉に、ハフリは小さくうなずく。

「セトさんは、どこに住んでる?」

「……すぐそこ、です」

 セトは森でもっとも長命な老爺で、キリの祖父にあたる人だ。彼が暮らす天幕は、森の中央の開けた広場にある。セトは寛大で快活で、多くの歌鳥の民に慕われている。若かりしころの歌声は、森の隅で病に苦しむ者をも救ったのだとも、耳にした。

 ハフリもセトが好きだった。しわに埋もれた瞳は、いつだって穏やかで優しい。加えて、セトは多くの書物を、咎めるどころか喜んで読ませてくれた。

 動物のこと、植物のこと。この森に伝わる物語、あるいは未知の世界のおとぎ話。父が持っていた医術や薬学の本とは異なる世界を、セトはハフリに与えてくれた。セトの本で知った世界を帰って父に伝えることは、このうえない楽しみでもあった。

 セトを気安く尋ねることができなくなったのは、父を亡くし、歳近い子らが『一人前の歌鳥の民』として認められたころからだ。敬する人に落ちこぼれの烙印を押されることが恐ろしく、足が向かなくなってしまった。前に尋ねたのがいつだったかも思い出せない。

 森の広場は光に満ちあふれ、まばゆい。

 反して、ハフリの心は暗く沈んでいくばかりだ。

「どうした?」

 ふいに少年が正面に回りこむ。

「俺が怖い?」

 首を横に振る。うつむいている理由をあっけらかんと言えたら、どんなに楽だろうと思う。

 少年をうかがうと、乾いた砂の匂いがした。目の下には深いくまが横たわっている。

 あの、と声を絞り出す。

「泊まっていかれるんですか」

「大丈夫。訊くこと聞いたら、でていくよ」

 肩をすくめて苦笑する少年に「違うんです」とハフリは思わず声を大きくした。自分の声量に驚いて、続けた言葉は萎縮し尻窄まりになってしまう。

「お疲れの、ようだから」

「ありがとな。でも、急いでるから」

「そう、ですか」

 視線を地面に落とすと、少年はためらいがちにハフリの頭に触れ、髪をなで。「ありがとう」と、やわらかい声をハフリのつむじに落とした。

 見上げた濃茶の瞳に自身の泣きだしそうな顔を見出して、ハフリは心底申し訳なく思った。会ったばかりの人にまで気を遣わせるなんて、自分はどこまで情けないのだろう。

「俺はソラト。おまえの名前は?」

「……ハフリ、です」

「ハフリか」

 少年——ソラトが呟く。

 心に何かが灯って、面映ゆい。身体がぶわりと膨らむ心地がした。もっと、もっと、と。ハフリの奥底が声をあげる。叫び、ねだる。

 けれど。彼は用さえ済めば此処から去ってしまうひとだ。

 たまたま出会っただけの、別れれば二度と会うことのない外のひとなのだ。

——さびしい。

 こんな感情を抱くのは久々のことで、その痛みはハフリの胸を、いつにも増して刺すのだった。



 セトの天幕の周りにはいつも、香のかおりが漂っている。

 花の蜜を凝縮したような、甘くもどこか古めいた香りが鼻からはいって肺腑を満たす。慣れ親しんでいた香りに、身体から少しだけ力が抜けた。

 色鮮やかな花の刺繍が施されたすだれをめくると、うず高く積み上げられた本の山に囲まれて、小柄な老人が胡座をかいていた。

「お久しぶりです、セトおじいさま」

 老爺はゆっくりと顔を上げ、しわにうもれた小さな緑の瞳でハフリを捉える。

「これは久しい。ハフリではないか」

「お久しぶりです。ご無沙汰していてすみません。今日は、その、お客様を連れてきたんです」

 ソラトを手招く。予期せぬ客人に驚いたのか、セトの声はわずかに上ずっていた。

「外からの客人だな。何か御用か?」

 室内に立ち入ったソラトはセトの前で膝を折り、改まった口調で言葉を紡いだ。

山烏やまからすの民のソラトと申します」

「遠路遥々よくお越しなすった。だが一体、どうやって、なんのために?」

「ここまでは翼獣よくじゅうで飛んできました。雨燕の民——彼らが持つ、雨乞いの術を探しているのです。彼らがどこに住んでいるのか、ご存知ありませんか」

 セトはしばし黙考し、眉尻を下げる。

「ぬしは、龍の山のふもとの民だろう」

 硬い表情でうなずいたソラトをセトは見やって、

「ここは龍の山からはるか南の地。雨燕の民が暮らすのは、ここよりさらに先にある南西の砂漠だ。広大な砂漠を移動し暮らす雨燕の民を見つけるのは至難の業。それに翼獣よくじゅうは寒地には強いが、暖地では体が持たぬと聞く」

 龍の山、砂漠の地……セトの口から紡がれる外の世界にハフリは目を輝かせたが、ソラトはセトのこたえに顔を曇らせていた。

「そう、ですか」

「ぬしはなぜ、雨燕の民を探している」

 いたわりを含んだセトの問いに、ソラトは膝のうえで拳を握り締め、低くこたえた。

「俺の村は、寒くて、貧しいところで。それが、龍の山の向こうにある火蜥蜴ひとかげの山の噴火で噴き出した灰と雲に空が覆われて、更に寒さを増したんです。しかも、雨が降らなくて。土壌も悪くなるばかりで。草原が駄目になったら家畜も死ぬ。……そのうえ灰のせいで、近くの川の水が駄目になってしまったんです。噴火はどうしようもできない。だからせめて雨が降れば、と。浅はかな考えだとは、思うのですが」

 セトはしばらく考え込んでいたが、ぽつりとこたえた。

「村で考えたほうがよかろう、お若い人」

 セトの言葉に、ソラトが肩を落とす。かける言葉が見つからず、ハフリはその背を見つめるしかない。

「いつ、お帰りになるんだね」

「できる限り早く、帰ろうと思います」

「少し、時間をとれぬか。書物を漁ってみよう。ハフリ、おぬしの家にある本も調べてきておくれ。遠路遥々きた者を、手ぶらで帰らせるわけにはいかん」

 家にある本——思い浮かべ、身体が強張る。

 けれど努めて、ハフリはなるたけはっきりと言葉を紡いだ。

「はい、セトおじいさま」


 

 狭い天幕の隅に追いやられた本たちは、一部を除いて埃をかぶっている。意を決し表紙の埃を払ってみたものの、題名からして医術や薬草に関するものばかりで、外の世界に関するものは見当たらない。

 意識をそらそうとしても、古びた紙のかおりに鼻孔がつんと痛む。伸ばした指先が震える。

 思い出さずには、いられない。

 地面に敷いた布に座り、父の膝上に広げられた本をのぞきこんでいた日々。滔々と文字を読み上げる、静かな声。父はハフリが説明を求めると途端に口を閉ざしてしまう。けれど、それは考えているからで。時間をかけて言葉を探し、最後には必ずハフリにこたえをくれた。

 そんなことばかりが思い出され、本を開けばなにかソラトの役に立つ知識があるかも知れないのに、指が動かない。いつも読んでいる本とて、読めるようになるには多分な時間を要したのだ。

 首かけ袋に収まったフゥが、こちらを見上げて風音をさえずる。胸元に視線を落とすと、フゥの向こう、足元の本の影で何かがきらめいた。

 屈み込み、手を伸ばす。指先に触れたのはひやりとした金属の塊。首にかけるための鎖が付いた方位磁針だった。随分と錆びつき、汚れている。

 手のひらに乗せると、金属の枠に収まった薄い磁石が、ゆらゆらと頼りなげに揺れた。

 歌鳥の民は金属を加工する術も持たず、刃物などの金属の道具は、時折森を訪れる虎鶫とらつぐみの民——褐色の肌と大きな体躯を持つ、商いを生業とする人々——と物々交換をして得ている。けれど方位磁針など、森の外に出ることのない歌鳥の民が求めるとは考えづらい。こんな無骨なみてくれでは、装飾品にもならないだろう。

 ならばこれは、父のもの。

 父がこの方位磁針を手に外の世界を歩み、この森へと辿り着いたのだと思うと、不思議な心地がした。

 傷だらけの硝子の表面をなでる。

 ハフリが持っていたところで、森の空気に浸され、二度と外の空気に触れることなく錆びついていくだけだ。けれど、

(あのひとの役には立つかもしれない)

 ね、と。胸元に同意を求めると、フゥが満足そうな声で鳴く。方位磁針をしっかり握って、ハフリは天幕をあとにした。



 セトの天幕から退出するソラトの姿を目に留めた。ハフリは歩を早め、彼のもとへと駆け寄る。手からはみ出したぼろぼろの鎖がこすれあい、しゃりしゃりと音を立てる。

 緊張のせいか少し走っただけで息が乱れたが、気にならなかった。早く声をかけたいと、思った。

「なにか、見つかりましたか」

「これって物はなかったけど、地図をもらえた」

 丸めた羊皮紙を持った左手を掲げる。そして、右手を持ち上げて——

「あとは方位磁針も。これだけでも収穫だ」

 金色の鎖が、しゃらんと涼やかに鳴った。

 錆など見受けられない、華奢な鎖に繋がれた方位磁針。磁石を覆う硝子は傷一つなく澄み渡り、森の木漏れ日を弾いてきらきらと光る。

 あまりにまぶしくて、光が目に、心に、突き刺さる。

「ハフリ?」

 ソラトの声に弾かれて、咄嗟に手を背中に回していた。すると、さっきまでしっかり握りしめていたはずの錆びた方位磁針が、指からするりと抜け落ちる。

 あっと思った時にはもう遅い。鈍い音を立てて地面に落ちたそれは、曇った傷だらけの硝子をハフリに向けて、嘲笑うかのように木漏れ日を反射していた。

 声にならない声がもれるだけで、逃げ出してしまいたいのに、指先ひとつ動かない。

 ソラトが落ちたそれを拾い上げる。ハフリは目をかたく閉ざしうつむいた。何も見たくなかった。なのに、すべての感覚が恐ろしく冴え渡る。ソラトが動く気配がする。ハフリに一歩、近づく。そして——

 しゃらん、と。すずやかな音が耳をくすぐる。

 思わず目を開くと、ハフリの胸元——フゥの頭上できらめいていたのは、華奢な鎖に繋がれた金色の方位磁針だった。

 言葉を失ったハフリに、ソラトは髪をかきながらむず痒そうな顔をして、

「こんな華奢なもの、俺が持ってると壊しそうだから」

「で、も、これは」

 ハフリのたどたどしい言葉に、ソラトの表情が悪戯めいた笑みに変わる。

「もう貰ったもんなんだから俺のもの。どうしようと、俺の勝手」

 だから、と錆びついた方位磁針をハフリの目の前にぶらさげて、

「これ、俺にくれる? だめかな」

 その問いに、その声に、身体が弛緩する。

 喉をすっと空気が通る。声が、出る。

「あげ、ます」

 小さな声だった。それでも、伝われ伝われと願う。

「そのために、持ってきたんです」

「よかった」

 くまの付いた顔で、まるで疲れなんてどうってことないかのようにソラトが笑う。

 本当は疲れていて、ここまで来たのに目的を果たせず、落ち込んでいるはずだ。

 そんな彼に、ハフリができることは何もなく、むしろ彼に気遣われている。

「……ごめんなさい、お役に立てなくて」

「ハフリはすぐ、謝るのな」

 ふいに、ソラトのまっすぐなまなざしに射抜かれて、心臓がどきりと跳ねる。視界を覆う長い前髪の向こうにある瞳から、目をそらすことができなかった。

 ソラトの瞳の輝きは、あの金色の獣の瞳によく似ている。強くしなやかなものの瞳だ。

(わたしとは違う)

 そう認めるのはどうしようもなく虚しく、情けない。

 けれど、目を逸らそうとは思わなかった。

 人の目を見るのも、見つめられるのも怖い。けれどもソラトに対しては、不思議とおそれを感じない。胸の鼓動は高まるけれど、心地よさを感じる自分がいる。

 けれど彼とはここでお別れだ。それが、どうしようもなくさびしい。

(わたしは森から出られない。だから、しかたない)

 諦めを寂しさにかぶせる。そうすれば楽だということを、ハフリは知っていた。自分はここにいるしかない。歌えないままでいるしかない。誰かと目を合わすことも憚りながら生きていくしかない。すべて、仕方がない。

「ハフリ」

 名前を呼ばれる。

 風が吹く。おさげが宙に揺れる。貫頭衣の裾がはためき、首にかけられた鎖がしゃらんと音を立てた。木々がざわめきひかりが踊る。フゥが甲高く鳴いた。さえずりのこだまが、風とともに舞いあがる。

 空に導かれるような感覚のなか、ソラトの声が、


「ハフリ、俺の村に来るか?」


 ハフリの諦めを貫いた。

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