六章 選択の果て(3)

  *


 雨は山の頂に近づくほどに激しさを増し、肌打つ水滴は礫のようだ。枯れた木々の上、山の輪郭をなぞるようにティエンは上昇を続けていたが、ふいに目の前の景色が開ける。開けはしたけれど、何も見えない。灰色の霧が立ちこめているのだ。

(ひかりがない)

 これでは、ソラトを探すことができない。息を飲んだ瞬間、ティエンの身体が傾ぐ。どっと崩れるように地に臥した獣にハフリは投げ出され、とっさに腕でフゥを庇いそのまま地面に転げ落ちた。

「フゥ、ティエン」

 ハフリの震えた声を叱咤するように、フゥが甲高い声で鳴く。ティエンはなかば横たわりながらも、強いまなざしでこちらを見据えていた。奥歯を噛みしめ、立ち上がる。

 雨はいくらかやわらいでいたが、山頂を覆う霧は薄れる様子がない。

 歩を進めると、地面に散らばった砂ではない硬質な何かが足に当たる。螺旋を描く硬い紐、茸のような形をした指先ほどの物体。どれも金属だとは知れたが、なぜこんなものがここにあるのかがわからない。足許から這い上がる嫌な気配に、足が止められそうになる。

 暗い予感を振り払おうと大きく首を振り、ハフリは深く息を吸った。そのまま、身体全体をつかって勢いよく声を吐き出す。

「ソラト!」

 されど、返事はない。残響が霧に吸い込まれていく。

(どこ)

 あてどなく探しまわるしかない。身体のだるさや膝の痛みなどに構ってはいられなかった。雨の冷たさを感じる余裕もなく、大声を出すのが苦手だったことも忘れ、こたえてと願いながら幾度も名前を叫ぶけれど、声が返ってくることはない。

 呼べばこたえてくれると思っていたのに。

(どこにいるの)

 視界があまりにも悪すぎる。数歩先の陰影も朧げで、足許すらも覚束ない。

 急く心に身体が追いついていないのか、時折息が詰まる。否、泣きそうなのだと自分でもわかっていた。そんな自分が厭わしくてならなかった。泣いてもどうにもならないとわかっているのに、どうして自分の身体や心すら、こんなにままらないのだろう。

「ソラト」

 こたえる声がないこと、姿がどこにも見えないこと、気配が感じられないこと。まるでもうソラトがどこにも居ないかのようで、二度と会えない気がして、怖くて怖くてしかたがない。

 早まるばかりの歩調、代わり映えのしないよどんだ視界。されど一瞬視界の隅に何かを捉えた気がして、ハフリははたと立ち止まった。

 それは淡い黄緑色の光。とても弱い、けれども何かが発する光だった。

 息を飲み目をみはる。無意識に駆け出す。ハフリは、この光の色を知っている。あれは、父の。

 いつかのソラトの言葉が脳裏をよぎる。


——夜でも使えるよう、底が蛍石で作られてたんだな。


 地面に転がった錆びた方位磁針。そこから連なる鎖に指を伸ばした姿勢で、そのひとは倒れていた。

「ソラト!」

 傍に膝を折ってのぞきこむ。倒れている人を下手に動かしてはいけないと、父から譲られた本に書かれていたのを咄嗟に思い出した——が、その通りに、と思ったわけではない、身がすくんで触れることすらできなかったのだ。

 血の気の失せた蒼白な顔面。顔を庇ったのか、衣の袖には細かい金属片がいくつも刺さっていて、血が滲んでいる箇所もある。何より酷いのは右足で、金属片が太ももを穿っていた。足はほどいた帯で形ばかりの止血が行われていたが、地面には赤黒い痕が広がっている。

 かろうじて息があることだけはわかったが、なんの慰めにもならない。一体、この状況で、自分になにができるというのか。こんな怪我を負ったひとも、こんな怪我を癒してる場面にも、であったことがない。

 歌鳥の民には、命に関わる傷や病を歌で癒すことをためらうような節があった。

 それにハフリは、

(まともに歌えたこともない)

 樹のもとで口ずさんだはなうたで、何かを掴んだ気はしたけれど。あれが癒しに繋がるとは思えない。

 けれどここですくんでいても、ソラトの命がどんどん流れ出て、こぼれ落ちて、最後には消えてしまう。

(いやだ。いやだ、いやだいやだ)

 駄々をこねるこどものように、そう思うことしかできなかった。

 ふいに、胸元で大人しくしていたフゥがさえずる。

 続けて、ひょろろと鳴いた。つづけて、ひゅうと鳴く。どこか間が抜けていて、それなのに温かい音色が、ハフリをつつみこんだ。

 フゥが、笛の音を紡いでゆく。

——こうやって、調子を合わせるんだ。

 声が聴こえる。自慢気に、少し照れ臭そうに笑う顔が浮かんできた。

——聴いてろよ。

 聴いている。覚えている。いちばんいとしい旋律。ソラトの音。

 決められた音律も、美しい声や音も、わからないのだとソラトは言った。ただ、笛と自分が重なるときがあるのだと、そうすれば吹けるのだと、笑った。

(決められた音や詞をなぞる技量も、美しい声も、わたしにはない。けれど)

 イグサは、癒しの力は間違いなくハフリに宿っているのだと言った。

(わたしのなかに歌鳥がいるというのなら)

 ゆっくりと息を吸う。冷たい空気が、ハフリの肺腑を満たしていく。

(ソラトを、助けたい)

 想いを天に捧げもつように。天からの恵みを下へ降ろすように。フゥがさえずるソラトの笛の音に支えられ、宙をたゆたうかたちなき音を、手繰る。見えぬ指先に触れたそれを引き寄せ抱きしめて、飲み込む。そしてもう一度、外へとかえす。

 小さなくちびるからこぼれ落ちたそれは、詞ではなく、音だった。ふるふると大気を振動させ、雨のあいまをたゆたう。ふわふわと風にあそばれる花弁のようだった音は、少しずつ光彩をまといはじめ。ハフリの想いにこたえ、傷口へと落ちて融けてゆく。音が繋がり、連なり、光となって、チカラに、なる。

 歌えている、という感覚はなかった。けれども歌っている、とも思った。ソラトがくれた言葉が、ハフリの真ん中を支えてくれている。


——歌えるよ、きっと。


 歌いながら、ソラトの腿に刺さった金属片に手を添えて、慎重に少しずつ抜いていく。想いが勝手に音になって、くちびるから滑らかに紡ぎ出される。今まで決められたものを歌おうとしたときには、自分の意志や抑制する気持ちが先んじていた感覚があったけれど、今は恐ろしいほどに自由だった。定められた詞と音程を棄ててはじめて、あれらはチカラを制御するための枷だったのだと気づく。

 弦のような何かに触れる。境界線だと直感した。この先に踏み出したら、どうなるかわからない。けれどもこの先に行かなければ、怪我を癒すことができても、ソラトのいのちはすくえない。

(もっと)

 意味を持たない旋律が、祈りのように、祝福のように——空に、響いていた。

(もっと、わたしに、力を)

 常人が抱えられる範疇を凌駕して、ソラトの身体だけに留まらず、あまねくすべてに手を差し伸べるようにチカラが膨れ上がった。音の纏う光が強くなる。歌声は止まることなく。まるで、何かに操られているかのようだった。もう、止められないのだと悟る。怖いけれど、自分ではもう、どうにもならない。

 少しずつ癒えていくソラトの傷と、血色の戻ってきた表情に、笑みを零したそのとき。

 激痛が、背中を内側から突き破った。皮膚は破けていない。血も出ていない。けれども何かが、ハフリのなかから外へと這いいでる。

 肩越しに振り返り、胸中で「これは」と声を漏らす。

 降りしきる雨とは別に、滲み出た汗が身体を伝っていた。歌は止まることなく、くちびるから紡がれ続けている。

 顕現したものはあまりに現実離れしていて、目にしてもなお信じ難い。視認できても実体がないものならばなおのこと。

 ハフリの背で羽ばたいているのは、光まき散らす金色の翼だった。翼は物理的に背中を突き破ったわけではない、けれども、ハフリの内側に繋がっている。正しく言えば、ハフリのなかにいるなにかに。そしてそのなにかは今、おのれの孵化とともにハフリの核を——目に見えない命の源を鷲掴み、引き抜こうとしていた。

 激痛を通り越した痛み。視界には閃光が飛び散り、臓腑が破裂して内側から弾け飛びそうだった。

 悲鳴をあげたいのにあげられない。喉はいまや、ハフリの意志とは関係なく歌をうたうためだけの器官に成り果てていた。

 自分という存在がねじ伏せられ、侵されている。

(これが、歌鳥なの)

 だとしたら、なんて畏ろしい存在なのだろう。鳥らしきかたちを成した力の塊。人知を超えた神力。こんなものを身の内に宿し、いつ蹴破られるかも知らぬまま鳥の民は生きている。

(抗えるわけがない)

 容易く、当然のようにハフリの心身を蹂躙する絶対的な存在。常識が瓦解し、自分はこの鳥の入れ物にすぎないのだと、思ってしまいそうになる。

(これじゃ、かえれない)

 イグサに「いってきます」と告げてきた。ツムギとスオウは「待っている」と言ってくれた。それなのに操られるように歌をうたい、核が引き出されるのを待つことしかできない。

(ごめん)

 自分がどんどん曖昧になっていく。わたしの名前、なんだったっけ。なんでここにいるんだっけ。どうして、うたっているの。うたいたいと、おもったの。めのまえのひとは、だれ。剥がれてゆく。わたしが剥がされて、からっぽになってゆく。

「ハフリ……?」

 剥がれかけた意志が、三つの音に繋ぎ止められる。

 そうだ。

 ハフリ、わたしの名前。ソラト、あなたの名前。音を掴む。縋るように頭のなかで何度も繰り返す。

 薄らとまぶたを持ち上げたソラトが、ハフリの背に存在するものに瞠目した。ソラトの顔には血色が戻り、怪我もほぼ治癒したかに見受けられて、胸をなでおろす。歌って良かった。そのことに後悔なんてひとつもなかった。

 ソラトの無言の問いかけにこたえることができないまま、そっと目だけでほほえんでみせる。この翼が何を意味しているのか、いずれ自分がどうなるのか、わからないほうがきっといい。

 けれど、涙があふれてとまらない。

(ソラト)

 喉はいまやハフリのものではなく、彼の名前を呼ぶこともできない。なにも伝えることができない。それが哀しくてつらくて、声にならない声が雨粒よりも大きな雫にになって頬を伝う。

 涙が音になれば良いのにと思ったけれど、もし想いを伝える術があったとして、なにを伝えればいいのだろう。ありがとう? さよなら? これではすべて、別れの言葉になってしまう。そんなことを伝えたいわけじゃない。

(わたしは、)

 ソラト、ソラト、ソラト。馬鹿みたいに繰り返して、無駄だと知りながらも意識を繋ぎ止めることをやめられない。諦められない。いきることを、やめたくない。

(ここにいたい)

 ソラトが身を起こす。腕がこちらに差しのべられ、身体が強ばった。自分がソラトとは決定的に違うものになりかけている気がして、触れられるのが怖かった。

 けれど、本当は触れて欲しかった。

「行くな」

 引き寄せられ、強く抱きしめられる。

「ここにいろ」

 かすれた声がハフリの内側に沁みて、いまにも引き抜かれそうな核を包み込んだ。

(わたしは、ここにいる。ここに、いたい)

 わずかな逡巡のあと、ハフリはソラトの肩に噛み付いた。喉が詰まるような音を立てたが、逆らうように歯に力を篭める。歌がとまり、鳥が身のうちでのたうち回る。背中が大きく痙攣し、体内からの衝撃に目が押し出されるような痛みが走った。まぶたをきつく閉ざしソラトにしがみつく。ソラトの腕に身体を繋ぎ止められ、おのれでいのちを繋ぎ止めて、暴れ回る鳥に対してお願いわかって、と懇願まじりに思う。

(わたしはあなたと一緒にはいけない)

 ずる、と。何かが抜けるような感覚があった。

 唐突に訪れたそれは、大きな喪失感だった。

 ソラトに力なく身体を預け、ハフリはゆっくりと振り返って宙で翼をはためかせる金色の鳥を見た。

 ぎこちない飛び方をする、とても細い体躯の鳥だった。正確には、鳥のようなかたちをした、なにか。目はみあたらないのに、こちらを見つめているのがわかった。

 雨は勢いをやわらげ、灰色の霧も失せていた。はだけた地面、枯れた木々、暗雲。燦然と光をまき散らす金色の鳥はあまりに異質で、どこまでも独りだった。

 これほどまでに苦しめられたのに、あれほどまでに畏れていたのに、いざ目の前にすると、どうしてか目の前の存在が憐れに思えてならなかったし、自分のなかに空いた穴を自覚せざるを得なくて、戸惑う。

 この気持ちがなんなのか、正しく理解することはできない、けれど。

(ごめんね)

 明確な決別をこめて、思う。

 鳥の目線が逸れたのを感じた。鳥が身を翻し、金色の光とゆらゆらとした不安定な軌跡を残して、流星のごとく遥か彼方へと翔けてゆく。

 ソラトがはっと言葉を零した。

「あの方角は、確か」

 火蜥蜴の、と続いた言葉を遮るように、彼方で雨雲が割れた。光の柱が顕現し、点のようだった青空が円になって、光とともに雲を追いやるかのように広がってゆく。透き通るような青と、淡い虹色を纏った光の柱。何が起こったのか理解が追いつかない。けれど柱の中心に感じた金色の鳥の存在は、ただただうつくしく、かなしく、ハフリの目尻から涙がひとつこぼれおちた。

 風が吹く。こちらに迫ってくる。ソラトの身体に庇われて地に伏せる。

 あらたなはじまりを告げるように、世界がまっさらになった。


  *


 まぶたを持ち上げると、視界が黄金色に染まっていた。驚きに目を見開くと、横から喉鳴らしの低音が響く。「ティエン」と名前を呼んでやると、獣は嘴を鳴らして満足げに目を細めた。

 ハフリの身体はティエンの翼にすっぽりと覆われていて、濡れそぼっていたはずの衣は翼獣の高体温のお陰で乾いていた。汚れて白色とは言い難い色になってしまった衣が、今が過去と地続きであることを告げている。けれど、ふわふわとしていて現実感がない。

 翼から顔を覗かせると、あまりの眩しさに目がくらんだ。青碧で彩られた天上から燦々と降り注ぐ陽光が、頬にまぶたにしみてゆく。空にかざした手のひらが光を受けてぬくもっていくさまを、ハフリはぼんやりと見つめていた。まだ夢見心地だ。

 身体の向きを変え、ティエンの体毛こびりついた泥に触れて、今このときが現実であることを確かめる。けれど、前肢にあったはずの裂傷が跡形もなく消えていることに気づき、息を飲んだ。ゆめかうつつか、いよいよわからない。

 胸元に視線を落とすと、フゥがいるはずの小袋が空っぽで血の気が引いた。フゥ、と呼ぶもこたえはない。地に伏せた拍子に落ちてしまったのだろうか。ならば早く探さなければと、慌ただしく身体を起こしあたりを見回すと、目に入ったのは信じ難い光景だった。

 空色の小鳥が、ちいさな翼をはためかせ飛んでいる。右に左によろめきながらも、懸命な仕草で宙を翔けている。今度こそ心の底から「夢かもしれない」と思った。自分は眠っていて、これは都合の良い夢で、目覚めたらとりかえしのつかない結末が待っているのかもしれない、と。

 小鳥が向かった先には、漆黒の衣を纏ったソラトがこちらに背を向けて立っていた。立っていると言うことは、足は治っているのだろうか。駆け寄りたい。けれど、なにかの拍子に世界が崩れそうな恐怖に支配され、立ちすくむ。

 フゥを肩にとまらせたソラトが、振り向く。

「ハフリ」

 手招くように呼ばれる。ただそれだけで、恐怖をたやすく飛び越えて、隣に行きたいと、名前を呼びたいと、思った。

 一歩踏み出す。世界は崩れない。片手で喉をなぞる——声はでるだろうか。

「ソラ、ト」

 もう片方の手で、ソラトの手首をとる。

「夢じゃない? 足は? 肩は痛くない?」

 矢継ぎ早に投げられた言葉に、ソラトはきょとんとしたかと思うと苦笑を漏らし、手首を掴んだハフリの指をやさしくほどいて大きな手のひらで包み込むと、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「夢じゃない。足も肩も、大丈夫だ。何が起きたのか、俺もよくわかっていないけど。金色の鳥が火蜥蜴の山に向かっていったら空が割れて、こうなった」

 ほら、と。ハフリの手を引いて、地面とあたりの樹々をを指差す。何も生えていなかった地面に薄らとした緑が、枯れていた枝の先にちいさな若葉が息吹いている。

 天を貫き広がった、虹色の柱を思い出す。

(これが歌鳥の力)

 手にあまる力を手放した安堵と、この世に生まれ落ちたときからあったものを失った喪失感が半々に胸を占める。おのれの歌が癒しの力を持つことは二度とないだろうと、悟る。

 癒しの歌。歌鳥の民が歌鳥の民であるあかし。

(それを失くしたわたしは、一体なんなんだろう)

 後悔はないのに、後悔したくないのに、そう思わずにはいられない。

 寄る辺のなさに心が震え、涙が込み上げそうになったそのとき、手を強く握りしめられた。

「夢を、見たんだ」

 空を仰いで、ソラトが独白めいた言葉を零す。

「お前を火口に突き落とす夢ばかり視ていてもう限界だってときにさ。草原のずっと向こうに人影があって、歌ってる。姿形なんてほとんどわかんないのに誰かわかった」

 虎目石色のまなざしがハフリをとらえる。繋がった手から、ソラトのあたたかさが伝わってくる。

「その歌に支えられて、俺は立ってる、そういう夢だったんだ。こんなこと言っても、よくわかんないと思うけど——そういう夢を見たのは、お告げとか予言とかは関係なくって、それだけ、俺が」

 目を逸らすことなく、言葉を探すようにしばしの間を置いたのち、

「ハフリにすくわれてたってことだと思う。実際、すくわれてた」

 目を細めて、やわらかく笑う。

「ありがとな。ずっと、手を放さないでいてくれて」

 ああ、と吐息が漏れた。ソラトの笑顔と言葉を受け取って、宝物がまたひとつ増えた気がした。「大丈夫だ」と思った。ひとつも無駄じゃなかった、後悔なんてするはずない。失ったものはあるけれど、得たもののほうがずっとずっと大きかった。

「わたしも」

 一息に言葉を吐き出した。

「わたしも、ソラトにすくわれたよ。ソラトのおかげで変われた。色んなものがみえるようになった。ここに来て良かった。連れて来てもらえて、良かったよ」

 空いた片手をソラトの手に重ねて、告げる。

「ありがとう、ソラト」

「俺、は……」

 ソラトはたちまちに顔を曇らせて、

「お礼を言われる立場じゃない」

 ハフリの髪に視線を落とした。

 そこではじめて気づいたが、ハフリの髪は先から肩口まで色が抜けて、灰色に変色していた。

 不思議と、衝撃や喪心は覚えなかった。鈍色、或いは銀にも見える色合いは、父の髪やまなざしを想起させる懐かしい色でもあったし、失ったものよりも得たものや与えられたものの存在のほうが大きくて、気にならなかったのだ。

 ただ、上半分が薄金で下半分が灰色の髪では、見目は悪いのかもしれない。少なくとも、ソラトは気にしている。髪を発端に、彼のなかであらゆるものが渦巻いているのが察せられて、ハフリは口を開かずにはいられなかった。

「これはわたしが選んだ結果だよ。ソラトが責任を感じる必要なんてない。ソラトが止めてくれたから、わたしはここに残れた。髪は切ればいいし、全然気にならない、だから」

 そんな顔しないでと言いたかったのに、ソラトの暗い表情に打ち消されてしまった。どれだけ言葉を尽くして説明してみせても、ソラトの心は軽くならないのだろうと、わかってしまった。

「俺に、なにができる」

 絞り出すように吐き出された言葉に、どうしてそんなことを言うの、と詰りたくなった。

「わたし、怒ってるよ。ソラトがわたしを置いて行ったことも、ひとりで危ないとこに向かったことも」

 自分でも驚くほどの低い声に、ソラトがたじろいだのがわかった。

「それはほんとうに、悪いと思ってる」

「倒れてるのを見たとき、息が止まるかと思った」

「ごめん」

 逸らされた目線、うつむいた顔。手を伸ばして彼の頬を両手で挟み、そっと誘導する。

「こっち、見て」

 まっすぐに、彼の目を見つめる。

 自分のことを棚に上げている自覚はあったが、これだけは伝えておきたかった。

「これから先、なにかあったとしても。ひとりで、どうにかしようとしないで。それがわたしが、ソラトにして欲しいことだよ」

 ソラトの瞳には困惑が滲んでいた。

「ハフリの言いいたいことは、わかる。でも、俺がきいたのは、そういうことじゃなくて」

 ああ、やっぱり、と。ちいさく嘆息する。

 ソラトは村の問題に解決の目処がたち、ようやく重荷をおろせるというのに、また新たな荷物を­­——今度はハフリへの償いなんてものを、背負おうとしている。そんな必要はどこにもないのに。

 そんな彼のために、ハフリができることがあるとするならば。

 じゃあ、と口を開いた。

「村のひとたちの名前、教えて。覚えたいの」

 そんなことでいいのか、とソラトの表情が語っていたが、間髪入れずにハフリは続けた。

「あと、もうひとつ。もうひとつだけ、お願いがあるの」

「なに」

 罪滅ぼしを喜ぶがごとく顔を明るくしたソラトに、ばかだなあ、と。諦めるように、あるいは赦すように受け入れるように、思う。

 彼の愚直さがすこしいとわしく、同時にどうしようもなくいとおしかった。

「わたしが村の人の名前を全員覚えられたら——」

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