五章 賭け

五章 賭け(1)

 色とりどりのきれを縫い合わせ、いちまいの布をつくっていく。布の継ぎ目が描くのは、直線的な幾何学模様。慣れ親しんだ歌鳥の民の刺繍を模したものだ。

 人がくるまれる大きさになったら裏布を付け、袋状にする。なかに薄く、けれどしっかりと綿を詰め、最後に口を閉じれば掛け布団のできあがりだ。

 完成したものを両手で広げると、ところどころに粗い縫い目が見受けられて、思わず渋面になる。

 けれど、掛け布団は寒さのしみるこの土地では欠かすことのできないもの。拙い出来のものでさえ誰かの役に立てるのだと思うと、つくりおえた達成感も相まって、つかのま心が軽くなった。

「できた?」

 身を乗り出してハフリの手許をのぞきこんだのは、ツムギの妹、コソデだ。小動物の耳のような二本の束ね髪が、彼女の動きに合わせて踊る。

「ハフリの模様、みたことない。おもしろい!」

「そうかな?」

「うん、すっごくおもしろい。あとで教えて?」

「わかった」

 淡く微笑みうなずくも、コソデが手に持つ布には、十歳の子どもが施したとは思えぬ、精緻な刺繍の花が咲いている。マトイにも引けをとらない手芸の腕前に、ただただ感嘆するばかりだ。

 鋏を手に取り玉止めした糸の端を切って、ハフリは天井を仰ぐ。天井の中央には、屋内に光を招くための小さな天窓が設けられており、その向こうには、相も変わらず曇り空が広がっていた。

 幕家のなかはあたたかい。けれど外はあまりに寒い。

 暖炉の炎がぱちりと爆ぜて、穏やかさを装う空気を、あざ笑うように逆なでる。胸の軽さは薄れて消えて、ゆっくりと吐き出した息はのろのろと落下して地を這った。

 生贄であることを知らされてから数日。何が変わったかと言えば、身を置くのがソラト一家の幕家から、ツムギ一家——織鶴の民の幕家に移ったことくらいだ。ツムギが、オウミ達に適当な理由を説明して、この幕家で暮らすよう手配してくれた。

 急き立てられて越してきたため、フゥはそのままハルハのもとにいるし、父から譲り受けた本もマトイがくれた肩掛け袋も置いてきてしまった。

 取りに戻る気にもなれず、集落を歩く気力も湧かないまま、一日の大半を幕家のなかで過ごしている。織鶴の民の仕事に手芸や生活必需品の縫製という屋内の作業が多いのは幸いだった。

 けれど、いつまでもこうしてはいられない。

 いたずらに過ぎ行く時間は、いよいよハフリの身体を蝕みはじめていた。

「ちょっと、外に出てくるね」

 自然な風を装って幕家を抜け出し、扉を閉めると同時に口を手で塞いだ。腹のなかで得体の知れないものが脈打っているような不快感と吐き気に、総毛立つ。

 幕家の裏手に回り込む。人目がないことを確認してようやっと吐いた息は発火するかの如く熱を持ち、咽頭を焼いた。

「……っ、はっ」

 歯を食いしばりくちびるを引き結んで、音を殺す。

 肌に触れる冷たい風も、体内でのたうち回る熱を鎮めてはくれない。無意識に胸元の方位磁針を両手で包み込み、きつく目を閉じた。

 ぐらぐらと揺れる暗転した視界から意識を逃れさせるように、声を手繰る。

——お前、この村に来て良かったと思う?

 脳裏に浮かぶ背中。続いて振り向いたそのひとは、顔を歪めて嗤った。

——本当に馬鹿だよ。俺みたいな奴のこと信じて、付いてきてさ。

 けれどその嗤笑は痛々しく、まるで今にも彼が泣き出してしまいそうな気すらして。

 そんな表情を思い出すたびに、ハフリは。

 ここに連れてこられた理由も、投げつけられた言葉も忘れて、駆けつけたくなる。名前を、呼びたくなる。

 そして、そんな自分に戸惑うのだ。

(……ソラト)

 手に伝わる金属の冷たさは、いつか握った手の温度に似ていた。

 今もまだ、ソラトの手は冷たいままなのだろうか。

 目の下に深く刻まれたくま、疲れた笑顔、擦り切れた靴の爪先、冷えきった手。思い出すだけで、苦しい。

(どうすればいいの)

 荒い息を繰り返しながら、思う。

(ここにいたい。でも、)

 身体のことは別として、ハフリが山烏の村にいたいと願い、居座ったとして。ハフリが生贄にならねば村の状況は悪化するばかりではないのか。

 遊牧の民であった彼らがこの地に定住したのは、何か意味があるに違いない。けれど、灰が積もり水が涸れ、草木が朽ちたこの土地で、この先山烏の民は暮らして行けるのか。ここには、身体の弱いハルハもいるというのに。

「どうしたの!?」

 背後から飛んできた声にはっとまぶたを押し上げると、目の奥が鋭く痛み視界が白んだ。

 ツムギがこちらに息せき切って駆けてくる。

 ああ、また心配をかけてしまったなと苦笑し、何事もなかったように立ち上がった。

「大丈夫です。ちょっと咳がでただけで」

 熱っぽい身体が、冷たい風になぶられて一気に冷える。意思と反して身体は震え、それを見咎めツムギは眉をひそめた。

「風邪、引くわよ」

 手を引かれ、有無を言わさず幕家に連れ戻される。

 その表情は、険しい。

 ツムギは一日の大半をウバタマとともに村の外で過ごしている。水を汲みに行ったり、羊の放牧をしたりと忙しそうで、顔を合わせるのは食事のときくらいだ。

 彼女は下手な慰めも気休めも口にしない。ただ、村人達が炎を囲んで夕食をとるなか、自分とハフリの分の食事を幕家に運び、他愛のない話をしてくれる。ハフリの傷に触れないよう、これ以上傷つかないようにと、気を遣ってくれている。

 彼女が仕事の合間をぬって、歌鳥の森に関する情報を集めていることは、薄々察していた。

 ツムギは、ハフリのためを思って動いてくれている。けれど、なぜかそれを素直に感謝できない自分がいて、

そんな自分が嫌で。

 ごめんなさい、と小さく呟いた。




「ツム姉、おかえりー」

「ただいま」

 ツムギはハフリを暖炉のそばに座らせると「そうだ」と懐から何かを取り出した。

「遅くなったけど、返す。血はちゃんと洗ったから」

 手のひらに置かれたのは、母の額飾りだった。

 心なしか色褪せてしまっていたものの、手触りは以前より柔らかい。丁寧に洗ってくれたのだとわかった。

「ハフリがつくった布と同じ模様だ!」

 コソデが「触っていい?」と首を傾げる。「良いよ」と手渡すと、両手で持って宙に掲げ、いっぱしの職人の目をして、刺繍をつぶさに観察しはじめた。

 極彩色の額飾りは、弾かれも浮きもせずに山烏の縫物や織物に不思議と馴染んでいた。なんだかそれが嬉しくて、ハフリは言葉を零す。

「それね、お母さんのものなの」

 額飾りを見上げながら、懐かしげに目を細めて、

「わたしたち歌鳥の民はね、一人前になったあかしに、お母さんが額飾りを作ってくれるんだ。あと、綺麗な羽もひとつ、くれるの。これは、お母さんが付けていたものなんだけど」

 母とハフリを繋ぐ唯一のもの。

 けれど、額飾りは歌鳥の民にとって一人前のあかしで、いまでもなお、ハフリが身につけることは許されない。

 一人前と認められる条件はたったひとつ。歌をうたい、癒しの力を行使すること。

 先日の一件から、歌の練習をやめていたことを思い出す。ソラトの笛を聴いてなにかつかめそうな気がしたのに、つかむ前に消えてしまった。

 残っているのは、

——歌えるよ、きっと。

 ソラトの言葉だけだ。

 なにを思って、彼はああ言ったのだろう。生贄であることを悟らせないための見せかけの優しさ、あるいは気休めに過ぎなかったのだろうか。

 森から連れ出してくれたこと、手を握ってくれたこと、笛を聞かせてくれたこと、名前を読んでくれたこと。ぜんぶ、ハフリにとってはかけがえのないできごとで、今でも変わらずたいせつなものだ。けれども、ソラトにとってはどうだったのだろう。

 考え始めればきりがない。

 胸が痛い。

「……帰りたい?」

 ツムギがひどく真面目なおももちで尋ねる。ハフリの様子から、ことを察し違えてしまったのだろう。

 森に帰る——ハフリが一番傷つかぬ方法を、ツムギは提示し、その為に動いてくれている。そう思うと、否定することができなかった。

「ここにいたいんです。でもまだ、自分でもよくわからなくて」

 衣の裾を握りしめる。

「ただ、ここにいたいって、強く思うんです」

 暖炉の炎を弾いて、紺色の瞳のなかで赤い星がきらめいた。ツムギの深い藍の瞳は、雲間に垣間みた夜空の色に似ている。夜空の果ての、魂を引き寄せる色。

 故人の魂は空の星になるのだという、本のなかで触れたはなしを、ふと思い出す。

 ゆっくり息を吐き出すと、頭の一点が冴えていくような感覚があった。

 ここにいたい。けれども、歌鳥の民は森の外では生きられない。言い伝えは恐らく真実で、遠からず自分は死ぬ。どうせ潰えるいのちならば。死んで、あの美しい星々のひとつになれるというのならば。生贄になるのも、悪くない。そうすれば、村は救われる。村の状況に胸を痛めていたソラトも、楽になる。

 あんな苦しげな表情を、させずに済む。

 それが、森に帰って生きつなぐことよりも、ずっとずっと意味のあることのように思えて、ほろりと、知らずにあわい笑みがこぼれた。

「あんた、まさか」

 ツムギが渇いた声を漏らしたそのとき、

「どーもこんにちはっと」

 幕家の扉を開けて、スオウが顔をのぞかせた。

「えーっと、なんかお取り込み中?」

 おどけたように肩をすくめるスオウに、ツムギが目を眇める。

「コソデ、あんたちょっと外に出てなさい」

「えー」

 コソデは口を尖らせたものの、ツムギの剣呑なまなざしに気圧されて、上着を羽織るとすごすごと幕家を後にする。

「なにかあったの」

 ツムギにこたえたスオウの声は、幕家に入ってきたときとは一転して低く、かたい。

「これといって何も。ソラトがさっき、外から帰ってきたくらい。ただやっぱ、そろそろ今後のことをはっきりさせなと思て」

 ツムギはハフリを一瞥し、歯切れ悪く言葉を吐き出した。

「この子は、ここにいたいって」

 スオウは「そう」とも「ああ」とも付かない相槌を返して、しばし黙り込む。

「オレは」

 切り出した声は、ハフリに言い聞かせるように真摯に響くのに、どこか冷たいものを宿していた。

「ハフリちゃんが望むなら、ここにいるのを助けたいって、思っとる。でもそれは、オレの力が及ぶ範囲のハナシ」

 はらり、と。ふいに前髪の束が、ハフリの目の前を覆った。紗のかかった不鮮明な視界、鳶茶の瞳がこちらに向けられていることだけがわかる。

「村が抜き差しならない状況になったら、イグサさまは予言を公言する。そうなったら、だれもイグサさまには逆らえないし逆らわない。それに対抗する力なんてオレにはないし、言いつけられたら、泣かれても嫌だと言われても、オレは最終的に、ハフリちゃんを火蜥蜴の山に引きずってでも連れていくと思う」

 スオウは静かに一度、目を伏せた。「この」と。わななき声がかたわらで響いたのは、同時。

「ばかたれ!」

 スオウの肩を両手で鷲掴み、瞳を燃やしてツムギが叫んだ。

「なんで。なんであんたはいつもそうなの。他になにかあるかもって考えないの。ハフリが泣いても火蜥蜴の山に連れて行く? そんなこと、あたしがさせると思ってん、の」

 震えた語末に、見開かれたスオウの瞳が揺らぐ。

 けれども彼が返した声は、あくまでも頑なだった。

「じゃあお前は、何があってもずっと、ハフリちゃんの味方でいられるん」

「それは」

 言葉を詰まらせたツムギに、スオウは追い討ちをかける。

「味方でいられる自信がないから、ハフリちゃんがもといた場所を探してるんとちゃうん。それともなに、他に理由があんの? ハフリちゃんを帰らせたい、個人的な理由が」

「なにが言いたいの」

「言って欲しいわけ?」

 睨み合うふたりのあいだで、ハフリは慌てふためくこともできず呆然としていた。前髪のせいで、スオウやツムギの表情すら判然としない。目の前で諍う声すら遠ざかっていくような心地がした。

 先日も、そうだった。こうして前髪が邪魔をして、否、前髪に庇われて、見るべきものから目を逸らした。

 長い前髪は、外を見せまいと立ち塞がる堅牢な柵だった。隙間から差し込む光は少なく、薄暗い。音すらも曖昧に聞こえ、声もさざ波のような雑音と化す。

——その環境を望んでいたのは、ハフリ自身だった。

 まぶたを落とす。

 ハフリの意識は、常に籠のなかにいる。自らがつくりあげた籠のなかで、膝を抱えてうずくまっている。

 自分ひとりしかいない籠の内側は、寂しい。けれどそれ以上に、静かで穏やかで、居心地が良かった。籠に閉じこもり、外に目を向けず、自分だけを守り、庇い、傷つかないようにいきることは、楽だった。

 けれど。

 薄闇のなか、ひどく擦り切れた靴の爪先が、柵の向こうに浮かび上がる。

(ソラト)

 ふいに、歌う鳥のような声に呼ばれた気がした。

 声のほうに意識を向けると、遠くの方に少女がひとり立っている。肩口で揺れる蜜色の髪と、つやめく若葉色の瞳を、久方ぶりに思い起こす。

(キリ)

 さよならも言わず森を出てきた。ここに来てから、思い出さないように努めていた。

 彼女は今、どうしているのだろう。

 歌がうまく闊達なキリは、優秀であるがゆえに無頓着な部分があったけれど、いつでも、ハフリがひとりでいれば駆けつけてくれた。——けれどハフリはそれを、籠に閉じこもって拒絶した。

 劣等感を覚えたくなかった。失望されたくなかった。劣等感。失望。自己嫌悪。それらによって、自分が傷つくことがなにより恐ろしかった。

 だから、何も手に入らないのだと思い込んで、耳も目も塞いで。諦めて、自分を庇い、守ることを覚えた。

(……それじゃ、だめなんだ)

 スオウはハフリを助けたいと言ってくれた。けれどその一方で、既に諦めているようでもあった。

 ツムギもハフリのためを考えて動いてくれている。けれど、彼女にも何か思うことがあるようだった。

 スオウの諦観の理由も、ツムギが考えていることも、ハフリにはわからない。

——ソラトのことも。

 わからない。けれど、自分を守ることに終始したまま、わからないままでいたくない。

 そう、はじめて強く、思った。

(これじゃ、なにもみえない。わからない)

 指先で前髪を払い退ける。

(なにも、できやしない)

 何かを掴み、立ち上がる。

「ちょっと、ハフリ?」

 上ずったツムギの声が耳朶を打つ。ハフリの右手は無意識に、布断ち用の鋏を握りしめていた。先ほど裁縫に使っていたものだ。指を動かすと、刃が擦れた音を立てて開く。

 前髪越しに、鈍色の金属にうつるぼやけた少女と目が合った。少女は少し眉を下げると、目を細める。そのまなざしは、岩陰にしがみつく苔の色をしていた。そんな少女を見つめながら、ハフリは口許に少し力をこめる。さらにもう少し、こめてみる。わらう。そして、左手で前髪を鷲掴みにし、ためらいなく右手を握った。

 軽やかな音が響く。

 さらとこぼれ落ちた薄金色の髪は、まるでひかりのようだった。

 押し寄せた空気が顔に密着すれば、恐怖と歓喜がないまぜになった身震いが走る。

「なにしてんの!」

 我に返ったツムギがハフリから鋏をひったくる。

 張り詰めた紺碧の瞳に、しばし悩んだ末ひとまず曖昧な笑みを返すと、

「いったいなんなの……」

 ツムギは膝から崩れ落ち、頭を抱えた。

 衝動的な行動だった。はたから見れば気が気ではなかっただろう。

「ごめんなさい」

 ツムギのかたわらに膝をつき、そっと彼女の手に触れる。深呼吸をして、彼女の厚意を無碍にすると知りながらも、はっきりと告げた。

「ツムギさん。わたし、森には帰りません」

 ツムギがちいさく息を飲んだのがわかった。

 スオウが目を眇め、静かに尋ねる。

「なにか考えがあるん」

「ない。今から考える」

「無謀だと思う」

「わかってる」

「わかってるのにそこまでする理由は?」

 りゆう。

 しゃらん、と。身じろぎに合わせて、胸元で涼やかな音が響いた。導かれるように方位磁針を握りしめると、衣服越しに心臓の鼓動が伝わってくる。

 森でこの鼓動をきくのは、ひとりで膝を抱え顔を伏せ目を閉ざしているとき。内側から鼓膜を揺らす音はひどくか細く、今にも消え失せてしまいそうだった。

 けれど、ここに来てからは。否、ソラトと出会ってから、ハフリは幾度となく自らの心臓が強く鼓動するのを、身の内に光があふれるのを感じた。

「ソラトが、いるから。ソラトがいるから、ここにいたい」

 するりと口から滑りでた言葉が、自分の鼓膜を揺らして、内側にしみこんでいく。思考を超越して、次々と、胸の奥深くから言葉が生まれてくる。

「ソラトに苦しい顔をしててほしくない。笑っていてほしい。笑ったところをみたい。そのために、頑張ってみたい。だから、ここにいたい。……それじゃあ、理由にならない、かな」

 スオウとツムギがこちらを見つめている。前髪がないことを強く意識した。もう、自分の表情を隠すことはできない。そのかわり、相手のことがよく見える。

「でも、わたしひとりじゃなにもできない。だからふたりに、力を貸して欲しい」

 紡いだ言葉はたどたどしく、つたなく、されど重ねれば重ねるほど、ハフリの身の内に力とひかりをもたらした。

「お願いします」

 ふっと、スオウが目許をゆるめる。

「オレでも、力になれる?」

「もう、なってるよ。たくさん助けてもらってる」

 そっか、と。赤茶の瞳にやわらかな光を落とし、スオウがはにかんだ。

 一方、

「ツムギさん?」

 呼ばうと、ツムギが弾かれたように顔をあげる。「わかったわ」とこたえた声はどこか上の空だった。気にかかり、ハフリは口を開きかけたものの、

「……終わった?」

 控えめな音を立てて幕家の戸口が開き、コソデが恐る恐るといったように顔を出す。そして、腕に抱えた何かをハフリに差し出した。

「これ、ソラトがハフリにって」

 それは、ハフリがソラト一家の幕家に置き忘れてきた肩掛け袋だった。開くと、本が入っている。

「ソラトはいまどこにいる?」

「さっき来たばかりだから、そんなに遠くには行ってないと思う」

 足が無意識に外へと踏み出そうとしていた。振り向くと、スオウが笑いをこらえるような顔をしている。けれどその横のツムギの表情は浮かない。

 二の足を踏んでいると、

「いきなさいよ。ひどい前髪だけど」

 ツムギがぎこちなく笑って、うながす。

 頬を赤らめつつもうなずいて、袋を肩にかけ外に出る。風は冷たく、空気は凍るようだったけれども、なぜだか身のうちはあたたかい。足取りは軽快で、跳ねるように駆けていく。体調の悪さも、すっかりどこかに行ってしまった。

 吐き出した息を熱く感じた。温暖な森のなかでは、自らの息を熱く感じたことなどなかった。息が白く染まる様も、見たことがなかった。この地に来てはじめて、ハフリは自分の呼吸を確かに感じ、目にした。

 自らの一挙一動が、おのれの生を鮮やかに浮かび上がらせ、強く意識させる。

 生贄になってもいいと思いかけていた。それで村の状況がよくなるのなら、ソラトの憂いがはらわれるならばと考えていた。けれど、それも自分を守るための方便に過ぎなかった。諦めず抗うことによって負う傷を恐れていただけだ。

(わたしにできることなんて、知れてる)

 走りながら、視線をめぐらせる。灰色の空に、枯色の草原。幕家の合間から、羊の群れが遠くに見える。

(それでも足掻く。足掻いてみる)

 望むものが、ある。

(ソラトに、わらってほしいから)

 立ち並ぶ幕家のあいだにひとりの姿を見いだし、歩調をゆるめた。一歩一歩を確かめるように、歩く。

「ソラト」

 そっと呼びかけると、彼は立ち止まりこそしたものの振り返ることはなく、無言のままだった。

 偶然にもここは、先日ソラトがハフリに真実を告げた場所でもあった。あの時のハフリは、ただ立ち尽くしていただけで動くことができなかった。けれど、

「ソラト!」

 地面を蹴り、まよわずちいさな両手を伸ばすと、乾いた冷たい大きな手を握りしめた。

 弾かれたようにこちらを向いた濃茶の瞳を見た瞬間、ハフリのなかに風が起こる。まどろっこしいことすべてを吹き飛ばし、更地にする。

 そこにほとりと芽吹いたなにかがあった。

(わたしは、)

 折れてしまったと思っていた芽が、もういちど翠の葉を伸ばし、つぼみをつけ、ほころぶ。

(わたしは、ソラトが好きなんだ)

 不意うちに驚いたのか、ふりむいたソラトの表情に固さはない。見開かれた濃茶の瞳にも曇りはなく、光をはらんで、ひととき琥珀のようにきらめいた。そのさまは、はじめて出会ったときのことをハフリに思い出させる。

 しかし、両手で包みこんだソラトの右手は氷のごとく冷たく、皮膚は以前触れた時よりもさらに固くなり、ささくれていた。

 ソラトは呆けたように口をわずかに開き、ハフリの額あたり——前髪を凝視していた。衝動的に切り落とした前髪は、ひどく短く、不揃いもいいところだ。自らの姿を思い浮かべると、とたんに顔が熱くなる。

 うろたえるも両手が使えないため前髪を隠すこともできない。うつむきそうになるのをこらえ、ソラトの瞳をのぞきこむ。

 目の前の存在を確かめるように、その名を口にした。

「ソラト」

「——放せ」

 頭上から落とされたのは唸るような声。ほんのひとときの間に、ソラトの表情はひどくかたくななものになっていた。まなざしは分厚い雲に覆われた空のごとく暗く、重々しい。

「放せよ」

 低く繰り返される。その声に圧され、喉がつまり声が出せず、ただ首をぶんぶんと横に振った。ここで放してしまったら、ソラトが手の届かないところにいってしまうような不安があった。

 ソラトは、空いている左手で乱暴に自らの髪をかき乱す。

「放せって」

「いや!」

 やっとのことで押し出した声は、ハフリ自身も驚く声量をもって空気を震わせた。ソラトが弾かれたように静止する。

 風がさざめく。いつの日か風にしなやかに揺れていた焦茶色の髪は、いまやぼさぼさで艶もない。人懐っこそうに弧を描いていたくちびるは、乾いて皮膚が所々剥がれていた。目の下には濃いくまが陣取り、眉間には深い皺が刻まれている。すべてが、ソラトが背負うものの重さを告げていた。いつかソラトが、それらの重みに潰されてしまう気がした。

(わたしに、いったい何ができるんだろう)

 ハフリは無力だ。何をやっても人並み以下で、できないことよりできることを見つけるほうが難しい。無論、ソラトやツムギのように、獣に騎乗し村の外で情報を探すことなどできるはずもなく、かといって現時点で他にできることも見当たらない。勢いに任せて髪を切り、ソラトのもとへと駆けてきたけれど、考えなしもいいところだ。

 思わず握ってしまったソラトの手だって、ハフリの小さな手では、両手を使っても片方しか包み込むことができない。けれど、

「はなさない」

 両手で包み込んだソラトの手を、自らの胸元に引き寄せる。祈るように握りしめ、されど目は伏せず、言葉を紡いだ。

「ぜったい、はなさない」

 刹那、舌打ちが耳朶を打つ。肩を強く突き飛ばされ、なにかに背中をしたたかに打ち付けた。鈍い痛みが走り、息が詰まる。幕家の壁に押し付けられているのだと理解したのは一拍置いた後だった。少し汗ばんだ自らの手のひらを、風がなでていくのを感じた。

「ほら、放した」

 ハフリの肩を押さえつけたまま、握られていた右手をひらりと振ってソラトがわらう。

 目を細め「あのさ、」と呆れたように口を開く。

「お前、俺になにされたか忘れたわけ?」

 嘲るような物言いに、威嚇するような視線。

 けれど、言葉は迷いなくハフリの口からすべりでた。

「なにもされてない」

 ソラトにどんな思惑があったとしても、ここに来ることを決めたのは自分自身だ。たとえ逃避の結果だとしても、あの日差し伸べられた手をとったから、ハフリは今、ここにいる。

 空気をほどくようにまなじりをゆるませて、風にそっと声をのせた。

「わたしは今でも、ここに来て良かったと思ってる」

 この言葉が少しでも彼の重さを取り除ければいいと願って。

 ただ、同時に思い知るのだ。どんなに言葉を連ねても、手を伸ばして触れたとしても、それではソラトを助けることなどできず、ハフリの自己満足に過ぎないのだと。

(なにかしなくちゃいけないんだ)

 無意識に伸ばした指先が、胸元で揺れる金色の方位磁針に触れた。

(どのくらいの時間が、あるんだろう)

 ソラトがハフリをすぐに生贄にしなかったのは、おそらく日が決まっているからだ。月の満ち欠けに星の位置、それらのめぐりあわせ。儀式に日どりが大事なのは、歌鳥の民でも山烏の民でも同じに違いない。

 そして、

——歌鳥の民は、森の外では生きられない。

 ハフリに残された時間には、限りがある。

「わたしが生贄になるのは、いつ?」

 静かに尋ねながら、思う。

(わたしに、できること)

 ちいさく身じろぎすると、肩にかけていた袋が肘までずり落ちた。袋のなかの重みを意識する。この袋のなかにあるのは——本。それは、ハフリに知識を与えてくれるもの。助けてくれるもの。そして、本を、文字を読むことは、できないことばかりのハフリが唯一できることでもある。

 脳裏に浮かんだのは、とある場所だった。

(……村はずれの小屋)

 あそこに本があるのだと、ソラトは言っていた。

「村はずれの小屋の、鍵が欲しい。調べたいの。雨を降らす術でも、なんでもいいから、探したい」

 無駄な足掻きかもしれない。けれども、わずかでも可能性があるならば、

「わたしは、わたしにできることをしてみる。それで、もしだめだったら……なるよ。生贄に」

 ハフリの肩を押さえていたソラトの手がふいにゆるみ、次の瞬間には指先が食い込むほどにつかまれる。

 痛みに声を漏らしそうになったものの、耐える。

 これ以上何を言っても、彼の重荷にしかならないような気がした。

 だから、眉を歪ませてひどく苦しげにわらうたいせつなひとの名前を、ただ口にする。

「ソラト」

 歌うように。あるいは、幸あれと言祝ことほぐように。このみっつの音が空気にやわく融けて、広がって、彼を包み込んで、少しでも守ってくれるようにと、祈る。

 ソラトはハフリの方から手を離すと、力のない動作で二、三歩後退し背を向ける。

「鍵は、ハルハに持って行かせる。小屋の前で待ってろ。日付は、あと十日後。月が満ち、赤星と最も近づく日だときいている。誰にも言うな」

 口を挟むことを許さず淡々と告げて遠ざかっていく背中を見つめながら、ハフリは決意を込めてゆっくりとうなずいた。




 ハルハが鍵を携えてきたのは、ハフリが小屋に着いてからほどなくのことだった。

「ハフリ!」

 跳ねるように駆けてきた幼子を、ハフリは屈むと両手を広げて受け止めた。ハルハの身体はあたたかく、甘くやさしいにおいがして、心地よい。綿毛のようにやわらかい髪は、ソラトと同じ色をしていた。抱きしめながら頬をすりよせると、ハルハがくすぐったそうに肩をゆらす。

「ハフリ、まえがみがへんだよ?」

 あ、と声を漏らす。視界に入らないものだから失念していたが、切り落としてから手つかずのままだった。

「……へんだよね」

 あとでツムギに整えてもらおうと決めて、小さく肩を落とす。

 ふたりの間から風のようなさえずりが響いた。

「フゥ」

 ハルハが首にかけた袋におさまる空色の小鳥は、羽毛をふくらませて、黒い瞳をしばたたかせた。

 両手でフゥをすくいあげハフリに差し出すと、ハルハがふわりと笑う。

「フゥがね、いつもハフリのことを呼ぶの。だからね、いっしょにいたほうがいいよ」

 フゥを受け取り「ありがとう」と返すと、ハルハは頬を赤く染めて、嬉しげにはにかんだ。そして、懐から鍵を取り出してハフリに手渡す。

 ハフリは立ち上がると、小屋の扉にかけられた錠前に受け取った鍵をさしこみ、回す。

 ぱきんという小気味良い音を響かせて、錠が外れた。

「ここでなにをするの?」

 首をかしげるハルハに、ハフリは鮮やかに笑った。

「わたしにできることを、してみるんだよ」

 そして扉を、ひらく。

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