Q:着信 A:無視

 Q:着信


 A: 2010/02/26

 

 0:31


 着信 佐藤 優子


 通話 00:00


忘れもしない2010年2月26日、深夜0時40分頃に携帯電話が鳴り響いた。小さなディスプレイに表示された意外な名前。


 着信:佐藤 優子


 何度かメールを受信したことはあるが返信したことはない。メールを受信するたびにどうして登録したのだろうと溜め息が出た。


同時に心臓の鼓動が少し早くなってそわそわする事も自覚していた。


 二つ折りの携帯電話を開き、じっと画面を見つめる。薄暗い部屋に人工的に光るディスプレイは目に痛い。初めての着信に戸惑いが隠せない。


隠す相手もいない一人きりの部屋でじっと息を潜めて着信音と振動が止まるのを待つ。


 時間は非常識、相手も他人に迷惑をかけるような人物ではないと知っているので、どうしても不穏な気分。


 会話の内容が予想できなくて、俺は携帯電話をベットに投げると羽毛布団を被せた。


面倒事は避けていたかった。勇気がない自分にうんざりしているのに、どうしても一歩を踏み出せない。逃げるように毛布を掴むと階段を下りてリビングのソファに腰かけた。


 勿論眠ることなど不可能だったが、何かをする気分にもなれずにソファに横になって何度も体の向きを変えた。


 カチコチ、カチコチ、時計の音が煩くて気に障る。母親が一目惚れだと言って購入した親子梟の時計は、秒針の代わりに子梟が母の背中で揺れる。


暗闇にぼんやりと浮かぶ白い間抜けな顔をした子梟の鬱陶しさが神経に触って仕方ない。


 電池を抜いてしまおうかと時計に手を伸ばすと、不意に初詣の日に、偶然見かけた彼女の酷く暗い表情を思い出した。


 祖母への土産だと梟の置物を吟味するコウの真剣な横顔の向こう、浮かれる新年の雰囲気の中、相応しくない空気を纏う彼女が横切った。


 いつだって教室で楽しそうな彼女なのに。友人に囲まれ、人の輪の中心で笑顔を零しているというのに、教室で何度も何度も見た彼女の笑顔はうまく思い出せなかった。


どんな時でも笑っていたはずの彼女がとは正反対の、あの俯いた青白い顔ばかりがぐるぐると駆け巡る。


 梟時計に手を掛け、乱暴に電池を取り出すと炬燵の上に時計を置いた。ソファに横になっていれば時期に眠れるだろう。毛布一枚では肌寒かったけれど、炬燵に入ってしまうのが一番だけれど、生憎父親の睡眠防止のために夜間はコードが回収されている。


 ソファに寝っころがり英単語帳の1ページ目から反芻してみる。やりたいことも特に見つからず、推薦でとっとと大学を決めてしまったというのに、特にすることを見つけられずに淡々と受験勉強を続けている。その本当の理由に目を背け、そして何もできずに時間だけが過ぎている。


 もうすぐ別れの季節が訪れる。やっとという気持ちと、嫌だという感情がぐるぐるとこんがらがってどうにも動けない。


 カーテンの向こうで朝日が昇っていくのを感じると共に睡魔が襲って夢を見た。


 借りたまま返却できずにいる赤いマフラーを握りしめて教室に入る。そこには満面の笑顔をこちらに向けている彼女が友人の中心にいた。


ああそうだ、彼女に何かあっても、彼女には他に手を伸ばしている筈だ。だから心配する事なんてない。俺が案じなくても何も問題などなく、何か変化が起こることもないのだ。


 夢の中の俺は大胆にも彼女の横で教科書を広げて、少し自信ありげに問題の説明をしていた。クラスの人気者には関わるな。自慢をするな。調子にのるな。


 もやしのように白くて細い中学生の俺が喚いた。机が真っ黒に染まり、上履きが鉢植えに変わる。


 背の伸びた俺が言い返す。そんな幼稚な奴は居ない。もっと自分を曝け出しても問題ないのだと冷静に諭す。


 握りしめた両手から大量の汗が零れ、それが濁流に変わり船を飲み込んだ。船に乗っていた俺と彼女は腕を伸ばしあうがどんどん離れていく。白く透き通った彼女の顔が沈んでいった。


 滝壺に飲まれていく彼女を俺はただ呆然と眺めているだけだった。いつの間にか俺は岸辺に立っていて、もやしが再び俺の傍らで喚き散らし大声で泣いた。


 臆病者。臆病者。臆病者。臆病者。臆病者。

 

 体を揺すられて目を開くと心配そうな表情の母親がこちらを見下ろしていた。


「賢輔!どうしてこんなところで寝ているの?」


 起きてきた母親にソファで寝ていたことを咎められたが、あまり眠れずにまどろんでいただけの脳味噌に小言はほとんど染み込まなかった。


どうして、という問いかけに自問自答してみるが状況が判断できない。いつ眠りについたのか見当がつかず、どうしてこんなに気分が悪いのかも思い当らない。


 のそのそと起き上がり、歯を磨いた。目に隈のできている自分の青い顔を眺めているとますます気分を害した。覚えていないが嫌な夢でも見たのだろう。



 人生で初めての0点の答案。

 最悪の結果を知らされたのは珍しく出勤が遅い父親の口からだった。



 洗面台の鏡で確認しながら、眠気眼でネクタイを締めているとリビングで電話が鳴った。早朝からというもの珍しさで俺は適当にネクタイを結ぶと洗面所を後にした。洗物で手が泡まみれの母親にかわり父親が受話器を取っていた。


「賢輔、今日は休校だそうだ。」


 最近、ほとんど会話をした記憶のない父親がゆっくりと受話器を置いて大きく息を吐いた。それから真剣な瞳を向けた。


「お前、悩みとかないか?」

「急になんだよ。」

「ねえ、これ賢輔の学校じゃない?」


 動揺した声の母親が俺の背中に触れた。制服に洗剤の泡が付いたが、これが指しているテレビに映る見慣れた校門に意識が釘付けになった。


 女子生徒、自殺の可能性のテロップ。


「休校の理由はこれだ。電話では転落と言っていたがやっぱり自殺なのか。」

「可哀想に…。誰も気が付かなかったのかしら。」


 自殺、その情報に心臓を鷲掴みにされる。息子の身を案じる両親の視線を無視して俺はテレビの音量を上げた。


「警報で駆け付けた警備員が発見し…。」


 レポーターの発する台詞に中々知りたい情報が出てこない。搬送直後に死亡、遺書は見つかっていない、渡り廊下に残された携帯電話、女子生徒は受験ノイローゼの可能性。両親の不仲、通報、悩みのない良く笑う……。


そうではない、知りたいのは誰なのかというただそれだけなのに不必要な情報ばかり繰り返される。


「ケン兄。これ、朝から煩いんだけど。」


 まだ覚醒していないといった表情の妹が俺の携帯電話を突き出してきた。


 昨晩、予想外の着信に動揺しベットに投げ捨てたそれは受け取ってはいけない物にしか見えなかった。受け取りたくなかった。知りたいけれど知りたくない。


「女子生徒は…。」


 レポーターの発した一文字目を耳にして無意識にテレビの電源を切っていた。両親が同時に俺を見たのが分かったが黙ってリモコンを握りしめた。汗で今にも滑り落ちそうなリモコンをダイニングテーブルに放り投げた。


「ねえ、どうしたの?」

「聡美、少し向こうにいってもらえるかしら?」

「ケン兄、大丈夫?」


 小首を傾げて困ったような瞳を俺に向ける妹から目を逸らした。


「サト、携帯そこに置いといて。」


 いつか見た高積雲が脳裏をよぎる。正確にはあの日、教室にいた人物の表情と不気味な高積雲。いや雲など曖昧にしか覚えていない。


こびりついているのは何かを決心したかのような強い視線を黒板に向けているのに、儚げで消えてしまいそうだったクラスメート。陶器のように白い頬を伝う透明な涙。アーモンド形の目に溜まった悲しみの滴。心が千切れそうでどうしようもなかった。


「でも…着信7件だよ?」

「いいから、机の上に置いといて。」


 なおも胸に突き出された携帯電話を眺めていると着信音が鳴った。


「まただ。」


 折りたたまれた携帯電話の小さなディスプレイに「着信:佐藤 亮」の文字が表示されている。体が固まって動かない。父親の手が聡美の掌の中にある携帯電話へ伸びた。


「賢輔!ニュース見たか?賢輔?おい賢輔!」


 しんとするリビングに亮の震える声が響いた。父親の腕を掴み嫌々と子供のように首を振っった。足が震えて立っているのがやっとだ。


「すみません、息子は今ちょっと…。ニュースとは転落事故の事でしょうか?」


 動揺しながら亮と会話を始めた父親の後ろで今度は固定電話が鳴って母親が受話器を取った。


「はいもしもし佐藤です。コウ君?賢輔は今ちょっと…。」


 両親がそれぞれ友人とやり取りしているのも、妹に名前を呼ばれるのも耳に入ってこない。胸が熱い。込み上げてくる涙が瞳いっぱいに溜まった。


 真実を耳にしていないというのに、学校には数えきれない女子生徒がいるというのに、転落した女子生徒が誰なのか思い当ってしまう。


 はずれて欲しい。試験の答案にうんざりするほど記入された100の数字。今後一切満点などいらない。成績だけではない、何もいらない。何一つ。


 だから不正解を叩きつけて欲しい。登校したら友人を失った嘆き悲しむ彼女を慰める。それから受験勉強を手伝い、マフラーを返して、行きたいと言っていた…。


「賢輔!大丈夫か?賢輔!」

「おばさん、俺これから伺ってもいいですか?」


 二つの受話器から友人がそれぞれ叫んでいる。コウが告げた聞きなれた渾名。


 父親が亮から聞いて呟いた女子生徒の名前。


「賢輔、彼女と仲良かったの?」


 母親の質問に小さく首を振った。

 もしそうなら、今日は来なかった筈だ。何度も何度も選択肢を誤った。いや、そもそも解答を拒否してきたのだ。無回答は問答無用の零点。


「全然…。」


 小さく呟くと床へ崩れ落ちた。嗚咽が自然と漏れた。



 

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