Q教室で泣いている A見ない振り

机を漁るようなクラスメートが居ないという事は十分理解していた。だからわざわざ駅から戻ってくる必要なんてなかったのに、どうしてだか教室へ足が向かっていた。机に入れたまま忘れていたウォークマン。いつの間にやら彼女が好きだという歌手の歌で溢れた中身を、うっかり誰かに見られたくなかった。


 似合わない漫画を読んでみたりした中学生の時と何ら成長がない。曲を聴いてもその声や歌詞にとりたてて興味が湧いているわけではない。けれども気がつくとCDを借りてきて聞いている。


 流れるメロディーに何となく彼女が重なる気がして、そうして積もっていくタイトル。我ながら気持ちが悪い。


 僅かに沈みかけた太陽にゆっくりと茜色に染められていく空。延々と続く高積雲が印象的だった。明日は雨が降るかもしれない。湿気の多い空気と残暑にうんざりしながら校庭を抜ける。


かつて見た空とよく似ているからだろう、言いようのない不安が胸を騒がした。嫌な予感というのは当たる。何もないといい。


 羊雲とはよく言ったものだ。小さく丸っこい雲がずらりと並ぶのは群れをなして行進する羊に良く似ている。はぐれた塊が、群れから見放された子羊のようで何年か前の自分もこんなだったのだろうと目を細めた。


 はじかれたのか、自ら飛び出したのか。複雑に絡み合ったあの感情を呼び覚ますこの雲が心底嫌いだ。目に入らないように俯いて校門をくぐった。


 冷房も電気も切られた廊下。生温い湿気の多い空気。薄暗い中をぼんやりと歩く。教室の開け放されたドアの前までくると、教室にぼんやり人影が見えた。


 逆光で見えなくても誰なのか判別できる。一番窓側、後ろから2番目の席。そこに席の主が座っていなければ別人だろうが、やっぱ、ら背格好や髪の長さが彼女。


 目が慣れて、瞳孔が開いてくると正解したことが判明する。艶のある黒髪を珍しくポニーテールに結った彼女の白い頬は濡れていた。


悲しげに眉を下げて、ではなく無表情でキッと前を見据えて。すっと伸びた背筋。少し厚めで小さい唇は固く真一文字に結ばれている。机の上で握りしめられた両手が震えているように見えるのは気にし過ぎだろうか。


ぽろり、ぽろり、ぽろり。


ぽろり、ぽろり。


ぽろり。


また、ぽろりと流れ落ちる涙が落ちるたびに夕日に反射した。その涙の意味を解くことができず俺は途方に暮れた。


 こんな時にかける言葉を俺は全く持たない。


 コウなら何食わぬ顔で、気が付かない振りをして話しかけるのだろう。ごくごく自然に泣いている理由を問うに違いない。


 亮ならどうだ。真正面からどうして泣いているのか、辛いことがあるのかと聞くだろう。


 器用でもなく、素直でもなく、そんなどうしようもない俺の足は廊下に張り付く。どうしてたった一言が出ないのだろう。


 いつだって楽しげで、風邪をひいて熱がある時でさえそうなのに、一体どうして教室の片隅で一人泣いているのか。


中原雪菜はどうした、佐藤加奈子もそうだ。他にも彼女を慰める相手は沢山いて、そもそも一人でいる事自体が珍しい。


 物音を立てるとこちらに気づかれる。息を殺し、俺は後ずさった。


「サトケン君、どうしたの?」

「あれ、ケン?」


 名前を呼ばれ、心臓を鷲掴みにされた。ギュッと縮こまった感情を飲み込み、俺はゆっくり振り返った。昇降口と反対側の廊下を中原雪菜と亮が歩いてくる。


 それを無視した。


 亮と目が合ったけれど俺は早足で下駄箱へと向かった。どんな表情をしていたのか自分でも想像がつかない。


 ローファーになかなか踵が収まらなくて苛々した。動かす手足が、早さを増す。駅に着くころには息を切らしていた。汗が背中を伝うのが気持ち悪い。どうして走ったりなんてしたのだろうか。


 つり革に掴まって、何食わぬ顔を作って、読みかけの小説に視線を落とす。活字が頭に入って来ない。文字と文字の隙間に彼女の事が入り込んできて邪魔をする。前を見据えて力強い表情で儚げに涙を零す、酷くちぐはぐな彼女が揺らめく。


 こんな風に気になるのだから、一言でもいいから声を掛ければ良かった。例えばもし、彼女が何も話さなくても、いいようのない罪悪感に支配されることはなかった。万が一、何か相談をされても自分なりに話せば良いのだ。たった、それだけの事なのに。


 いつも友人に囲まれて笑っている彼女の暗い表情が胸を貫いて痛かった。

 悩んでいるような素振りなど見たことがない。考えようにも俺は学校生活内の彼女しか知らなかった。


 仲の良い友人と机をくっつけてお弁当を美味しそうに頬張る姿。


 体育祭の練習で転んで両膝頭に擦り傷を作り佐藤加奈子に連れていかれたあの照れ笑い。


 長崎の路面電車にはしゃぎ、豊富な種類のカステラに輝く瞳。


 黒板の上の方に手が届かなくて笑いながら背伸びしてジャンプする小さな体。


 色白の肌をさらに白く塗って雪女だと文化祭にはりきる姿。


 試験結果に肩を竦めて困ったように笑っていたのは最近だっただろうか。


 ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。彼女の笑顔が廻る。渦の中には笑顔ばかり。


 一人でいる姿を見た記憶がほとんどない。笑っていないのを見た事がほとんどない。授業中の真剣な眼差しと、今日のそれとは種類が違う。


 鞄から携帯電話を出して、小説を片手に持ったまま開いた。時折忘れたころに送られてくるメールを受信ボックスから探し、返信ボタンを押す。

 

 何か悩んでいるなら

 

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 試験勉強


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 体育祭で転ばない


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何で泣いて


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今日の羊雲見た


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明日良かったら


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悩みとか


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 小説も携帯電話も鞄にしまい、先日父が買ってきた英単語帳を代わりに取り出した。志望校なんてない。取り立てて将来の目標もなければやりたい事もない。与えられた参考書を飲み込むように頭に入れて、次へと続ける。虚しい作業。


 指定校の選定に通らないはずがない。受験勉強をする振りをして時間を潰しているに過ぎない。


 電車を降り、ポケットに両手を突っ込んで俯いて歩く。鞄の中の携帯電話に意識が向くのを、英単語を反芻して忘れようとした。


無機質で色のない生活。先ほど見捨てた彼女が思い浮かび、自身への呆れが息になって口から洩れた。


ボタンひとつ押せない臆病で小心者の自分に呆れる。いつまでも成長しない。


「何、大きな溜め息吐いてるの?ケン兄」


 背中を叩かれて振り返ると聡美が立っていた。


「別に。」

「出た、別に。」

「なんだよ。」

「なんだよ。」


 愉快そうに笑う聡美を無視して先に家に入つだ。ローファーを脱いで玄関を上がる。無言で階段へ向かった。聡美はただいまときちんと声を出した。


「ケン兄、手洗いとうがいは?汚い。」


 お前が絡んでくるから面倒で立ち去りたいだけだ、とは言葉を発せず俺は洗面所に寄った。後ろを聡美が付いてくる。珍しい態度に思わず振り向く。


「何?」


 普段そんなに会話をしない妹にぶっきらぼうに告げた。


「ケン兄さ、元気?」


 一体全体どうしてそんな疑問を投げかけようと思ったのか。困惑したようにおどおどしている聡美にどう返そうか思案する。


「なんだよ急に。」

「何か泣きそうだから。」


鏡に写った自分の顔を横目で見ると、捨て犬の様な表情だった。ずっとこんな顔をして帰ってきたのかと思うと恥ずかしかった。


聡美を押しのけて、俺は自室へと飛び込んだ。携帯電話を握り締めベッドに寝転ぶ。


指一本動かすだけだ。たった1つのボタンを押すだけだ。それが出来ない。情けない。


目を瞑ると教室で見た、彼女の泣き顔が浮かんだ。きっと、あの後教室に寄った中原雪菜と亮が彼女に声を掛けた。


大丈夫と笑う彼女を意外に強情な中原雪菜が問いただすに違いない。


女子が泣くなんてたいした事ではなくて、すぐに元気を出して彼女は笑って帰宅する。隣には友人とその彼氏。

明日、教室に入ると彼女は友人に囲まれて笑っている。


そうに違いない。


翌朝、憂鬱な気分で登校すると彼女の姿が教室に見当たらなかった。


遅刻5分前、少し息を切らして教卓正面の俺の前を通り過ぎた。


一瞬目が合ったが、彼女は俯いて前髪を弄っただけだった。その顔は腫れぼったく、目は充血していた。


窓際で寝坊しちゃった、という明るい声がする。窓の外を見るふりをしてチラリと視線を向けると、彼女は照れ笑いしながら暑いと手で顔を扇いでいた。


何かあったようだけれど、すっかり元気なようでホッとした。


その日1日、彼女は笑っていた。


次の日も、次の日も。


それまで通りに友人達の輪の中で、楽しそうにしていた。


夕暮れの教室での事は夢だったのかもしれない。そう感じるほど、彼女が泣いていたことには違和感があった。


そのうち笑顔に慣れて、俺は気にしなくなった。完全に不正解を選択した事を後に知らされた。


夕暮れの教室で、もしも勇気を振り絞り、彼女に声を掛けたなら何か変わっていたのだろうか。


不穏な高積雲が予言していたというのに、妙な胸騒ぎがしていたというのに俺は背を向けた。


新聞の記事からは彼女の真実は読み取れない。失われた正解を俺は知る事を許されない。


ただ1つ確かなのは、夜中に学校に侵入した彼女は1人寂しく空へ身を投げたという事。


そんな行動をするようには思えないけれど、それは俺の妄想の彼女の事でしかなかった。


友人に囲まれ、毎日が楽しそうな彼女の胸の内を誰なら知っているのだろうか。


どうして最後に俺に電話をしたのか。


答えを用意しても正誤をつけてもらえない。


空に溶けて、地面に砕け、透き通ってしまった心にはもう誰も触れられない。

 

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