1-6話 学院領セレネピオス

 窓の向こうに雪を頂いた峰々が連なって見える。ひときわ高くそびえるのはヘイムダルビヨルグの峰、天山とも称される高峰だ。夕暮れ前の日の光を浴びて淡くバラ色に染まって美しい。

 この部屋は昔と何も変わっていないのだな。


 お茶のカップに手を伸ばそうとして、もうそれがほとんど空になってしまっていることに気が付いた。背もたれ椅子の後ろで暖炉の薪がはぜたのかカタンとひとつ音が鳴る。


 次席で静かに控えるアレクサンテリが片眉を上げて入り口のドアを見つめている。彼が珍しく怒っているのがわかるので、私もそれから壁際で控えているリュリュも何も言わず大人しくしている。彼をこんなに待たせるとは、当代の学院長も怖いもの知らずといえよう。


 ノックの音にかぶせるようにドアが開いた。

「大変お待たせいたしております。まことに相すみませぬことで申し訳もござりませぬ。間もなく学院長が参りますので、今しばしお待ちくださいませ」

 彼は先ほどから応対している学院長の秘書だ。かわいそうにアレクの気迫に完全に飲み込まれてしまっている。




「失礼いたします」

ドアが開いて壮年の男が入ってきた。秘書の緊張が解ける。彼が当代の学院長か。


 部屋の下手に回ったその男は背筋を伸ばし、右手のひらを上に向けて胸に副え、静かに左足を引いて腰をかがめた。王侯に対する礼だ。

 私も礼に応えねばならない。立ち上がって右手のひらを胸につける。これが答礼だ。


「お初にお目にかかります。当代の学院長を務めます、アーロン・シーグルド・エヴァンデルと申します」

「こちらは、ナハル高地は聖地アルシュヴァラのあるじ、ローデヴェイク・デ・ランゲ・アルシュヴァラ公におわします」

 家令アルクサンテリによる名乗りがある。ここで自分で名乗らないのが古来からのしきたりだ。


「どうぞよしなに」

 互いに会釈して無事、初名乗りが終わった。



「長らくお待たせし、誠に申し訳なく存じます」

 れなおされたお茶が温かい。

「いえ、突然ご連絡を差し上げたのです。学院長殿もさぞ驚かれたことでしょう」


「ああ、どうぞアーロンとお呼びください。貴方様のことは代々の学院長に申し送りがなされておりました。古くからの文献でございましたので、まさか当代でお目にかかれるとは思いもよらぬことでございましたが」

 堂々たる体躯に似つかわしい落ち着いた声だが、丁寧な物言いがいかにも学者らしい。


「研究棟と学籍を残していただいているとの言伝ことづてを受けて、ご連絡をいたしましたが、なにぶん長期に亘る不在でした。お手数をお掛けしました」

 少しねぎらっておこう。


「いえいえ、そのようなことは。ただ数百年にわたって空席となっていた理事の第一席がお戻りになるとあって、理事会の承認に少々手間取ってしまいました」

「私の事は、理事の皆様につまびらかになっているのですか?」

 あまり、おおっぴらにされても困る。

「いえ、そのようなことはございません。理事、教授方、学院関係者含めてアルシュヴァラ公の件は厳に伏せられております」


「お心づかい、誠に痛み入ります。厳によろしくお願いいたします」

 アレクサンテリが念を押している。迫力がスゴイな。すこし怖いよアレク。

 アレクと学院長との申し合わせで、研究棟の使用許可と学籍の復籍の手続きが速やかにとられていく。


 ああ、そうだ。教授方としての復職となると、いづれ研究室を開かねばならないだろうが、しばらくは外部から学生を引き受けることは避けたいな。確認をとっておこう。

「アーロン学院長、研究室の運営の件ですが、院生の受け入れはしばらく様子を見てからということにしたいのです。よろしいでしょうか?」


「はい。もちろんそれで構いません。ただ形の上だけで宜しいのですが、何か実績を残す必要があると思われるのですが……」


 ん? 誰か押し込んでくるつもりか?

 いや、だがまあ学院長のいうこともわかる。

「そうですね。それでは……リュリュ、ちょっとこちらへおいで。アーロン学院長、私の研究室の院生として、身内枠になりますが、このリュシアンを推挙したいと思います」


 がばっと学院長が顔を上げる。アレクと学院長に見つめられたリュリュは、目を真ん丸にしている。ごめんね急で。

「これは私の弟子で、リュシアン・ラヤラ・ヴィッリラと申します。リュシアン、アーロン学院長にご挨拶を」


「リュシアン、リュシアン・ラヤラ・ヴィッリラと申します。何卒よしなにお願い申し上げます」

 よし、リュリュは立派に挨拶できた。臨機応変に対応できて大変よろしい。

「ヴィッリラ……アルシュヴァラ家の家令ヴィッリラさんのお身内でしたか。それは楽しみなことです」

「私の孫にあたります。何卒よしなに。学院長」

アレクも満足げで何よりだ。


 これで、リュリュもセレネピオス法学院の院生となった。院生ともなれば本来は狭き門であろうが、リュリュであれば遜色はなかろう。




 ようやく客間を辞し、学院長と秘書に見送られながら学院本棟の玄関を出たときには、もう既に夕やみがせまっていた。


「学院長殿、本日はありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします」

「こちらこそ、誠にありがとうございました。何卒よろしくお願い申し上げます」

 学院長とアレクがにこやかに挨拶を交わしている。万事上手く進んだ。


 辺りはもうすっかり日が落ちてしまった。

広大な学院領は人影もなくひっそりと静まり返っている。学院差回しの馬車が来たようだ。




「あ、そうでした。あの申し忘れておりました。あの……理事のおひとりで、准教授のフレヤ・ウルリーカ・リンデル・フォルセクイル女史が、研究棟にご挨拶にお伺いしたいと申し出ておられます。またぜひ、ご都合をお聞かせください」


 フォルセクイルだと? 現王室の関係者か?

 アーロン学院長め、最後の最後になって、こんな爆弾を投下してくるとは、まったく。

 ふうむ、これは、どうしてくれようか。

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