第2話 長すぎた眠り

 玄室げんしつを出ると小さな居間だ。常に柔らかな灯りが灯っている。

「ああ、水があるな。なぜか喉がカラカラだ」

 大理石の小さな卓に水差しが置かれている。

「現状維持は効いてるな? 仙術をかけたはずだ」

 ロオウはグラスに注いだ水を見つめて少し迷ってから、一口で飲み干した。

「ふう、美味いじゃないか!」

 たった今、汲み上げたばかりのように冷たく美味い水だ。


 壁に掛かった鏡に姿を映してみる。自分の姿だ。十代後半の青年が大きな瞳でこちらを見つめてくる。スッと伸びた手足が若々しい。

「ふむ。少し育ち過ぎてはいないか?」

 前回もその前の復活も目覚めたばかりの時の姿は、もっと小さな幼な子だったはずだ。


「どうやら、寝すぎたか? アレクに心配をかけてしまったかもしれんな」

 アレクことアレクサンテリ・アードルフ・ヴィッリラは長年、彼の家に仕えてくれている家令だ。ロオウは何もかも生活の大半を彼に任せてしまっている。長命なロオウに仕え続けるのだ。アレクも当然、人の子ではない。随分と昔にロオウが造り出した特殊なホムンクルスである。


「少しはアレクの機嫌もとらんとな……」

 いつまでたっても目覚めてこないロオウの帰りをおそらく大層心配して待っていることだろう。館を守るホムンクルス達の顔が思い浮かぶ。これは土産が要るな。

「ちょっとマズイな。早く帰還しよう。一体どれほど眠っていたのやら……」


 壁面に並ぶ衣裳箱の抽斗ひきだしを開けて衣類を選ぶ。いつまでも裸でいるのも寒くなってきた。

「普通はチェーニクだが……うっ、裾が短いな」

 少し考えて裾の長いブリオールを取り出す。

「これもだめだ。胴が入らない」

 今回の復活は体格が大人に近いほどに育っていたせいで、どれも着ることができなかった。

「いつもの幼子の姿に合わせてあつらえたからな」

 古代然として顰蹙ひんしゅくを買いそうだが即席の貫頭衣の上にトルガを羽織るしかない。トルガならひだを取って羽織れるよう大きな一枚布にも余裕がある。

 履物はきものは柔らかい革を幾重にも巻きつけて紐で縛ればいいだろう。

 まあ、何を選んでも時代が変わっているのだから古くさい姿になってしまうのは避けられんのだ。ロオウは考えることを放棄した。



 玄室のある聖地は深山幽谷、針葉樹の大木が連なる大森林にある。見上げると高い梢を隠すように深く霧が漂い、静謐せいひつな大気が満ちている。


 間もなく夜が明ける。

 大森林の木立ちを縫う小径こみちの先に、やがて切り立った岩山が見えてくる。このごつごつとした岩山の頂に、いにしえからの神木がそびえ立っているのだ。

 夜が明ける少し前の澄み渡たる大気の中、ロオウはひとり神木を目指して急いでいた。

 この地にしか育たぬ神木のその花の蜜はホムンクルスの大好物だ。命の妙薬と喜んでくれるはずである。


 岩山の頂きに立つ。暁の淡く眩しい光の中、眼下には広大な大森林が広がっていた。

 ここはロオウが独り立ちした折、その一族から分け与えられた仙境だ。周囲に強固な結界を張り巡らせているので、余人はその存在すら感じ取ることはできない。完全に隔絶された世界である。


 岩山の頂に一際大きな神木が高く聳え立っている。その堂々とした幹に寄り添うと、厳かな神木の声が聞こえてくるような気がするのだ。


「古えの神木よ、久方ぶりです。貴方はおかわりありませんね。私は今朝、七度目の復活を遂げました。生れ落ちてからもう二千年を生きてきたことになります」

 自分よりもずっと長く生きてきた神木のそばに立つと、なぜか心が落ち着いてくるのをロオウは知っている。


 神木の根元にしばらく座り込んでいたロオウは、熟れてこぼれた木の実が幾つも転がっているのに気がついた。しかも少し芽を吹いている。

「ほう、これは珍しい。神木の苗木とは」

芽吹いた木の実を傷まぬようそっと拾い集める。

「花の蜜は急がないと採れなくなるな……」


 仙術でも使っているのだろうか、何の足がかりもない巨大な神木の幹に沿ってロオウはするすると上昇する。

 樹冠に咲く花の蜜は朝露の消えぬうちに採取しなければならない。

「まだ咲き始めたばかりだな。なんともかぐわしい」

 館で待つホムンクルス達の喜ぶ顔が目に浮かぶ。

ロオウはひとしずくひとしずく、慎重に花の蜜を小瓶に集めはじめた。


 馥郁と漂う花の香りに酔いそうだ。

 ロオウは石棺で眠っていた時に見た夢を思い出していた。

「あれは南国の密林だった。しかもいくさの只中、私は野戦病院で治療に明け暮れていた……」

 そうだ……あの後、あの夢は覚めてしまった。野戦病院の私の患者達はどうなったのだろうか。


 いつもより眠りが深かったせいだろうか。夢の中のこととは思えぬほど、細部まではっきりと思い出され、現実のことのように迫ってくる。

これはどうしたことだ。まだ夢から覚めきっていないのだろうか。


「これはいかん。私も蜜を少しいただくかな」

 そうすればきっとスッキリした気分になれるはずだ。そうだ、そうして早くアレク達の元へ戻ろう。


 私はこの時、あれはただの夢で覚めてしまったら消えてしまうものだとばかり、簡単にそう考えていたのだった。

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