その二

 多治見さんは相変わらず集中した表情で、目をぎょろつかせるように凝視したままパチッとやはり私が構えた左辺に打ち込んできた。上につけて封鎖すると横に這い込んで来る。一間いっけんの穴を埋めるためにつぐとスベられて、それ以上進まれないためにコスミで止めると、もう一方をまたスベられて――また簡単に生きられてしまった。

 私はまた前屈みに手を顎にやって、いま生きられたばかりの所をじっと見つめながら考える。と、いうか考えてもどうしようもないのがわかっていながら、見続けてしまった。ひょっとしてこれから殺す手がないだろうかという、自分でも都合のよすぎる考えとわかっている淡い期待の手の模索と、もっと他に打ち方はなかっただろうかという今更考えても仕方がない後悔の悩みだ。

「まあ生きられても上に壁作れたから――」

 また向かいから声をかけられた。多治見さんは常々、『勝負どころで考えるのはいいけど、もうどうしようもないところで長考したりするのは相手に迷惑をかけるから良くない』と言っている。実際、さっきの石を取られた際に声をかけられたのもそういう状況だった。

「こう行ったほうが良かったでしょうか」

 私は相手の声を幸いに、辺の星の黒石からの3線の鉄柱(※4線の位置から3線に石を並べて打つこと。強固な守り)に打ち付ける振りをして、進行中の対局で本来やるべきでない過去の手の是非の検討を試みてみた。これもいつも弱い私の相手をしてくれて親切に教えてくれる多治見さん相手だからできることだ。

「う~ん。そっちの方が追いまくられて怖かったかな。根拠奪われちゃうからね。白が一間いっけんにトンだ後、こう追いかけて――」

 黒石を自分のアゲハマ(※相手から取った石の事)から取って、実際に打つふりをする。

「――白の辺とのカラミにするのかな。でも白が生きたといっても実際、黒はその分外勢張ってるから悪くないよ。白が元々上に厚いし、ちょっと得した感じだけど、まだ黒がリードしてるよ」

 私はうなずいた。



 ――この碁会所では若い人が少ないと言って、すぐに歓迎された。過去子供教室に通っていたこととその時の級位を話すと、やはり同じ級位者の人達(全員お年寄りばかりで、中には女性もいた)と手合いを付けられて、何度か打ってみた。もう10年以上も打っていないのに、打ち方を意外と覚えていることに自分で驚いた。やはり自分から好き好んででなかったとはいえ、一時期集中して打っていたおかげで、頭と体に染みついていたようだ。結局、8級という事になった。席亭が言うに、碁会所によって同じ強さでも段級位の基準が違うらしいので、一概には言えないが、やはり長い間打っていないので忘れていた面もあり、それで1級下がったという事なのだろう。特に序盤の布石や定石で戸惑うことが多く、一度などウッテガエシ(※相手の石を取った瞬間、相手にも取られる特殊な形)も完全にうっかりし、文字通り頭を抱えてしまった。相手の70代後半らしい、体が細く衰えて、頭もほとんど禿げ上がっているが、やたら眼だけはギラギラ光って碁を打つのが元気なお爺さんは、私からそのウッテガエシの石を3個取り上げると、笑顔を浮かべて得意そうに手でもてあそんだ後、ジャラリと碁笥ごけの蓋に乗せた。そのお爺さんは4級とのことで、下手したての私に対して得意がっても仕方ないと思うのだが、別に私はそれで気分を悪くもしなかった。久しぶりに打つ碁の蘇る感触、そして現に今このゲームを通して関わる相手が目の前にいて、碁会所という居場所を得たことに軽い興奮と感動を覚えていたのだ。ここに入るまでの頭にもやがかかったような気分は完全にではないが、ほとんど振り払われていた。

 それからここには土日や祝日の休みの日ごとに通った。しばらく打ち続けると、感覚も蘇り、何より、実際に勝負をし、対局相手や観戦者の他の上手うわての人に手の指摘を受けることで手を覚えていき、少しずつ強くなっていった。子供の頃と違い、自発的に取り組んでいるのが大きかっただろう。とにかく、そうして居場所を得たことによって、私の心の隙間は埋められた。実際にこうしてみる事で、いかに以前の私がいかに生ける屍のような空虚な感情で日々を過ごしていたか思い知らされた。

 通い始めて一月ほどたった頃、私の元に中学時代からの同級生からのメールが届いた。



 結局私は14目負けた。あまりにひどい手やうっかりミスは多治見さんが指摘してくれた上、優しく直してくれたのだが、それでもあちこちの黒石はボロボロになり、これだけの大差がついた。しかし、今の私は5級で、多治見さんは六段。本来九子きゅうし置いても手合いが足りないほどなのに、多治見さんはいつもあえて七子ななししか置かせないのだ。言うには、九子きゅうしも置かせるとどうしても白は無理な手ばかり打つようになってしまうので、お互いのために良くないとのことで、あえてどんな相手にも七子ななしまでしか置かせないという。たしかに、両辺の星(※碁盤上の位置の目安。この場合は辺のちょうど真ん中の等分点)が空いているだけでだいぶ碁盤の景色が違う。それにしても、いつも多治見さん相手に二子にしどころか三子さんし置いても負けている四段の人相手に(極端な肥満体というのでないが、顔も体も丸々しており、いつも陽気にはしゃぐ、多治見さんと同じ60過ぎくらいの人だった)九子きゅうし置いても、時には30目も40目も、多治見さんを相手にする時より大負けするのは自分でもよくわからなかった。以前、そのことについて訊いてみると、

「あの人は無理するからね」

と答えが返ってきた。

「手にならないところでもむちゃくちゃやって、高橋君が間違えるから結局ごまかされちゃう。ほんとは無理な着手はやめて控えて打つべきなんだけど、そういうのをきちんと咎めるのも勉強だからね。そのうちちゃんと出来るようになるよ」

との事で、要は私の受け方がまずすぎるという事らしかった。

 局後の検討と私の着手の手直しが終わると、多治見さんは休憩のため立ち上がって、碁会所の入り口入ってすぐのカウンターの所に行き、席亭と話を始めた。

「マスター、あのこの前もらったトマト美味かったですわ。あれどうやって育ててるんですか?」

 席亭が答えると、そこから二人で世間話が始まる。二人が話していると、周りの対局の手の空いた別の人二人が話に加わり始めた。一人は70代の女性だ。皆で食べ物の話から始まって、旅行のことなど様々に話が発展する。四人の高い楽しげな声が私の耳に届いて来る。60代らしい多治見さんが一番若く、席亭ほか三人は70を超えていたが、そうとも思えない元気と明るさで、人生が充足しているという感じだった。私はその声にじっと耳を傾けてはいたが、まだ若くて人生経験が乏しくてうまく話に参加が出来ないのと、やはりまだまだ囲碁自体に対する興味が強いのがあって、さっきの対局をパチパチと一人で並べ直しては考え込んでみてた。

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