7 童貞は二度死ぬ

——昔から、電車の座席に座るのが嫌いだった。

正面に人が座ると視線のやり場に困るし、すぐ隣に人が座るのも領域を侵犯されているような気分になって最悪だ。

だから、俺は決まって電車の最後部の車両の一番後ろに陣取って、壁に寄りかかって窓の外を眺めた。

最後部の車両を選ぶのは、一番人が少ないからだ。……その点では最前車両も同じだが、万が一脱線事故などを起こした場合を考慮すると、どうしても最前の車両には乗れなかった。

気にし過ぎだと笑われるかも知れないが、俺は案外こういう部分が生死を分かつと考えている。

街を歩いているだけでも、ビルの屋上から自殺志願者が降ってきて、巻き込まれて死ぬというリスクは考えられる。実際にそういった事故は存在する。

不運だったと人は言うだろう。だけど、単なる不運で死んだんじゃ困るんだ。俺には野望があるんだから、避けられる『死の可能性』は避けておきたい。

家に引きこもっていたって民間人が運転するヘリコプターが空から落ちてくる時代だ。完全に安全な場所など存在しない。

それを理解した上でも、最前の車両ではなく最後部の車両を選ぶという小さな積み重ねを日々行っていくのが俺の密かなポリシーだ。


それは今日という日も例外ではない。

俺は列車の最後部の壁にもたれかかり、いつもそうしているように外の景色を眺める。

そんな俺の考えに、いつだったかぼたもちは「付き合いきれないな」と吐き捨てた。

気持ちは分かる。別に誰もがそうするべきだとは思わない。……誰もがそうしたら最前車両はもぬけの殻になってしまい、後ろの車両は今の倍以上混み合うだろう。それはそれで最悪だ。

とまあ、そんな俺に付き合いきれないぼたもちは今、近くの座席に腰掛けて携帯を弄っている。朝、駅前で合流して同じ場所に向かっているにも関わらず、俺とぼたもちは他人のように振る舞っていたのだった。

車内は比較的空いていた。日曜の朝だからだろう。

窓の外の景色は見ていて飽きない。ものすごいスピードで流れていく視界から街の断片を切り出して、それをとっかかりにして様々に想像を働かせるからだ。

ほぼ同じ外観の家が密集して立ち並んでいるエリアがある。きっとここ数年で開発が進んでいるのだろう。それらのクローンのような家は、若い夫婦が済むには適切な価格で販売されるはずだ。二十年後、この街はさらに活気を増しているかも知れない。

かと思えば、踏切を跨いで展開している古い商店街が見える。全体的に活気はなく、まるでシャッターの展示会場のようだった。最盛期を過ぎていることを如実に表している。

その中で唯一営業を続ける服屋の前には老年の男性が所在無さげに立っていた。きっと店主だろう。客は存在しない。店内の品揃えは乏しそうで、色は黒、グレー、カーキ、モスグリーンなどとダークトーンばかり。見ているこちらまでげんなりしてくる。

しかしこの商店街も、もしかしたら二十年前には肘ヶ谷リバータウンに劣らない活況を見せていたかも知れない。

調べればわかることだが、重要なのは事実じゃない。いかに想像を働かせるかだ。

二十年前にこの見知らぬ土地に住んでいた人たちをいかに想像するか。

この『街だった場所』の物語を、いかに頭の中で生き生きと動かすことができるか。

俺の主題はそこにある。『他人』という想像の及ばない人種の人生を捉えることができるか——だ。

その為に俺は窓の外を眺めている。

しかし、しばらくそうしていると、だんだんとそのことに飽きてくる。想像という行為は、疲労を伴うものだ。

そんな時は、イヤホンから流れる曲に耳を傾けるに限る。

——ちょうど、アニメ『女神ラブ!』の劇中歌『メガメガ・ラブビーチ!』が始まったところだった。

風の速度で移動する風景をイメージ映像に、歌詞の意味を噛み締めながら聴き入った。





アニメ『女神ラブ!』第五話劇中歌

「BEACH!!」デビューシングル『メガメガ・ラブビーチ!(short ver.)』


—————————————————————————————————————

サンサンと照ってる

ランランと踊りだす

女神と目が合った……


浜辺に記された 私の弱い心は

さざ波にさらわれて 夏のように溶けた


海に投げ出された 私の淡い決意は

流されて流されて どこに向かうのかな?


でもでもそんなんじゃ つまんないじゃん?(青春じゃん!)

いつだってやる気満々 準備万端!


だから……

サンサンと照ってる(sun!)

ランランと踊りだす(heart!)

女神と目が合った!?

キラキラトキラメク(eye!)

メラメラと燃え上がる(love!)

勝利を呼ぶprivate beach!!


海に投げ出された 私の淡い決意は

抗って抗って どこに向かいたいと

願ってる?


だってだってそんなんじゃ つまんないじゃん?(二度はないじゃん!)

いつだってやる気満々 準備万端!


だから……

サンサンと照ってる(sun!)

ランランと踊りだす(heart!)

女神と目が合った!?

キラキラトキラメク(eye!)

メラメラと燃え上がる(love!)

勝利を呼ぶprivate beach!!

—————————————————————————————————————


——秋も深まってだんだん肌寒くなってきた。この明け透けなほどの透明感に満ちたサマーチューンは完全に時期外れである。

だが、それを差し引いても『メガメガ・ラブビーチ!』は神曲だ。血が燃えたぎる。

ザ・アイドルソングという感じ。ど真ん中直球。皮肉な視点が一切介在していない。彼女たちが世界は素晴らしいと言ったら、微塵も濁りなく世界は素晴らしいのだ。裏の意味などない。

混ざり気のない純然たる存在。——そんな視線に、俺がどれだけ救われているか。

聴くだけで気分が高揚して「よし、やってやろう」という気分になれる。

今日のような日にうってつけだ。

——今日は、メガラブオンリー即売会『メガメガ・ラブパーティ』——通称『メガパ』のイベント当日だ。

つまり、俺が幼女にそそのかされて勝手にイベントに申し込んでから三週間が経ったということ。

ぼたもちの怨み節をBGMに原稿に取り組む日々はあっという間に過ぎ、今は十月初旬。

そろそろ『年末』という忌まわしい呪詛的な単語が聞こえてきそうだ。こうして原稿に明け暮れていると、時間というものは悪魔の管理下にあることがはっきりと分かる。

……だって、天使だったら少しくらいは待ってくれそうなものじゃないか?


『次は〜蒲畑〜、蒲畑〜』


車内アナウンスが流れると、ぼたもちがおもむろに立ち上がり、俺の隣にやってくる。

「またここに来てしまったな」

そう言って、彼はまるでフランス人が皮肉を言う時のように口角を上げた。実際にはそんな場面は見たことがないが、なんとなくそう思った。

俺はただ頷く。だいたい同じ感想だったからだ。

そう。またここに来てしまった。……一カ月ぶりか。しばらくは来ないと思っていたのに。

電車が到着し、ドアが開き人を吐き出す。ホームに降りると、どうやら同じ目的でここにやってきたのだと一発で分かる人たちが続々と目の前を通り過ぎていく。

サークルとして参加する人はたいてい大きな荷物を持っていたり、リュックにポスターを刺していたりするので一目で分かるのだ。

——そうじゃなくても目の輝きを見れば同類だと分かるのだけど。彼ら、彼女たちの眼差しはパティシエになりたいと願う童女のそれと一致する。つまりキラッキラだ。

ゆるやかな人の波に乗って改札を出て、会場まで並んで歩く。

「そういえば飯食った?」

ぼたもちが俺に訊ねた。俺は首を振る。

「いや。でも昼でいいよ」

「昼に抜けることなんてできない状態が理想なんだけどな」

「人を捌くので手一杯になって?」

「そ。まさに壁サー状態。空腹を感じる暇もない。嬉しい悲鳴をあげたいなあ」

夢物語をうっとりと語るぼたもちだった。俺も野望は高ければ高い方がいいと思っているが、今回に限ってそれは望めないだろう。

なぜなら。

「コピー本じゃ無理だろ」

「……ですよねー」

端的に真実を言い当てると、ぼたもちは急にクールダウンしたようだ。原稿に充てられる期間の短さと、限られた予算を鑑みて、今回はコピー本——つまりコピー機や家のプリンタで出力した紙を手で簡単に製本したもの——を出すことに決めたのだった。

こういう簡素な本でも頒布できる【敷居の低さ】はファン活動である同人の魅力だが、クオリティ面で見ればもちろん印刷所で印刷・製本をした本にはまるで及ばない。

だから一般的に言って、コピー本がバカ売れすることは考えにくいのだ。

「……どうせ今日も暇だし、交代で昼抜けて飯食うか」

「そうだな」

今回は本気を出せなかった——そんな思いもあって、二人で肩を落とした。なんとも哀しい会話である。


蒲畑駅を降りて数分歩けば、『メガパ』が催されるイベント会場・蒲畑コミュニティセンターに着く。見た目は『ちょっと大きめの公民館』のような少し古びた公共施設で、先月も俺たちはここで催された同人イベントに参加していた。

——そう。ブラン・ノワールとの出会いを演じたあの舞台である。今となっては良い思い出……じゃないのが残念だ。

あの時は『メガパ』とは違うイベントだったが、どちらもメガラブオンリーイベントのため、さほど代わり映えしなさそうだ。会場が同じだし、俺からすれば、主催者が違うだけで見える景色は同じだった。

会場に着くと、すでに百人ほどが入り口の前で所在なさげに立っていた。仲間と話していたり、一人で携帯を弄っていたり、道端に座り込んで読書していたりと様々だ。

俺たちはその輪郭のはっきりしない行列のような塊の最後尾あたりまで行き、そこで運営スタッフからの号令を待った。

さほど規模が大きくないイベントだし、開場前の入場者の整理はされていなかった。どこに立っていても問題はなさそうだ。開場の時間も迫っている。

「…………」

「…………」

俺たちに特に会話はなく、ただ号令を待つ。周囲にいる人間を観察したり、携帯を弄ったり。

すると、駅の方から見知った二人の女性がこちらに歩いてくるのが見えた。

「「あっ」」

向こうもこちらに気づいたようだった。一人は丁寧に会釈をして、もう一人は豪快に手を振った。

前者が幼女で、後者がミナミである。まったく対照的な二人。

俺たちを『メガパ』に誘った張本人のお出ましである。

彼女たちは当たり前のようにこちらに向かって歩いてくる。その振る舞いが少し嬉しかったりするが、男が廃る気がして誰にも言えやしない。

幼女は花柄のワンピース姿だった。オタクにとって永遠の理想である『風に揺れる夏草の中で帽子を押さえながら微笑む清純な黒髪美少女』が着ているようなそれと酷似しているが、幼女はあくまでギャルだ。まったく文脈が異なる。今日も今日とてつい視線を寄せてしまう激しい胸の膨らみ方も異なる。

むしろ顔立ちだけで言えば、その『永遠の黒髪美少女』により近いのはミナミの方だ。

——どちらかと言えば、だ。ミナミの性格を知ってしまった以上は美少女などと口が裂けても言いたくない。

今日の頒布物である本が入っているのか小さなキャリーケースを引いたミナミは、黒のスキニーパンツに白Tシャツ、その上に青いカーディガンを羽織っていた。さほどオシャレに気を遣っているようには感じないが、不思議と垢抜けて見えた。高校一年の割には大人びた顔と細身のスタイルのおかげだろう。

二人は俺たちの前で立ち止まり、幼女がにこやかに言う。

「おはようございます。昨日ぶりですね。改めて、今日は参加していただいてありがとうございます」

「……おはよう、二人とも」

幼女の発言の中にちょっとマズい情報が含まれていたので、俺は別の話題を探そうとした。

「おはようございます、幼女さん! ……って、アレ? 今……昨日ぶりって」

ぼたもちは目ざとくそのことに気づく。変なところで鋭いやつだ。

「いや、違うんだ——」

「おはよう!」

弁明しようとするも、ミナミの挨拶に打ち消された。

「ジャックナイフさんは幼女先輩ととても仲良しなので、よくクメダコーヒーに来て二人で一緒に執筆してるんだよね♪ ……っていうか、知らなかったんだ?」

「…………」

ミナミってなんだかんだで空気を読める奴だと思ってたが、買いかぶりすぎていたようだ。

——いや、人のせいばかりにしていても仕方ないか。ぼたもちに秘密にしていた俺にも非があるのだろう。基本的には俺の部屋でぼたもちとともに原稿に取り組んだが、週一から二回——おもに週末——だけは、幼女と約束をしてクメダコーヒーで会っていたのは事実だ。

弁明の手だてなどカケラもない、ただの事実だった。

もしも閻魔大王に「本当にやましい気持ちが微塵もなかったのか」と訊かれれば俺は膝から崩れ落ちて泣き、地獄行きが決定するのかもしれない。だけど、どちらかと言うと同じ小説書きに巡り会えたことに舞い上がり、情報交換をしたかったというのが真実に近い。別にデートをしていたわけじゃないのだ。

ただホワイトノワールを食べながら会話して、意見を交換しながら執筆をしていただけだ。

「ジャックナイフ君……どういうことかな?」

ぼたもちは今までに見たことのない善人のような笑顔で俺に詰め寄った。善人顔ほど信用ならないものはない。

「打ち上げでゆっくり話を聞かせてもらおうか?」

「いや……別にやましいことはないぞ……」

「当たり前でしょ? 抜け駆けはダメダヨ」

「…………」

いや怖い。顔が怖いし、ドス黒いオーラも怖すぎる。

すると今度は、ミナミはぼたもちに対して謝罪した。

「あっ。それとごめんね、ぼたもちくん。何度かお茶に誘ってもらってたんだけど、予定が入っててさ〜♪」

「!」

——新たな爆弾が投下された。

一瞬四人の空気がピタリと止まるのが分かった。漫画の特殊能力みたいだ。

「い、いや、いいんだ……ぜ。はは。イラストの情報交換でもどうかなってだけだった……し……」

ぼたもちはちらりと俺を見た。俺は笑っていたはずだ。

微笑ましいじゃないか。親友が女の子を熱心にお茶に誘ってるんだぞ。微笑ましい限りじゃないか。ホホエ・マシーカ・ギリダ。

「こわい」

ぼたもちは涙目だったが、心外だ。こっちはニコニコしていたというのに。

「今日の打ち上げは楽しくなりそうだ」

俺が皮肉たっぷりに言うとぼたもちは「あはは……」と曖昧に苦笑いして頭を掻いた。

「ま、まあアレですね。小説作家同士と、絵師同士。……いろいろと共有したいこともあるでしょうし……」

幼女は誰をフォローしているのか分からないことを言った。妙にドギマギしているのが表情から見て取れた。ギャルなのにウブな反応——とか言うとまた偏見になるか。

「…………」

四人の間に何とも言い難い微妙な空気が流れる。話すべきことがまったく思い浮かばない。

するとその時、入り口付近から大きな声が聞こえた。

「サークル参加の方はこの入場口からお入りくださ〜い! ドアの前にスタッフがいますので、そちらでサークル入場券を提示してくださいね〜!」

ホッ。やっと入場できる。俺は胸を撫で下ろした。タイミングもベストだった。

「じゃ、行きますかね……」

「そ、そうだな……」

「は、はいそうですね……」

「レッツゴー♪」

一人能天気が混じっているのをツッコむ余裕はない。俺たちは無言で開場に入り、それぞれのスペースへと別れた。


——そうして、波乱(?)のイベント『メガメガ・ラブパーティ』は幕を開けようとしていた。

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